「新手一生」升田幸三 ~将棋界初の三冠王~





棋界初の三冠王に輝き、弟弟子の大山康晴としのぎを削った棋士。
その男とは「実力制第4代名人」升田幸三である。

新手一生を座右の銘とし、羽生善治永世七冠をして「最も指してみたい棋士」と言わしめた。
軽妙洒脱な話術と独特の存在感でファンを魅了した升田幸三の物語を紹介する。

升田幸三とは

升田幸三は1918年3月21日に広島県で生を受けた。
木見金治郎門下で、棋士番号は18番である。

1957年には、大山康晴を破り「名人」「王将」「九段(十段戦の前身)」のタイトルを独占し、三冠王にも輝く。
これは将棋界初となる快挙であった。

タイトル通算獲得は名人2期を含む7期だが、数字以上のインパクトで将棋界に偉大な足跡を残す。
升田式石田流やひねり飛車、急戦矢倉など、升田により新境地を拓いた戦法は枚挙に暇がない。
そして、A級順位戦在位は羽生善治永世七冠や中原誠十六世名人を上回る31期であり、歴代4位の記録を残している。

豪胆な話術の達人

私が初めて升田幸三を見たのは、彼が引退後のことだった。
お正月のお好み対局を解説していたと記憶するが、長い髭を蓄えた風体はまるで仙人のようであり、何ともユニークな語り口に魅せられた。

そんな升田はとても繊細な一面を持っていたといわれるが、やはり豪放磊落にして度胸満点の酒呑みといった人物像が、個人的には印象に残っている。
そんな升田にぴったりなエピソードがある。

終戦後のある日、升田はGHQに呼び出された。
なんでも将棋について訊きたいというのである。
本来ならば、棋界の第一人者・木村義雄と話すのが筋であり、升田自身もなぜ自分が呼ばれたのか分からないそうだ。

戦後まもなく、日本を占領していたGHQは様々な形で日本古来の精神や文化を禁止しようとした。
今度は将棋に目をつけ、事情聴取に踏み切ったと思われる。

言葉も通じない異国人の巣窟に単身乗り込む升田幸三。
普通ならば、完全に呑まれてしまい浮足立ってしまうだろう。
だが、豪胆で鳴る升田はアメリカの将校たちに取り囲まれながらも、全く臆することはない。
それどころか、いきなり通訳に「酒を飲ませてもらいたい」と啖呵を切る。
この完全アウェイの局面で、酒をくれ!などと宣う者など、升田を置いて他にいまい。
敵も升田を只者ではないと感じたことだろう。

将校は本題を切り出した。

「将棋はチェスと違い、相手の駒を取ると自分の兵として使う。これは捕虜の虐待であり、人道に反するのではないか」

すると、升田は出されたビールをぐい!と飲み干し、切り返す。

「冗談ではない!」

そして、言葉を継ぐ。

「取った駒を使わぬチェスこそ捕虜の虐待、虐殺だ。そこへいくと、日本の将棋は常に全部の駒が生きている。それぞれに働き場所が与えられており、たとえ敵から取った駒でも元の官位のままで仕事をさせるのだ!」

炸裂する升田節!
敵が狙いを付けた持ち駒を使える将棋の特性を、逆手に取って返り討ちにしたのである。
なるほど、取った駒を使えぬチェスは人材活用という点では、将棋に大きく劣る。

もしかすると、この升田幸三の演説がなければ、今日の将棋界は存在しなかったかもしれない…。

波乱に満ちた若かりし日々

少年時代、天下一の武芸者に憧れていた升田は剣の道を極めんと精進していた。
たしかに、升田の相貌はいかにも気が強そうで、将棋指しというよりは豪傑や剣豪といった趣を感じさせる。

ところが、山奥から自転車で下っていた折、谷底に転落し大怪我を負う。
そのことにより、剣の道を諦めた升田少年が次に目指したのは“日本一の将棋指し”だった。
升田少年に将棋の手ほどきをしたのは、7つ上の兄である。
覚えてしばらくは剣豪を目指していたこともあり剣道に力を入れていたのだが、怪我をしてからは将棋指しになることを夢見るようになる。

しかし、両親とも将棋指しになることには反対だった。
やがて「名人に香車を引いて勝つ」という大志を抱くようになった升田。
そんな彼は、己が志を物差しの裏に認め家出を決行する。

その後、大道詰将棋で糊口を凌いだ升田は天ぷら屋などで働き、知人の紹介で木見金治郎八段に入門を果たす。
そして、15歳で初段となり棋士(当時は初段でプロ棋士)となった升田は、早くも才能の煌めきを見せ始めた。
あの坂田三吉がスケールの大きな升田将棋を観て、「(時の名人)木村を倒すのはあんたや。あんたしかおらん!」と言ったという。

だが、ときは軍靴の足音が聞こえる戦中であり、升田も招集され戦場に赴いた。
戦地のポンペイ島ではアメリカ軍の空爆に追われる日々を送り、満足な食事を摂ることもできず幾度となく戦死を覚悟する。
そのたびに木村名人との対戦を心の糧にし、命からがら復員した。

高野山の決戦

終戦後、“打倒木村”を御旗に掲げた升田は快進撃を続け、ついに木村の持つ「名人」への挑戦権に王手をかける。
挑戦権を争うのは弟弟子の大山康晴であった。

当時、升田は十二指腸潰瘍を患っており、頻繁に下血を繰り返していた。
そんなことも手伝って、2月下旬から行われる大山との名人挑戦者決定戦は温暖な地での開催を希望した。
ところが、主催者の毎日新聞は、こともあろうか厳寒でなる冬の高野山で行うという。
しかも、升田にはギリギリになるまで対局通知が届かなかった。
この一連の出来事は、毎日新聞の嘱託である大山を有利にするための策略だったとも言われている。

夜半に、ほうほうの体で高野山にたどり着いた升田は翌日の対局に敗れた。
三番勝負の初戦を落とし崖っぷちに立たされた升田だが、少しだけ体調が回復したこともあり第2局は勝利する。
そして、運命の第3局は升田必勝の形勢で最終盤を迎えていた。
ところが、痛恨の見落としがあり、トン死してしまう。
思わず、升田は呟いた。

「錯覚いけない よく見るよろし」

升田は将棋に負けた悔しさもさることながら、病人の自分に極寒の地で大一番を戦わせた主催者への憤りで、文字通り血反吐を吐く思いに駆られた。
この対局以降、升田幸三の運命の歯車は大きく狂っていく。
大山に勝てなくなったのだ。
もちろん大山の成長もあっただろうが、何よりも大山との対局に臨むと高野山での屈辱が甦り、平常心を保てない。
そして、苦い思いを忘れるために深酒を煽り、さらに体調が悪化する。
しまいには洗面器いっぱいに吐血するようなり、医者からも「助からない」とさじも投げられた。

こうして、升田幸三は長きにわたり大山の後塵を拝する日々を迎えるのであった。

臥薪嘗胆の日々

升田は高野山の敗戦後、第一期王将戦で木村名人を香落ちに追い込む快挙を果たしたものの、肝心な場面では大山に辛酸を舐め続けさせられていた。
しかも、痛飲がたたり肝臓を悪化させ、1年間の休場にまで追い込まれる。

ところが、このことが復活の糸口となるのだから、人生は分からない。
過労を避け、食事にも気を配り、静養を心掛けるうちに気力が戻って来た。

そして復帰すると、以前のように無理な手を指さなくなり、辛抱もきくようになっていた。
つまり、将棋から離れたことにより新しい境地に到達していたのである。

三冠王へ

復帰初年度の昭和30年、全八段戦で宿敵・大山康晴と対戦する。
すっかり強引さが影を潜めた升田は激情に支配されることなく淡々と指し進め、危なげなく勝利した。

これに自信を深めた升田は翌年、王将戦で大山をストレートで破りタイトルを奪取する。
それだけでなく、時の名人に対して“香落ち”でも勝ってしまったのだ!
木村義雄から名人を奪い、不動の第一人者となっていた大山を完膚なきまでに打ちのめした升田幸三。
そのとき、まさにピークを迎えようとしていた。

九段戦では塚田正夫を倒し、二冠王に輝いた。
そして、名人戦でも大山康晴を再び破り、史上初となる三冠王の偉業を達成した。

この快挙を支えたのは、紛れもなく最愛の妻だった。
高野山の決戦での心の傷を癒やすため、浴びるように酒を飲む夫を見限ることなく、病気休場中も貧乏と夫のわがままに耐え、内助の功を発揮した。

名人就位式にて、升田幸三はかく語る。

「きょうの栄誉は全国のファンと、何よりも夫のわがままを許してくれた女房のおかげです」

そして、味わい深い名言を残した。

「たどり来て未だ山麓」

三冠王という棋界の頂に立てば、道を極めたと慢心したくもなるだろう。
しかし、升田はこのとき、さらに思いを強くした。
それは勝負の道の厳しさと将棋の道の深淵さであった。
道を知り極めるごとに、その道の奥行きや難解さを痛感する。
だからこそ、「未だ山麓」なのだろう。
そんな求道的な精神が、升田の言葉に窺えた。


名人に香車を引いた男―升田幸三自伝 (中公文庫)

まとめ

ほとばしる才気を「新手一生」に捧げ、升田は将棋の未来を切り拓いた。
そんな彼は「将棋の鬼」とも称され、「勝負の鬼」といわれた大山康晴との対比が興味深い。

犬猿の仲とも噂された宿命の兄弟弟子は、同じ木見金治郎門下として少年の日から切磋琢磨した。
両雄の存在が、今日の将棋界の礎となったことは言うまでもない。

“鬼才”升田幸三。
AIが幅を利かせる時代だからこそ、その独創的な棋譜が輝きを放っている。

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