北京オリンピック名勝負 最終話「スピードスケート女子1000m」有終の美を飾った女王たち





2月17日北京オリンピック大会14日目、スピードスケート女子1000mが行われた。

本種目には、日本女子スピードスケート界を牽引してきたふたりが登場する。
小平奈緒と髙木美帆である。

彼女たちにとって、大会最後の競技となる。
果たして、悔いなき滑りを全うできたのだろうか。


Number(ナンバー)1046号 完全保存版 北京五輪熱戦譜

スピードスケート女子1000m

本種目では髙木美帆が金メダルを獲得した。
冬季オリンピックで日本人最多メダル数を誇る彼女だが、個人種目としては初の金メダルとなる。
これで通算7個(金2・銀4・銅1)となり、夏季を含めても内村航平と北島康介に並ぶ日本人最多記録に並んだ。

銀メダルはオランダのユタ・レールダムである。
大会前は苦戦を予想されていたオランダ勢だが、さすがスピードスケート大国といったところであろうか。

そして、銅メダルを手にしたのはアメリカのブリタニー・ボウとなった。
この種目の世界記録保持者のボウだが、意外なことにオリンピックの個人種目としては初のメダル獲得であった。

「悲願の個人種目金メダル」髙木美帆

第11組のレールダムが、オリンピック記録に0秒26差まで迫る1分13秒83という好記録を出してトップに立つ。

これを受け、髙木美帆は第13組に登場した。
スタートダッシュで加速し、200mの入りは17秒6と全選手中トップで通過する。
元々、1500mを本職とする中距離タイプにもかかわらず、スピードでも短距離選手に負けていない。
恐るべきポテンシャルである。

600mでは、レールダムとほぼ同じタイムで回ってきた。
後半強い髙木美帆だけに十分期待がもてる。

最終コーナーも滑らかなスケーティングでスピードを持続し、直線を向いても伸び続ける髙木美帆の滑り。

そのままゴールに飛び込むと、1分13秒19のオリンピック新記録を叩き出したではないか!
レールダムを0秒64も上回る会心の滑りで、個人種目初となる悲願の金メダルを勝ちとった。
思い起こせば、シニアの大会で初の表彰台に立ったのが1000mだったと言う。

髙木美帆にとって本レースは5種目7レース目である。
誰もが無謀な挑戦だと危惧していた。
とうに体力の限界を超える中、低地にあるタイムが出ないリンクでのオリンピック記録には驚かされる。
しかも、過酷なレースに挑み続けた結果、肺に炎症を起こしながらのレースだったのだ。
まさしく、精神が肉体を凌駕した神域無双の滑りといえるだろう。

あと、感じたのはヨハンコーチの存在の大きさである。
大会序盤は今一つ調子が上がらなかったが、彼が合流した500mからの快進撃は偶然ではないだろう。

日本選手団の主将で臨んだ今大会。
500mから3000mまでの全種目で入賞を果たした髙木美帆の名は、史上最高のオールラウンダーの一人としてオリンピック史に刻まれた。

「心優しき世界記録保持者」ブリタニー・ボウ

ブリタニー・ボウには、500m金メダリストのエリン・ジャクソンとの心温まる逸話がある。
黒人女子スピードスケーターとして、初のワールドカップに勝利したエリン・ジャクソンは、北京オリンピック500mで優勝候補に名を連ねていた。
ところが、オリンピック選考会で3位となってしまう。
アメリカの出場枠は2名ということもあり、今季ワールドカップで8戦4勝のジャクソンが落選の憂き目に遭うことが濃厚となった。

だが、そのことを悲しんだブリタニー・ボウが待ったをかけた。
すでに他2種目でオリンピックの代表権を得ていた彼女は、フロリダ出身の同郷ジャクソンのために500mの出場権を辞退したのである。

ボウは言う。
「彼女がオリンピックで滑るために、私にできることがあれば、どんなことでもしたいと思った」

その後、出場枠の再分配によりボウも出場できることになり、ふたりは共に500mの舞台に立つことができた。
そして、髙木美帆に僅差で勝利したのが、エリン・ジャクソンだったのである。

そんな心優しいブリタニー・ボウがメダルを獲得できたことは、髙木美帆の金メダルの次に嬉しく感じた。

「素晴らしき人格者」小平奈緒

4大会連続となるオリンピック出場となる北京オリンピック。
その最後の種目に、小平奈緒が登場する。
今回はスタートを決め、氷に自分の思いを込めながら力走した。
だが、本来の滑りとはいかず、10位に終わった。

実は、大会1ヵ月前に雪道で右足首を捻挫し、全く氷の上を滑ることができないまま北京入りしていたのだ。

小平は語る。
「足首に力が入らない中、全身を使って今の状況を乗り越える滑りができた」

だからこそ、500mの時とは異なり、自ら手を叩きながら晴れやかな表情を浮かべていたのだろう。
小平が目標にしていた“自分のしたい表現”を出来たのではないか。
まさに、自身がレース後に語った「成し遂げることはできずとも、やり遂げることはできた」という言葉を体現したレースであった。

思えば、小平奈緒ほど様々なことにチャレンジし、ここまで自らの滑りを磨き上げてきた選手はいないだろう。
どうしても世界の壁を突き破れず、スケート大国オランダにも留学した。
究極の身体操作を習得するため、古武術の門も叩いた。
そうした中で己の人格も高めていき、いつしか「氷上の哲学者」と呼ばれるようになる。

平昌オリンピック以降、金メダリストとしての重圧に加えて、怪我にも苦しむ日々を送った。
だが、小平奈緒の本質は全く変わらない。
長野県で生まれた彼女は、あくまでも地元密着にこだわりながら競技生活を営んでいく。
それは金メダリストになった今も変わらない。

そうした小平の姿勢がよく分かるエピソードがある。
2019年10月の台風は、長野県にも甚大な被害をもたらした。
その災害の爪痕に心を痛めた小平は、居ても立っても居られず災害ボランティアに身を投じる。
被災家屋から出たガラス等の廃棄物を片づけていく。
そして、泥を被り変わり果てたリンゴ畑から土を撤去する。
こうした重労働を朝から日が暮れるまで、一切手抜きをせず黙々とこなしていく小平奈緒。

ボランティアに参加した動機について小平は述懐する。
「長野で生まれ育ち、地域に支えてもらった。応援されるばかりではなく、応援できる人でありたいと思った」

このときの経験を基に、小平はリンゴ農家との縁ができる。
少しでも被災地の励みになればと、赤と白のユニフォームを着てレースに臨んだ。
その姿は、多くのリンゴ農家の人々を勇気づけた。
小平奈緒の在り方は、地域と共に歩むアスリートの理想の形に思えてならない。
こんな小平だからこそ、相澤病院理事長・相澤孝夫さんも快く支援を続けるのだろう。

そして、何といっても小平奈緒で思い出すのは、平昌オリンピックで五輪3連覇を逃し、号泣する李相花(イサンファ)の肩を優しく抱く姿だ。
ライバルであり親友でもある李相花は引退後も、アドバイスをはじめ様々なメッセージを小平に送ってくれたという。
オリンピック金メダリストにしか分からない重圧、苦しみを誰よりも知る李相花は、小平の気持ちが痛いほど理解できたに違いない。

今大会のレース後、ふたりが再会を果たし旧交を温めた姿に、我々も温かさのおすそ分けを頂いた。
小平奈緒には、やはり李相花が欠かせない。

まとめ

日本が世界に誇る髙木美帆と小平奈緒は、日本スピードスケート界の至宝である。

会心のレースで金メダリストに輝いた髙木美帆。
メダルには届かなかったが、今できる最善を尽くし、清々しい表情でレースを滑り切った小平奈緒。
そして、世界記録保持者として臨んだレースで銅メダルを手にしたブリタニー・ボウ。

3人の女王にとってスピードスケート1000mは、それぞれが己の力を出し切った有終の美を飾る素晴らしきレースとなった。


Number(ナンバー)1046号 完全保存版 北京五輪熱戦譜。

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