「偉大なる将棋界の巨人」大山康晴十五世名人 前編




生涯A級を貫き、名人18期、A級連続在位44期を誇る棋界の超人。
それが大山康晴十五世名人である。

今と比べタイトルの数が少なかった時代にあって通算80期、そして棋戦優勝も44回を数えるなど、その偉大さには圧倒される。

そんな「昭和の大名人」大山康晴の栄光と挫折に彩られた棋士人生を振り返る。


大山康晴 不動心論

大山康晴とは        

大山康晴は1923年3月13日、岡山県の現在の倉敷市に生まれる。
生まれつき体が弱かった大山少年は幼少期より将棋を始めると、その熱心な様子に母親は茶色の毛糸で駒袋を作り“大山”と刺繍を施してくれた。
大山はプロ棋士になった後も、その茶色の駒袋をお守りのように大事にしていたという。

小学校を卒業すると同時に、同郷の木見金次郎八段に入門するため大阪に赴いた。
故郷を離れる際、9歳の時にできた後援会の人々をはじめ、同級生たちが駅に見送りに来てくれた。
“祝大山少年木見八段入門”と記されたのぼり旗を翻しながら、「大山康晴君、万歳!」と大声援を受ける様子は、いかに大山が期待の星だったかが窺える。

そして、木見八段に入門した大山康晴を待ち受けていたのは、終生のライバルとなる兄弟子の升田幸三であった。
修行時代、常に背中を追いかけ、切磋琢磨した宿命の兄弟子。
その出会いがあればこそ、“棋界の巨人”大山康晴が誕生したのである。

名人までの道のり 

内弟子時代、日々精進を重ねた大山は17歳で晴れて四段になりプロ棋士となる。
全盛時代、鉄壁の守りを誇り“受け潰し”を得意としていた大山康晴と、鋭い攻めを身上に“新手一生”を標榜した升田幸三。
実は意外なことに入門当初、大山は攻めの棋風であり升田は受けの棋風であったという。
それが、ふたりで研鑽を積むうちに、棋風が入れ替わったのが興味深い。

五段になった大山は、特別棋戦として東のホープ松田茂役五段と対戦する。
この対決は“東西新鋭五段の一騎打ち”と銘打たれ、注目を浴びた。
この一局が、後の大山の勝負観に大きく影響する。

大山は敗れた。
すると、この将棋を観戦していた愛棋家が「わしは敗者が嫌いだ。どちらか勝った方にご馳走しようと思っていた。なので、今日は松田君にふるまおう」と言い、松田五段を誘って街に繰り出して行ったのである。
盤の前に取り残された若い大山は、この時ほど敗者の悲哀を感じたことはなかったという。

この出来事が、後年“勝負の鬼”として恐れられた大山康晴が誕生する端緒となったのではないだろうか。

その後、戦争による混乱を経て、将棋界も復興に向かう。
そして昭和23年、大山は名人獲得のチャンスを得る。
兄弟子升田幸三と名人挑戦者の座をかけて、霊峰高野山で三番勝負を行った。
世にいう「高野山の決戦」である。

下馬評では圧倒的に升田有利だった。
事実、大山も兄弟子に将棋を教わるつもりで、悔いなきよう戦おうと思っていたという。
この決戦は2月から開幕したのだが、冬の高野山はまさに極寒の地である。
戦時中、激戦区のポナペ島から命からがら復員した升田は、体調が優れなかった。

そんな中、この厳しい環境で戦うことになった升田は第1局を落とす。
しかし、徐々に体調が快方に向かい第2局は升田が勝つ。
そして、第3局。
升田必勝の局面で大山は形作りの手を指した。
すると、升田は錯覚し、頓死してしまったではないか!
この一手が、同門のふたりの運命を左右することになる。
こうして、大山は25歳で名人挑戦者に名乗りをあげた。

塚田正夫名人との七番勝負は、2勝4敗でタイトル奪取とはならなかった。
まだ、名人になるだけの技量が不足していたのだろう。
そして、2年後の名人戦でも挑戦者となるが、木村義雄十四世名人の前に2勝4敗で敗退した。

こうしてみると、若き日の大山は中原誠や羽生善治、谷川浩司などの永世名人と比べると、必ずしも順風満帆とはいえなかった。
しかし、10代から20代にかけて少しずつ力を蓄えていったことが、後に大輪の花を咲かせる原動力になったのかもしれない。

悲願の名人獲得

昭和25年、大山は九段戦が創設されると、自身初タイトルとなる第1期九段位を獲得する。

そして、昭和27年第11期名人戦で3度目の挑戦者となり、木村義雄名人を4勝1敗で破って悲願の名人位を戴冠した。
大山康晴29歳のことであった。 

第5局、木村義雄が投了を告げると、勝者であるにもかかわらず大山康晴は深々と頭を下げた。
それは、“不敗の名人”“常勝将軍”の名をほしいままにした十四世名人への深い敬意と、名人という地位の重みを噛みしめているかのような感動的な光景であった。

木村十四世名人は敗者の弁として世に名高い「よき後継者を得た」という名台詞を残し、そのまま現役を引退する。
木村時代が終わりを告げ、大山時代が幕を開けようとしていた。

だがそれ以上に、大山にとって終生忘れられぬ出来事を体験する。
それは、栄光から滑り落ちた敗者の姿を目撃したことであった。
終局直後、報道陣を前に朗々と木村節を展開し、最後の晴れ舞台とばかりに千両役者ぶりを発揮した木村義雄。

それから数時間後、大山は木村のもとを訪ねた。
もうじき夜が明けようとする中、木村は畳の上に座り、蒼ざめ強張った表情で天井の一点をじっと見つめている。
その傍らで、昵懇の仲である長年のファンが目を腫らしている。

大山はその光景を目の当たりにし、敗者の孤独な魂を見た思いがした。
そして、いつか自分にも、その日が来ることを予感するのであった。      

棋界の第一人者へ

名人戦では翌年の第12期と続く第13期の2年連続で、升田幸三と相まみえた。
激戦が予想されたが、いずれも4勝1敗で大山が危なげなく防衛した。

そして、昭和29年に新設された早指し王位戦を迎えるまでに、出場資格のあった全棋戦で優勝を成し遂げた。
全棋戦制覇がかかる中、早指し王位戦決勝で大山は花村元司八段を2勝1敗で下し、偉業を達成する。

木村が去った棋界で、大山は独走態勢を築き上げていた。

棋史に残る屈辱 

しかし、好事魔多しとはよく言ったものである。
大山は全棋戦制覇を達成し、第14期名人戦も防衛したことにより、心の片隅に油断が忍び寄っていた。

一方、升田は「高野山の決戦」以来、ここ一番でことごとく大山の軍門に下っていた。
修業時代、常に前を走っていた自分が、弟弟子に後れを取り続ける屈辱。
升田は薪嘗胆の思いを胸に、打倒大山の牙を研いでいたのである。
昭和30年、全八段戦の決勝三番勝負で両者が激突すると、2連勝で升田に凱歌が上がった。
「高野山の決戦」以降、三番勝負以上の戦いで大山は初めて升田に負けた。

そして、続く第5期王将戦で、大山は3連敗を喫しタイトルを失冠する。
だが、大山はタイトルを失うこととは比較にならないほどの屈辱を味わう。
当時の王将戦は、三番手直りの指し込み制を採用していた。
つまり、七番勝負の中で3勝差がつくと勝負が決まり、勝者は香車を落として戦うという厳しい制度が存在していたのである。

名人の権威が、今よりも遥かに絶対視されていた時代である。
時の名人が、対局相手に香車を落とされて戦うことを余儀なくされたのだ。
そして、あろうことか、大山名人は升田幸三に負けてしまった…。
あってはならないことが起きてしまったのである。

大山の名人としての意地だったのだろう。
大山は香車のいない端を攻めるのではなく、あえて中央から戦局を開いていったのだ。
しかし、結果は…。

将棋界において、羽生善治というスーパースターが登場するまで、大山康晴ほど勝利の果実を独占してきた棋士はいない。
大山ほど栄光に彩られた棋士は存在しなかった。
しかし、その反面、名人でありながら香落ちで苦杯を喫するという、空前絶後の恥辱にもまみれていたのだ。

昭和32年の名人戦でも升田は大山名人から4勝2敗で奪取し、王将・九段とあわせて史上初の三冠王に輝いた。
この時期は升田とのタイトル戦で敗れ続け、大山にとっては長く苦しい雌伏の時間を強いられた。
香落ち戦での敗北を筆頭に辛酸を舐めつくし、勝負は勝たなくてはいけないということを大山は嫌というほど痛感したに違いない。

木村は名人を失冠した際、大山の温厚な人柄を讃えていた。
リップサービスもあったのかもしれないが、「よき後継者を得た」との発言に加えて人間性にも言及するのだから、大山の人となりが窺える。

だが、この時代の挫折をきっかけに、恐るべき“勝負の鬼”が誕生した。

                           
                        ※後編に続く

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