大山康晴と升田幸三 その晩年 ~年齢の壁を超越した達人たち~





大山康晴と升田幸三。
周知のとおり宿命のライバルであり、同じ木見金治郎門下で切磋琢磨した兄弟弟子でもある。

そんなふたりは、年齢の壁を超越した将棋界の伝説としても名を馳せた。

エピソードとともに、往時を振り返る。

大山康晴

“不世出の巨人”といえば、大山康晴である。
全盛期、50期連続タイトル戦登場、19期連続タイトル獲得など、他の競技でも類を見ない絶対王者として君臨した。
さらに、齢50を越えても数々のタイトルを戴冠し、69歳で死去するまで生涯A級も死守した。

また、大山は将棋の実績だけでなく、棋界の発展にも多大なる貢献を果たす。
昭和49年に将棋会館建設委員長、昭和52年には関西将棋会館建設副委員長に就任すると、多忙なスケジュールを調整して寄付金やスポンサー集めに全国を奔走し、東西の将棋会館建設を実現させた。
そして、昭和51年12月に日本将棋連盟会長の要職につくと、棋界の顔としてファンサービスや将棋普及にも尽力する。
時代の覇者の玉座こそ中原誠に譲ったものの、まだまだ各棋戦で大活躍をしている最中でのことだった。

そんな大山の八面六臂の活躍が認められる。
平成2年、将棋界初となる文化功労者顕彰を受賞したのだ。

「これまで勝負師の世界と見られてきた将棋が、文化として認められたことが何よりも嬉しい」

心の底から喜びを語っていた姿が印象深い。
無敵の全盛時代を経て、晩年、将棋界のために身を粉にしてきた努力が報われた瞬間であった。


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対局風景

前述したように、大山は50歳を過ぎても超一流の強豪だった。

10代~20代にかけて大山と戦った、「十七世名人」谷川浩司はかく語る。

「大山先生が50歳を過ぎても普通に勝っていたので、年をとってもそれほど棋力は落ちないものだと思っていた。しかし、実際に自分がその年齢に達してみて、大山先生が例外だったことがよく分かった」

さらに、大山の対局風景は輪をかけて信じられないものだった。
当時、日本将棋連盟会長であった大山は多忙を極めた。
なので、盤の前に座りながら手帳を開き、スケジュールの確認をする姿が散見される。
そして、対局中でも会長業務をこなすことは日常茶飯事であり、ときには対局日にも打ち合わせが入り、一手指すごとに中座することもあったという。
そんな中で、あれだけ勝っていたのだから、もはや人間業ではない。

大山と対局した印象を、若き日の羽生善治は述懐した。

「将棋の研究をしているとは思えなかった。そもそも棋譜を並べる時間もなかったはずだ。にもかかわらず、66歳でタイトルに挑戦するなど、どうやって強さを維持し続けているのか不思議でならなかった。
大山将棋の凄さは手の良し悪しではなく、相手を見て指すことだ。悪手でも躊躇わず指していく。相手を惑わすためだろうが、洞察力や観察眼が優れていないと出来ない芸当だ。ここぞという対局での威圧感も鬼気迫るものがあった。横で対戦したり控室で検討したりするだけでも、気迫がヒシヒシと伝わってきて怖いぐらいだった」

その威容を皮膚感覚で知るからこそ、羽生は大山を謎めいた存在と呼ぶのだろう。
そして、羽生自身は大山の域にまで、とても達していないとも語っている。

合気道の植芝盛平や柳生新陰流の柳生石舟斎など、古の武術の達人は年輪を重ねてもその力が衰えなかったという。
あるいは大山康晴も、それら伝説の武人たちの領域に踏み込みし達人だったのかもしれない。

名解説

かつて、羽生善治は「大山先生は読まなくても急所に手がいく」と言っていた。
このことを、まざまざと見せ付けられたことがある。
あれは平成に元号が変わって間もない第38回NHK杯決勝、中原誠対羽生善治の対局だった。

当時のNHK杯戦は、「近代将棋」編集長も務めた永井英明が聞き手役であった。
アマチュア高段者の棋力がある永井英明は将棋界への造詣が深く、何よりも素晴らしい人柄と品の良さに加え、ソフトな語り口が日曜朝のひとときに安らぎをもたらしていた。

その日は決勝の檜舞台ということもあり、日本将棋連盟会長・大山康晴十五世名人が解説を務めた。
余談ではあるが、大山と永井は古くから付き合いがあり、大山が将棋会館建設のため全国を駆け回っていた時、常に随行者として寄り添っていたのが永井英明なのである。

対局が始まると、気の置けない仲であるふたりは息の合った名調子を繰り広げていく。
“名解説あるところ名聞き役あり”と言ったところであろうか。

駒組を終え中盤に入り、羽生が中原陣に切り込んだ。
ここから、大山康晴の独壇場となる。
局面を一瞥し、羽生の候補手を予想する。
すると、まるで大山の声が聞こえているかのように、羽生はその手を指していく!
しかも、その手が急所にビシバシと決まるため、さすがの中原名人もあっという間に追い込まれていった。
そして、大山は中原の指し手も寸分違わぬ精度で当てていく。

結局、終局まで大山の解説どおりに進行し、そして、これまた大山の言ったとおりに羽生が快勝した。
おそるべき大山の千里眼に、私は魔法でも見ているような錯覚に陥ってしまう。
ときに、大山康晴65歳のことであった。

升田幸三

大山康晴の終生のライバルにして兄弟子。
それが升田幸三である。
「新手一生」を掲げ、その先進的かつ独創的な指し手は、将棋という競技を大きく進歩させた。
また、豪放磊落にして戦国武将のような風貌は実に個性的であり、その棋風と相まって多くのファンに愛された。

升田も61歳で引退するまで、A級棋士の座を守った。
しかも、その偉業は戦時中に大病を患い、常に健康不安を抱えながら達成したものである。
もし、升田の体調が万全ならば…と思わずにはいられない。

そんな升田の恐ろしさを痛感したのは、引退後に対局した小池重明戦である。


名人に香車を引いた男―升田幸三自伝 (中公文庫)

“プロ殺し”小池重明

2年連続でアマ名人に輝いた小池重明は1980年代初頭、アマ将棋界最強と畏怖された。
そして、賭け将棋を生業とする“真剣師”としての顔も持っていた。

新宿を本拠地としていたこともあり“新宿の殺し屋”と呼ばれたほか、“プロ殺し”の異名も付けられる。
なぜならば、数々のプロ棋士を屠ったからである。
駒落ち戦のみならず、平手でもプロ棋士相手に勝ち越した。
しかも、後に王将のタイトルホルダーとなる中村修四段、居飛車穴熊で一世を風靡した“序盤のエジソン”田中寅彦五段、A級棋士にして小池との対戦後まもなく棋聖を奪取した森雞二など、強豪プロにも平手で勝っている。
こんなアマチュアが存在していたことが、俄かには信じられない。

そして、角落ちとはいえ、時の名人・中原誠や大山康晴十五世名人までも破ってしまう。
特に大山戦はあまりの大差に、場が凍り付くほどの圧勝劇であった。

そんな驚異の“プロ殺し”の前に立ちはだかったのが、引退してから3年の月日が経つ升田幸三実力制第四代名人であった。


真剣師 小池重明 (幻冬舎アウトロー文庫)

升田幸三vs小池重明

小池との戦いの場に現れた升田は、来月64歳の誕生日を迎えようとしていた。
本局は3年ぶりの対局であり、公の場で指した最後の将棋となる。

さすがの昭和の大棋士・升田幸三も長いブランクに加え、アマ最強の“プロ殺し”に角落ちで戦うのは誰もが厳しいと感じていた。
特に、対戦相手の小池は自信満々で、升田を見くびる発言を繰り返していた。

対局が始まると、小池は角落ち戦で多用する中飛車に飛車を振る。
一方、升田は金をグイグイ繰り出して、歩越し金で対抗する。
ただでさえ珍しい棒金戦法風の構えを取った升田は飛車先の歩を伸ばすと、何と!飛車のすぐ上に玉を持っていく。
棒金とは比較にならないほど目新しい「棒玉」の意思表示をする升田幸三。
引退してもなお、ギャラリーを沸かせるエンターテイナーぶりである。

その挑発に、小池は果敢に玉頭から殺到する。
そして、玉のすぐ上の金に照準を定め、金の頭に8五歩と打つ。
歩を取ると同銀で金が只捨てになるため、当然逃げる一手と思われた。
ところが、そこで飛び出したのが「8五同金」の鬼手である。
金損ではあるが8七歩成と飛車取りで“と金”ができ、歩切れの小池が不利になるのだから将棋は恐ろしい。

意表を突かれた小池は金を取らずに代替手をひねり出したが、その手が悪手となり、すわ態勢逆転と相成った。
8七の“と金”が飛車・角・桂馬を牽制し、大威張りしている。
以下、小池は玉砕覚悟の特攻に打って出るが、升田が的確に対応し完封した。

“髭の大先生”升田幸三の高笑いが聞こえてきそうな会心の指し回し。

「新手一生」を標榜した“鬼才”升田幸三。
最後まで斬新な指し手で好棋家を魅了し、遺憾なく千両役者ぶりを発揮した。

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