“マーベラス”マービン・ハグラー ~世界中のボクサーが敬意を表したミドル級の帝王~①





プロボクシング開闢から常に主役であり続け、最強の称号をほしいままにしたヘビー級栄光の歴史。
その檜舞台から“ザ・グレイテスト”モハメッド・アリが退場し、取って代わるように一躍脚光を浴びたのが80年代「黄金の中量級」である。

それは、“石の拳”ロベルト・デュラン、“スーパーエクスプレス”シュガー・レイ・レナード、トーマス・“ヒットマン”ハーンズなど、歴史に名を残す偉大なチャンピオン達が一堂に会した夢のような競演だった。

その綺羅星の如きスーパースター達が群雄割拠する中、とりわけラスボスのような存在感を放ち、長きにわたりミドル級の絶対王者として君臨していたのが“マーベラス(驚異的)”の通り名を冠したマービン・ハグラーであった。
この彫刻のように鍛え抜かれた肉体を誇り、スキンヘッドにして「King of Kings」の雰囲気を身に纏う“驚異の男”の物語をここに記していこうと思う。

第1章 ハグラーとペトロネリ兄弟の物語

運命の邂逅

マービン・ハグラーは1954年5月23日、ニュージャージー州ニューアークで生を受ける。
ニューアークのスラム街で暮らす一家は、立て続けに起きた黒人による暴動から命からがら逃げ出した。
その逃走先のブロックトンで、ハグラー少年は運命とも呼ぶべき邂逅を果たす。
それは生涯の恩人であり、終生変わらぬ友となるグッディとパットのペトロネリ兄弟との出会いであった。

ハグラーは黒人家庭にありがちな貧しい母子家庭で育ち、長男であった彼は家計を助けるため学校を中退し、肉体労働に従事していた。
そんな中、16歳になる少年は絶えず煩悶していた。
「貧乏から抜け出したい。何よりも自分達を育てるために、必死に働く母親に親孝行したい」
そして、少年はその手段としてボクシングの道を選ぶことを決意する。

ある日、ハグラーは金物屋の2階にあるボクシングジムを訪れる。
そここそが、人生の師となるペトロネリ兄弟が営むボクシングジムだった。
その日以来、ハグラーは毎日仕事帰りにジムに顔を出すと片隅で練習風景を見つめては、ひとり帰路についた。

そんなことが何日か続き、ついに兄弟の1人が少年に声をかける。
「ボクシングをやりたいのかい?」
声をかけられ驚いたハグラーだが、「はい。ボクシングをやりたいです」
やっとの思いで声を出す。
しかし、ハグラーにはジムに通うために大きな問題があった。
「だけど、お金がない。一生懸命練習するので教えてほしい」
必死の懇願にもかかわらず、無情な答えがジムに響く。
「私も貧しい。みんな貧しい。君だけを只で教えることはできない」

少年は諦めて、肩を落としながらジムを出ようとした。
その時、少年の背後から声がした。
「どこで働いてるんだ?ここで雇うぞ。ただし、仕事はキツいし給料も安い。だが、ジムのすぐそばだ。仕事が終わったらすぐに練習できるぞ」

すると悲嘆に暮れた少年の顔が破顔一笑、喜びに輝いた。
苦難にもがき続けた少年にとってその声を聞いた瞬間は、天にも昇る気持ちであったことだろう。
その日から、「ペトロネリ・ブラザーズ・ボクシングジム」の門下生となったマービン・ハグラーは、ミドル級史上屈指と呼ばれた伝説のボクサーへの道程を歩むのであった。


マイノリティーの拳

兄弟との絆

ハグラーとペトロネリ兄弟の信頼関係は、ハグラーがミドル級の統一王者になった後も変わることはなかった。
ボブ・アラムを筆頭に有力プロモーターが大金をちらつかせ、ハグラーに近づいてきても「ファイトマネーやマッチメイクのことはペトロネリに任せている」の一点張りで、決してなびこうとしなかったのである。
より良い条件を模索し、マネージャーやトレーナーを次々と変えていくアメリカのボクシング界にあって、ハグラーとペトロネリ兄弟の関係は奇跡ともいえるものであった。

それはそうだろう。
ボクサーのほとんどが貧しい子ども時代を過ごし、「いつか大金を稼ぎ、旨いものを腹いっぱい食べ、豪邸に住み、良い車に乗り、とびっきりの美女を手に入れる」ことを夢見ながらボクシングの世界に身を投じるのだから…。
ハグラー自身でさえ「金持ちがボクシングをするなんてジョークさ」という言葉を残し、ハングリー精神こそがボクシングで成功するために必要不可欠な要素であることを説いているのだ。
だからこそ、彼らの物語は輝きを放ち、我々の心に深い余韻を残す。

その日、ハグラーはタイトル戦を目前にし、記者達に囲まれていた。
普段は世界チャンピオンの威厳に溢れ、精悍な表情に終始する彼が今日はなぜか饒舌だ。
「もうすぐタイトルマッチがあるというのに、ペトロネリを見てくれ。ジムの少年のデビュー戦を控え、そのことで頭がいっぱいになり、俺のことなどそっちのけなんだ」
偉大な世界王者は半ば呆れたように話しながらも、言葉とは裏腹に相好を崩している。

「ハグラーといえばペトロネリ。ペトロネリといえばハグラー」
巷間、彼らはそう言われていた。
その言葉にハグラーは、「その通りだ。グッディとパットは最高のトレーナーであり、マネージャーだった。兄弟がいなければ今の私はない」

しかし、ペトロネリ兄弟の答えは違う。
「私達が教えた1,000人以上の大切な門下生の1人がハグラーだ。それ以上でもそれ以下でもない。私達にとってはゴールデングローブの予選を目指す10歳の選手も、世界統一ミドル級王者も全く同じである」

真逆の答えを口にするハグラーと兄弟だが、「それはなぜ?」との問いに対する言葉は全く同じである。
「ボクシングを愛しているからだ」
これこそが、“マーベラス”マービン・ハグラーとペトロネリ兄弟の信頼の源泉なのであろう。




信頼の尊さを知った少年

終生変わらぬ信頼関係で結ばれたハグラーとペトロネリ兄弟だったが、必ずしも最初からこのような関係であった訳ではない。
少なくとも、ハグラーからすればそうだった。

少年時代、ハグラーは極貧に喘ぎ、幾度となく黒人ということで差別を受ける苦渋の日々を過ごしてきた。
そんな環境で育ったこともあり、白人であるペトロネリ兄弟を今一つ信頼しきれていなかったのである。

ある日のこと、ペトロネリ兄弟は練習に汗を流すハグラーを食事に誘った。
そして、食事を終えると「今日は俺達が払う」と会計を済ませる。
これまでの苦い経験上、ハグラーは後から食事代を請求されるに違いないと考え、いつでも返せるよう紙幣をポケットに忍ばせていた。

しかし、いつまでたっても兄弟は請求してこない。
戸惑いを隠せないハグラーは1ドル札を握り締め、思い切って兄弟のところに赴いた。
その様子に兄弟は思わず笑い出しながら、「ハグラー、おごりだよ」と言うではないか。
通常ならばジムのオーナーやトレーナーである大人が門下生の分まで会計したら、後から食事代を請求するなど考えられない。
このことからも、ハグラーが生きてきた境遇の過酷さが分かるのではないか。

こうして、ハグラーは兄弟を心から信頼していく。
そして、それはハグラーの言動からも見てとれる。
アマチュアでの実績を引っ提げ、1973年にハグラーはプロデビュー戦をKOで飾る。
ハグラーは、ファイトマネーの50ドル全てをペトロネリ兄弟に渡しながら言った。
「わずかな金額だが、今まで世話になった分をこれから返していく」

しかし、かつて1ドル札を握り締める少年が食事代を返そうとしたあの日と同じ笑みを浮かべながら、兄弟は愛弟子に語りかけた。
「誰が50ドルのファイトマネーをネコババするものか。君のデビュー戦のファイトマネーだろ?全部君のものだ。我々ではなく、お母さんに渡してあげなさい」
だが、ハグラーも気がすまない。
「ずっと世話になりっぱなしだ。もちろん、はした金なのは分かっている。でも、気持ちを受け取って欲しい」
兄弟は再び笑った。
「だから、気持ちを受け取ると言ってるんだ。ありがとうマービン。君が100万ドルファイターになったら、その時はきっちりもらう」

その言葉を聞いたハグラーは、この信頼に値する兄弟への恩返しを誓うとともに、決して変わることのない敬意を胸中に抱くのだった。


BOXING BEAT(ボクシング・ビート) (2021年5月号)

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