北京オリンピック名勝負⑬「フィギュアスケート女子シングル」歓喜と絶望の間で





フィギュアスケート女子シングルをテレビ観戦した。
私は、これほど喜びと苦痛が交差する複雑な気持ちで、フィギュアスケートを観たことがない。

今大会で最もショッキングだったカミラ・ワリエワのドーピング問題だけでなく、リンク外で様々な喧噪を巻き起こしたエテリ・トゥトベリーゼ陣営をよそに、氷上で4年間の思いをぶつける選手たち。
一連の騒動で最も影響を受けた被害者は、フィギュアスケーターたちに違いない。
そんな中でも、懸命に己の演技を全うしようとする選手たちの姿には、心動かされるものがあった。

当初、私はフィギュアスケート女子シングルの試合内容については、当ブログで扱うのを逡巡していた。
だが、改めて彼女たちの滑りを観て、スキャンダル以上の価値があることに気付かされる。

全米チャンピオンに輝いたマライア・ベルは25歳とは思えない明るい笑顔が印象的で、いつまでも元気溌剌とした10代のおてんば娘といった雰囲気が色褪せない。
とある記事にもあったが、ラファエル・アルトゥニアンの弟子たちは、どこか皆いたずらっぽい笑顔を忘れず健康的に見える。
“一瞬の閃光を放っては泡沫のように消えて行く”ロシア女子フィギュア界を見るにつけ、改めて息の長い健やかな選手生活を送る価値を思う。

そして、何といっても日本人選手とメダリストの戦いは称賛に値する。

日本人選手

河辺愛菜

ショートでは、冒頭のトリプルアクセルで転倒するも、その後は見事にリカバリーしオリンピック初演技を終えた。
ビバルディ「四季」より「冬」の曲調が、河辺の滑りにとても似合っていたように思う。

フリーでも、得意のトリプルアクセルに挑むが決められず、流れに乗ることができなかった。
緊張もあったのだろう。
本来の力を発揮できずに、初のオリンピックは終わった。
だが、河辺はまだ17歳だ。
三浦&木原ペアのアイスダンスの応援で、観客席で笑顔を見せる姿に少し安堵した。

樋口新葉

ショートで、いきなりトリプルアクセルを決めた樋口新葉。
オリンピック史上5人目の成功者である。
日本人としては、伊藤みどり、浅田真央に次ぐ3人目となった。
そして、フリーでも冒頭でトリプルアクセルを着氷した。
ショート、フリーの両方で、この大技を成功させたのは浅田真央以来2人目の快挙だ。

素人目にはショート・フリーともほほ完璧な演技に見えたが、ジャンプの回転不足など細かいミスがあり、思ったほど点数が伸びない。
だが、躍動感あふれる滑り、特にステップシークエンスは素晴らしかった。
心躍るとは、まさにこのことだと思わせる。

団体戦でも日本のメダル獲得に貢献した樋口新葉は、総合5位という結果以上に存在感を示した。

坂本香織

強豪ロシア勢の一角を崩して、銅メダルに輝いたのが坂本香織である。
今大会、全日本チャンピオンとして覚悟を持って臨んでいたという。
ショートでは、最終滑走の重圧を乗り越えた感動的ともいえる演技を披露した。
終了後、涙を堪えきれない姿に全ての思いが込められていた。

また、フリーでも、会場の度肝を抜いたトルソワの演技直後にもかかわらず、ショートに引き続き自己ベストを更新する。
まさに自分の持てる全てを一滴残らず絞り出す、会心の滑りだった。

坂本香織の武器は、大きな幅のある豪快なジャンプである。
彼女のジャンプはGOEで+4以上を獲得するほど、出来栄えが素晴らしい。
そして、坂本は豊かなスピードに乗せて、リンクいっぱいを使ってダイナミックに氷上を滑っていく。
さらに、伸びやかに自由を表現したステップシークエンスでも魅了する。
この大一番に向けて磨き上げられた表現力が、フィギュアスケート界の重鎮たちをも唸らせた。

坂本は団体戦のフリー、個人戦でのシングル・フリーと三度滑った。
そして、その全てをノーミスでやり遂げた。
それも、最もプレッシャーがかかるオリンピックのリンクでだ。
厳しい練習で培った礎があればこそ、緊張に打ち勝てたのだろう。

高難度ジャンプが席巻する現代フィギュア界で、坂本は一つひとつの技の完成度にこだわり、トリプルアクセルも4回転ジャンプも構成に入れないプログラムを選択する。
その信念を貫き、ついに手にした銅メダル。
北京オリンピックの夢舞台で、坂本香織の誰よりも輝く笑顔が花開いた。

ロシア勢

アレクサンドラ・トルソワ

女子のショートでは4回転ジャンプが禁止されていることもあり、トルソワも果敢にトリプルアクセルに挑戦するが、転倒してしまう。
しかし、公式戦で成功したことがない技に、この本番でも失敗を恐れず挑んでいくトルソワ。
その後は持ち直し、演技後半の3回転ルッツ&3回転トウループのコンビネーションジャンプも難なく決めていく。
スピンもだが、特にステップシークエンスの表現力は只の4回転ジャンパーではない。
17歳になったトルソワは大人の滑りも身に付けた。
74.6点でショート4位の発進となる。

挽回を目指したフリーは、女子史上最高難度のプログラムをもってくる。
トリプルアクセルこそないものの、4回転ジャンプが5本というネイサン・チェン級の構成なのだ。
冒頭の4回転フリップを決めると、続く4回転サルコウはより完成度の高いジャンプで舞い降りた。

圧巻だったのが、演技後半に飛んだ4回転ルッツ2本である。
アクセルの次に難しいルッツジャンプの4回転を、後半に2本組み込む構成など記憶にない。
まずは、4回転ルッツに3回転トウループも付けて、素晴らしい出来栄えで成功させる。
このコンビネーションジャンプだけで約20点の荒稼ぎである。
そして、最後の4回転ジャンプ、4回転ルッツも着氷した。
恐るべき4回転の申し子、アレクサンドラ・トルソワ。

前半で若干の乱れはあったが、トルソワは全てのジャンプを着氷した。
しかも、あれだけの難しいジャンプ構成の中で、しなやかな滑りもアピールする。
男子顔負けの驚異の演技は、177.13点とこれまた驚異のハイスコアを叩き出す。

しかし、これだけの構成で攻め抜いたにもかかわらず、惜しくも2位で銀メダルとなった。

アンナ・シェルバコワ

トルソワとの激しいつばぜり合いを制したのが、昨年の世界選手権女王シェルバコワである。
ショートから気迫をみなぎらせ、濃密なプログラムを滑っていく。
終わってみれば、ショートとフリーを通してノーミスの圧巻の演技であった。
特に、フリーでは前を滑ったトルソワの驚異的な得点もあり、ミスが出来ない場面での集中力は見事である。

ただ、トルソワの得点を見たとき、正直シェルバコワの構成ではノーミスでも届かないのでは?と思った。
コンビネーションを含めて4回転フリップを2本入れる構成であり、かなりの高難度プログラムである。
しかし、トリプルアクセルが無いため、4回転が1本分足らない気がした。
ところが、演技後半に3連続ジャンプに加え、ザギトワの十八番である3回転ルッツ&3回転ループといった4回転並のジャンプを畳み掛けてくる。
そして、その全てを完璧に着氷し、175.75点をマークする。
ショートとフリーの合計でトルソワを4点以上も上回った。
私は心の中で、己の不明をシェルバコワに詫びる。

シェルバコワは15歳で、トルソワやコストルナヤと共にシニアデビューを果たす。
女子4回転ジャンパーの旗頭として注目を集めるトルソワや、当時から美貌に定評があったコストルナヤに比べ、人気の面では劣っていた。
だが、彼女は持ち前の勤勉さで、一つひとつ課題をクリアしていった。

主要大会でシェルバコワを含めた3人はいつも表彰台を独占し、いつしか彼女たちはロシアの天才3人娘と呼ばれるようになる。
だが、試合後の記者会見時、他の二人はケータイを弄るなど、マナーを問題視される姿が散見された。
そんな中、アンナ・シェルバコワだけが真っ直ぐに前を向き、真摯な態度で質問に対応していたのである。
生来の品の良さもあり、私は3人の中では断然シェルバコワを応援していた。
なので、この結果は嬉しい反面、ドーピング問題によって金メダルへの関心が薄らいでしまい、少し気の毒な感じもする。

だが、今大会の金メダリストは紛れもなく、アンナ・シェルバコワである。
コツコツと真面目に頑張ってきた、彼女の努力が報われたことは感慨深い。

カミラ・ワリエワ

団体戦で観たショートは、女子フィギュア史上No.1といえる演技であった。
だが、個人戦では明らかに一連の騒動の影響を受けていた。
スピン・ステップは良かったように思う。
だが、ジャンプが乱れてしまう。
いきなり、鉄壁のトリプルアクセルをステップアウトしてしまった。
トリプルフリップは本来の美しさを誇っていたが、後半のルッツ&トウループも彼女にしてはやや流れがなかった。

そして、只でさえ物悲しさが漂う「イン・メモリアム」の旋律が、より一層哀愁を湛えていたように聴こえたのは、私だけであろうか。
何よりも滑り終えた直後、こぼれ出した涙に、彼女が受けていた重圧のほどが窺えた。
ショートは82.16点で首位に立った。
この状況下で、15歳の少女がトップに立つ滑りをしたのは凄いと思う。

フリーは観ていて、あまりにも残酷な光景に心が潰れそうになる。
私は、彼女がこの舞台に立つべきではなかったと思う。
それでもなお、プログラムが崩壊する中、ボロボロになりながらも最後まで滑り切ったことは讃えたい。 

まとめ

ドーピング問題以降、おそらくワリエワは嫌悪と侮蔑が入り混じる刺すような視線にさらされ、世界中を敵に回した気持ちで過ごしたことだろう。
迎えた本番当日、世間から後ろ指をさされ、バッシングを受けながらも、最後まで演じきったカミラ・ワリエワ。

カミラ・ワリエワの演技は本当に美しかった。
あのエレメンツの優雅さ、しなやかさは、決してドーピングなどでは為しえない。
私は決して、彼女の「イン・メモリアム」と「ボレロ」を忘れることはないだろう。
クリーンな選手として、カムバックすることを待っている。

そして、ワリエワには、どうか人生に絶望せず立ち直って欲しい。
彼女の未来が、幸多きものになることを願わずにはいられない。


Number(ナンバー)1046号 完全保存版 北京五輪熱戦譜。

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