“マーベラス”マービン・ハグラー ~世界中のボクサーが敬意を表したミドル級の帝王~④




第2章 偉大なる王者

トーマス・“ヒットマン”ハーンズ戦
(3) 歴史に残るタイトルマッチ

記者会見で“WAR”の文字をあしらった帽子を被って臨んだように、ハグラーはこの試合を戦争と位置づけリングに立っていた。
しかし、メガマッチを直前にしても闘志を内に秘め、決して昂ることのない姿は求道者の佇まいそのものであった。

挑戦者のハーンズは、相変わらず着飾った取り巻き達に囲まれながらの入場である。
ここでも両極端な2人であった。

割れんばかりの大歓声の中、リング中央に進み睨み合う両雄。
レフリーの注意を聞き終わると、一端コーナーに戻ってゴングを待つ。

その僅かな時間、戦いへの導線に火がついたハーンズの眼差しは、まさしく“ヒットマン”のそれであった。
私のようなチキンではその鋭い眼光に射すくめられ、とても同じリングに立ってなどいられはしないだろう。

ついに、1985年4月15日、ラスベガスのシーザース・パレスの地にゴングが鳴り響いた。
何と!ハグラーはいきなり前に出て間合いを詰めていくではないか。
これまでの戦いでは、相手をじっくりと観察して徐々にエンジンをかけていくスタイルを常としており、どちらかと言えばスロースターターであった。
試合前からたっぷりとウォーミングアップで汗を流し、「この試合だけは、相手の命を奪うつもりで臨んだ」というハグラーの決意漲るオープニング。

この戦前の予想に反したハグラーの先制攻撃には、ハーンズも狼狽したはずだ。
しかし、虚を突かれながらも巧みなフットワークで距離を取り、踏み込んで来るハグラーを左右の強打で迎え撃つ“ヒットマン”。

当初は左のフリッカージャブを織り交ぜ、足を使って試合をコントロールする予定だったハーンズだが、接近戦でも一撃必殺のパンチを繰り出してくる。
その様は近代科学の粋を結集した迎撃ミサイルシステムにも劣らない、完成された戦闘能力を感じさせる。
並のボクサーならば、迂闊に近づけない。

だが、全くひるむことを知らない“マーベラス”マービン・ハグラー。
前に出続けるハグラーにロープを背負いながら、強烈な右ストレートを浴びせるハーンズ。
あまりにも強烈な一撃は、あの“驚異の男”が一瞬動きを止めたほどだった。

なおも、ボディを狙い潜り込もうとするハグラーへ長いリーチを生かして死角から飛んで来る左フックをヒットさせ、追い討ちをかけるように右アッパーが顎を突き上げる。
そして、フィニッシュブローの打ちおろしの右ストレート“チョッピングライト”も、ハグラーの顔面を容赦なく襲う。

打てば打つほど、回転速度が増していくハーンズ怒涛の攻撃。
ハリケーンのような“ヒットマン”の拳の連打を被弾しながら、なぜハグラーは立っていられるのか信じられない。
なんというタフな男なのだろう。

一端距離を取り、再び前に出るハグラー。
普通ならば、先ほどまで浴びていた“ヒットマン”の銃弾に恐怖心が湧いてもおかしくない。
だが、鋼の意志で恐怖心をねじ伏せ、ハーンズにプレッシャーをかけ続けていく。
いや、そもそもが、この勇敢な戦士には恐怖心など存在しないのかもしれない。

バックステップで距離を取ろうと試みるハーンズに対し、最短距離で間合いを詰め逃がさないハグラー。
追い詰めながらも、ハーンズの強烈な左フック、右ストレートを被弾し捉えきれない。

だが、徐々にハグラー得意のインファイトが冴え始める。
執拗にボディを狙い、ハーンズのスタミナを奪っていく。
“ヒットマン”の迎撃を受けながら、全く前進することを躊躇しない“マーベラス”。
残り1分、ハグラーは挑戦者をロープに追い込み、強烈な打ち合いに持ち込んだ。

ラウンド序盤ではインファイトにおいても、長いリーチを生かし遠心力を効かせたパンチを放っていたハーンズだが、今やその長いリーチが窮屈そうである。

残り30秒を切ると、ハグラーの右ストレートがハーンズの顔面を襲う。
よろめき、ロープにもたれかかる挑戦者。
しかし、ゴングに救われる。

この1ラウンドは、「ボクシング史上最も濃密でエキサイティングなオープニングラウンド」と謳われているが、全く異存はないだろう。
休むことなく攻め続けるハグラー。
そして、完璧なまでの迎撃を見せたハーンズ。

実は、ハグラーはラウンドの初めに額から出血をしていた。
それは、ハーンズの雷のような右を浴びて切れたのである。
世界タイトルマッチのレフリーを幾度なく務め、この試合を裁いたリチャード・スティールは述懐する。
「パンチで額が割れたのを初めて見た…」

通常、額が切れるのは相手の頭によるバッテイングと相場が決まっている。
ところが、ハグラーの額は、まごうことなくハーンズの右ストレートによって割れたと証言しているのだ。

何度も大舞台を踏んだ名レフリーをも震撼させる“ヒットマン”の一撃。
そして、その恐怖の一撃を受けてなお、倒れることなく反撃を試みダウン寸前まで追い詰めるハグラー。
「THE FIGHT」の名に偽りなし!と興奮を覚えずにはいられなかった。



第2ラウンド開始早々、ハグラーの左がハーンズにクリーンヒットする。
打ち合いでは分が悪いとみたハーンズは、ジャブで距離を取りフットワークを使い始める。

だが、ハグラーの前進は止まらない。
それどころか、1ラウンドの前半とは打って変わり、ハグラーが一方的に攻め込んでいる。
明らかにハーンズの動きが鈍くなり、パンチの切れも落ちてきたようだ。
このラウンドも残り30秒で、ハグラーがKOのチャンスを迎えた。

ロープを背にハグラーの連打を浴び、虫の息のハーンズ。
だが、またしてもゴングに救われる。

試合は一気にハグラーへと傾き始めた。
しかし、唯一気になるのが、額からの出血が止まらないことだ。

3ラウンドに入り、相変わらず攻勢を仕掛けるハグラー。
完全に主導権を握ったかに見えた。

だが、夥しい鮮血が顔面に滴り落ちる。
その刹那、レフリーのリチャード・スティールが試合を中断する。
ハグラーの額の傷から流れる出血を憂慮し、ドクターチェックをするためである。

一瞬、シーザース・パレスの特設リングに緊張が走るも、すぐに試合が再開する。

すると、ハグラーはさらにラッシュをかけた。
ハグラーの額の傷はバッテイングではなくパンチによるものであり、このラウンドでドクターストップがかかると負けになってしまう。
残された時間があまりないと覚悟を決めたチャンピオンは、勝負所と見切ったのである。

一気呵成にハーンズに襲い掛かると、回り込もうとする挑戦者のテンプルにハグラーの右が炸裂した。
まるで酩酊したかのようにふらつくハーンズに追い討ちをかけるべく、とどめの右ストレートが完璧なまでに顔面を捉える。
たまらず仰向けに倒れるハーンズは、そのまま10カウントを聞くより為す術がなかった。

両手を突き上げ、歓喜するチャンピオン。

あまりにも対照的な勝者と敗者のコントラスト。
これほどまでの明暗を目の当たりにし、勝負とはかくも非情なものかと思い知らされる。
だが、だからこそ勝負は素晴らしいのではないかとも感じ入った。

それにしても、この試合を見るにつけ思う。
真の勇気とは?
断固たる不退転の意志とは何か?
“マーベラス”マービン・ハグラーは、こうした命題に対する回答を見事なまでに具現化し、我々に教示してくれたのではないかと。


BOXING BEAT(ボクシング・ビート) (2021年5月号)

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