忘れ得ぬ名馬③ タニノギムレット ~ブライアンズタイム産駒の怪物~





名門・松田国英厩舎から輩出された初のダービー馬。
それは、同世代の中で異次元の豪脚を誇ったタニノギムレットである。

同じブライアンズタイム産駒の“シャドロールの怪物”ナリタブライアンと比肩しうる逸材ぶりから、武豊をして「何年かに1度出る、ブライアンズタイム産駒特有の怪物の匂いがする」と言わしめた。

タニノギムレットとは

デビュー戦はダートで走り2位で終わった。
迎えた2走目、芝に舞台を移すと恐るべきポテンシャルを見せつける。
マイル戦で2着に7馬身差、タイムにして1秒2の差をつけて楽勝した。

そして、3走目以降は重賞3連勝を飾り、一躍クラシック候補に躍り出る。
特に、アーリントンCでは2位に0秒6差をつける圧勝劇であった。

当時から、タニノギムレットは若駒とは思えぬ筋肉ムキムキの、はち切れんばかりの堂々たる体躯を誇っていた。
その豪脚が繰り出す破壊力を見るにつけ、前述した武豊の言葉も頷ける。

そして、現役生活最後のレースとなるダービーで悲願のG1初制覇を果たすのであった。


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過酷な松国ローテ

タニノギムレットの調教師・松田国英は、数々のG1ホースを世に送り出した。
特に、2000年代前半はクロフネ、タニノギムレット、キングカメハメハを鍛え上げ、3歳G1戦線を賑わせる。

歴史的名牝・ダイワスカーレットも、同厩舎であることを付け加えておく。

実績だけ見ると、名伯楽であることに異論はない。
だが、ほとんどの有力馬が古馬になる前に故障で引退し、ダイワスカーレットも屈腱炎により志半ばで退場を余儀なくされた。
これはビシバシと厳しい調教を課すことに加え、独特のローテーションも関係しているように思う。

タニノギムレットの1歳上のクロフネから、5月半ばに行われるNHKマイルカップを経てダービーに向かうローテーションを組み始めた。
たしかに、このローテでタニノギムレットとキングカメハメハはダービーを制している。
しかし、東京競馬場のマイル戦は3歳前半の若駒にはタフであり、しかもG1の舞台である。
そして、ダービーまでは中2週の厳しいレース間隔で、距離も未知数の2400mに延びる。
東京の2400mはまさにチャンピオンディスタンスであり、これまでで最も厳しい戦いになるのである。

過酷な松国ローテの中でも、歴代で最もタフなスケジュールで挑んだのがタニノギムレットであった。
何しろ、まだ発育途上の2歳から3歳にかけて、12月の未勝利戦から5月のダービーまで毎月レースに出走した。
しかも、重賞を3連戦こなした後、4月中旬に皐月賞、5月初旬にNHKマイル、5月下旬にはダービーとG1レースを3戦連続で激走したのである。

当時、タニノギムレットを応援していた私が、この鬼ローテに悲鳴を上げたことは言うまでもない。

運に見放されたG1戦線

クラシック本番を前に、タニノギムレットにアクシデントが襲う。
主戦ジョッキーの武豊が落馬し、全治3ヵ月以上が見込まれる骨盤骨折の重傷を負ったのだ。
これにより、皐月賞トライアル「スプリングステークス」は、以前コンビを組んでいた四位騎手を鞍上に迎え完勝する。

そして、いよいよクラシック第1弾「皐月賞」である。
1番人気に推されたタニノギムレットは後方から追走する。
最終4コーナーに差し掛かり大外に持ち出すも、あと一歩届かず3着に終わった。
コーナーが鋭角な小回りコースに加え、直線距離が310mしかない中山競馬場で、大外を回らされてはさすがのタニノギムレットも捌ききれなかったのだ。

だが、上がり3ハロン最速を継続するタニノギムレットにとって、次戦の直線距離が延びるダービーこそ真価が発揮されると思われた。
ところが、変則2冠に意欲を示す松田国英は、ダービーの前にNHKマイルカップを挟むことを発表した。

レース当日、当たり前のように1番人気を背負うタニノギムレット。
その背中には、大怪我により春のG1戦線は絶望視された武豊がいるではないか!
驚異の回復力を見せ、戦列に復帰したのである。

メンバー的にもタニノギムレットのG1初戴冠が有力視される中、スタートが切られた。
序盤は後方集団に待機し、足を溜めている。
そして、長い府中の直線に入り、いよいよ豪脚炸裂かと思われた瞬間、前の馬の斜行により大きな不利を受けるタニノギムレット。
エンジン全開直前で減速し、伸びを欠く。
必死に態勢を立て直しゴール前追い込むも、勝負処でのハードラックが致命傷となり、またもや3着と涙を呑む。
1度ならず2度までも加速する寸前で進路をカットされては、いかなタニノギムレットでも如何ともし難い。

3歳同世代の中で頭一つ抜け出す“ブライアンズタイム産駒の怪物”は、完全に負のスパイラルに陥ってしまったように見えた。

悲願のダービー制覇

「日本ダービー」を前にして、運にも見放され休みなしのローテーションも手伝って、タニノギムレットへの信頼が揺らぎ始める。
しかも、前走から一気に800mの距離延長も不安に拍車をかけた。
だが、“競馬の祭典”日本ダービー当日、ファンから1番人気に推されたのはやはりタニノギムレットだった。

高らかなファンファーレが鳴り響き、否が応でも“競馬の祭典”へのボルテージが上がっていく。
大歓声の中、運命のスタートが切られた。
タニノギムレットは慌てず騒がず、いつもどおり後方からの競馬を進めている。
長い直線が待っている府中で、これまでのスタイルを崩す必要など皆無である。
タニノギムレットは間違いなく、世代屈指の実力を持っているのだから。

「皐月賞馬」ノーリーズンをマークするように後ろにつくタニノギムレット。
「青葉賞」を制した上がり馬シンボリクリスエスは、中段のポジションを取っている。
直線に入ると各馬いっせいに追い出しにかかり、勝負処の坂を上っていく。
東京競馬場の長い直線を、シンボリクリスエスが真ん中から馬群を切り裂き抜け出した。

その瞬間、一番外から“ゼッケン3番”を付けた筋骨隆々の馬体が飛んできた。
名手・武豊に導かれたタニノギムレットである。
あっという間に抜き去り、ゴール板を駆け抜けた。

やはり、“ブライアンズタイム産駒の怪物”はモノが違った。
戦前の様々な不安を払拭し、タニノギムレットは世代最強を満天下に知らしめた。


まとめ

過酷なローテーションを克服し、全ホースマンの夢「日本ダービー」を戴冠したタニノギムレット。
執念にも似た思いで大一番に間に合わせ、3度目のダービージョッキーに輝いた武豊。
この人馬一体のコンビは、名門・松田国英厩舎に初のダービー制覇の栄誉をもたらした。

だが、“天高く馬肥ゆる秋”本番を直前に控え、タニノギムレットは屈腱炎を発症してしまう。
そして、そのままターフを去って行った。

もし、あのまま本格化を迎えていたならば…。
タニノギムレットに魅せられた私の心に無念の蹉跌が広がった。
そして、あの過酷なローテーションを課した松田国英に怒りを覚えた。

だが、そんな私を友人は優しく諭した。

「たしかに、本格化する前の若い馬にあのローテは過酷だったかもしれない。だけど、松国ならではの厳しい負荷をかけた調教があればこそ、タニノギムレットはダービーを制覇できたのかもしれないよ」

穏やかな口調に我に返った私は、なるほど一理あると思った。
何よりも、苦い現実を前に戦犯探しをするよりも、タニノギムレットの勇姿を忘れないことこそが大切なのだと気づかされる。

2002年春、ターフの主役を務めたタニノギムレット。
府中の直線を大外から駆け上がり、世代随一の破壊力を見せつけた。
あの日の鮮烈な記憶とともに、悲願のダービー制覇は競馬史に永遠に刻まれる。

それから5年後、娘ウオッカは父と同じ2枠3番を引き当て、64年ぶりの牝馬によるダービー制覇を成し遂げた。

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