「命を懸けた名人への思い」大山康晴と村山聖の物語





将棋界において、2021年度順位戦の全日程が終了した。
A級では、29期連続(名人9期含む)で在位した羽生善治九段の陥落が決まった。
来期から藤井聡太五冠が昇級してくることもあり、一つの時代の節目が訪れたようにも感じる。

選ばれし10名のみが在籍し、唯一名人への扉が開かれるA級順位戦。
それは、棋士にとって特別な意味が存在する。

その舞台に深き思いを抱き、命を賭して戦った棋士がいる。
それは、大山康晴十五世名人と村山聖九段である。

“不世出の巨人”大山康晴

名人18期を含む、44期連続A級在位という不滅の金字塔を打ち立てた大山康晴十五世名人。
さすがの“超人”大山も60代になると衰えを隠せず、しばしばA級順位戦で陥落の危機に瀕していた。

だが、A級から陥落した時点で引退を公言していた大山は、その都度、強靭な精神力と驚異の底力で凌いでいく。
晩年には、開幕から5連敗した後、4連勝で残留を決めたこともあった。

そんな苦戦続きのA級順位戦で、誰もが心震わす戦いを見せる。
それは、平成4年に年が変わって間もなくのことである。
ここまで大山は、3勝3敗という成績であった。
だが、前年12月、68歳の大山はがんの手術を受けたため、残りの対局は休場すると思われた。

ところが、大山は休むことなど一顧だにせず、戦いの場へと復帰する。
残り3戦の相手は高橋道雄、米長邦雄、谷川浩司という、当時のA級順位戦において屈指の強豪たちであった。
通常ならば、病み上がりで勝負できるような相手ではない。

だが、大山は復帰直後の高橋戦で勝利を収め4勝目をあげる。
続く、米長との戦いも制し5勝目を飾った。
まさかの名人挑戦も現実味を帯びてきた。

最終戦の相手は、その年の四冠王で絶頂期を迎えた谷川浩司である。
大山は谷川との対戦成績で分が悪く、ここまで6勝2敗でトップに立つ四冠王が相手では、さすがにここまでかと思われた。

ところが、全盛時代を彷彿とさせる大山の巌の如き“受け潰し”の前に、谷川の切れ味鋭い攻めが全く通用しないではないか!
終盤、大山将棋の真骨頂ともいえる受けの決め手を指され、全く勝負にならなかったと谷川は述懐する。
そして、大山康晴との最後の一局を振り返り、「大山先生に置き土産を頂きました」と万感の思いを込め、谷川は言葉を紡いだ。

疼くような手術跡の痛みに耐えながら13時間以上にも及ぶ谷川との激闘を制した大山は、4者による名人挑戦者決定戦のプレーオフに進出する。
その初戦、大山は高橋との対局に挑む。
終盤まで優勢に進めるも、善戦虚しく敗れてしまう。

こうして、大山康晴の人生最後となる名人挑戦を懸けた戦いは幕を閉じる。
それは、あと4日で69歳を迎える平成4年3月9日に終わりを告げた、大山康晴の命を賭した魂の記録でもあった。

当時、がんの手術を受け、退院からわずか1か月弱で対局に復帰した大山康晴。
この時、大山は肝臓の半分と胸骨も摘出していた。
プロの対局は1日将棋を指すと、体重が2~3㎏落ちるほど過酷を極める。
大山の決断はあまりにも無謀に思えた。
多くの人から、68歳という高齢にもかかわらず、何故そこまでして将棋を指すのかと尋ねられる。

大山は答えた。
「やっぱり、僕は将棋が好きなんです」

しかし、半年後の6月にがんの再発が見つかる。
それでも、大山康晴は復帰への執念を燃やしていた。
そんな大山が、死の1ヶ月前に絶筆となる色紙を認めた。

「助からないと思っても助かっている」

それは、長きにわたる将棋人生において、幾度となく訪れた艱難辛苦の時を支えた座右の銘である。

平成4年7月26日、現役のA級棋士のまま大山康晴は泉下の人となる。
享年69だった。

「将棋を指すことが生きること」
大山康晴十五世名人は、まさしくその言葉を全うした将棋界に燦然と輝く巨星であった。


大山康晴の晩節 (ちくま文庫)

村山聖 名人への思い

映画「聖の青春」でも知られる村山聖は、若い頃から「東の羽生」「西の村山」と称されるほど、将来を嘱望されていた。
中でも、終盤力には絶対的な自信があり、棋士仲間からは「終盤は村山に聞け」と言われ一目置かれる存在であった。

そんな才気あふれる村山だったが、一度もタイトルを獲得することができなかった。
それは、幼少期から腎臓疾患のネフローゼ症候群に罹患したことに起因する。
奨励会時代や棋士になってからも、たびたび40度を超える高熱にうなされるなど、常に健康不安に苛まれていた。

ある晩、村山は 師匠の森信雄のもとを訪れ、こう言った。
「二十歳になりました」

その日は平成元年6月15日、ちょうど20回目の誕生日だったのである。
幼き頃から病魔に侵された村山は、入院する小児病棟で常に生と死を見つめてきた。
そんな経験もあり、重い病を抱えた身で二十歳まで生きられたことが、ことのほか嬉しかったのだという。

自らの時間があまり残されていないことを悟る、村山には夢があった。
それは「名人になって早く将棋を辞める」というものだ。
前述したように、プロの対局で1日将棋を指すと体重が2~3キロ減る。
それほどまでに過酷な棋士生活を長く続けるのは、不可能だと感じていたのだろう。

羽生世代のひとりである村山は、とりわけ羽生善治に対してはライバル心を燃やしていた。
あの全盛期の羽生善治に対して、対戦成績は6勝8敗(そのうち1敗は不戦敗)という互角の戦いを見せていた。
村山と同年代で、後に名人を含む数々のタイトルを獲得した佐藤康光は「村山君には、とうとう1度も本気になって指してもらうことが出来なかった…」と悔しがっていたという。
つまり、天才村山聖が本気になる相手は羽生善治だけだったのである。

ところが、そんな村山聖に悲劇が訪れる。
膀胱がんが見つかったのだ。
手術は無事成功したものの、村山は医師の制止を振り切り早々に復帰する。
8時間半にも及ぶ大手術から1ヵ月も経たない復帰初戦は、1日制の対局で最も持ち時間が長い順位戦であった。

控室に看護師が待機する中、双方持ち時間を使い切り深夜未明にまで及ぶ、それこそ文字通りの死闘が繰り広げられる。
結果は、勝勢であった村山に失着が出てしまい、逆転負けとなった。
しかしながら、この戦いには心から感動したことを覚えている。
村山聖という棋士の「名人」への思いが、痛いほど伝わってきたのである。
いや、私だけでなく、村山と同じく盤上に人生を賭した棋士たちの魂をも震わせる名局であった。

村山が、ここまで無理をして復帰を急いだのには理由がある。
前年度、順位戦でB級1組に陥落した村山は、是が非でも1年でA級に復帰したかった。
村山の悲願である「名人」に挑戦するためには、A級順位戦で優勝しなければならないからだ。
B級1組順位戦で、不戦敗が続けば昇級が難しくなる。
人生の残り時間が限られた村山は、命懸けで対局に向かっていたのである。
その年、“鬼の棲家”といわれるB級1組で9勝3敗の好成績を残し、見事1年でA級復帰を果たす。

しかし、その無理が祟り、復帰から1年も経たずにがんが再発する。
そして、治療のため1年間の休場を決める中、年度最後の対局となった3月は5戦全勝で締めくくる。

だが、それから半年も時を待たず、1998年8月8日に永眠する。
29歳という若すぎる死であった。

闘病中は棋士の誰とも連絡を取らず、名札のない病室で孤独に身を置いた。
そんな村山が、最後に会った棋士が羽生善治である。
名人戦が村山の故郷・広島で行われた際、現地に赴いた羽生を村山が訪ねたのだ。
体調がすぐれなかったにもかかわらず、村山たっての願いで実現した再会だった。

一方、羽生善治にとっても村山聖は特別な存在である。
誰もが天才と認める羽生善治だが、「天才とは谷川浩司さん、そして村山君のことだよ」と語っていた。

そして、村山聖へ送った追悼の言葉。
「彼は本物の将棋指しだった」

命の灯が消えるまで、名人への執念を燃やし続けた村山聖。
最期の言葉は「…2七銀」だった。


聖の青春 (角川文庫)

まとめ

本稿を認めるうち、改めて大山康晴十五世名人と村山聖九段の名人に懸ける思いを痛感させられた。

彼らだけでなく、升田幸三、中原誠、米長邦雄ら昭和の名棋士たちも、同じ思いを抱き盤上に心血を注いだ。

将棋界で最も長い伝統と格式を誇り、棋士たちの魂が宿る名人という頂。
変わりゆく時代にあっても、その価値と重みは変わらない。

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