忘れ得ぬ名テニスプレーヤー⑤ 「雷帝」イワン・レンドル





1980年代、「精密機械」と呼ばれた男がテニス界に君臨した。
チェコ出身のイワン・レンドルである。

80年代前半は「天才」マッケンローや「野獣」コナーズらと覇権争いを繰り広げ、80年代後半はベッカー、エドバーグ、ビランデルらの挑戦を受けて立った。

パワーテニスの時代を切り拓き、その後に続くプレースタイルに多大なる影響を与えた名プレーヤー。
そんなテニス史に残る「雷帝」イワン・レンドルを紹介する。

イワン・レンドルとは

イワン・レンドルは1960年3月7日に生まれる。
ボルグ引退後、マッケンロー最大のライバルでもあった。

1978年にプロデビューを果たすと、若くして頭角を現した。
1981年には全仏で初のグランドスラム決勝に進むも、ボルグの前にフルセットで涙を呑む。
1982年には44連勝するなど、一時期はマッケンローを圧倒した。

だが、不思議とグランドスラムには縁が無い。
1981全仏から1983全米まで、決勝で4連敗してしまう。
他の大会では強いのに、グランドスラム決勝では勝てない姿から、いつしか「無冠の帝王」あるいは「チキンハート」と呼ばれ出す。

そんなレンドルがリベンジを果たすのが、1984全仏でのことだった。
決勝で絶頂期を迎えたマッケンロー相手に、2セットダウンから大逆転勝利を収めたのである。

そして翌1985年、全米オープンでマッケンローに完勝し、長きにわたるレンドル時代が幕を開ける。
以後、全米3回、全仏3回、全豪2回の合計8回グランドスラムを勝ち獲った。

選手として

レンドルは強烈なサーブに加え、フォア・バックとも世界最高のショットを打ち分けた。
肘先行型のフォームで鞭のようにしなるフォアハンドは高い打点からの強打を誇り、安定感も群を抜いていた。
レンドルのスピードに乗ったショットは、ボルグのトップスピンとは一味違ったものだった。

また、バックハンドも超一流である。
片手打ちながら両手打ちをも凌駕する強打のトップスピンに加え、スライスショットも抜群のコントロールを誇っていた。

私はこれまで、片手バックハンドの名手として印象に残る選手が3名いる。
ひとりは“華麗な”バックハンドの使い手・エドバーグである。
また、“優雅”という言葉が誰よりも似合うのが、ロジャー・フェデラーであろう。

そして、満を持して登場願うのがイワン・レンドルだ。
居合を思わせる構えから、一瞬の閃光とともに放たれるレンドルのパッシングショット。
フォアもさることながら、なぜか私はレンドルのバックハンドのパッシングショットに魅せられた。

ちなみに、1988年全米オープン決勝までのデータだったと記憶するが、レンドルのパスはストレートが6割を占めていた。
だが、残り4割をクロスやロブ、足もとに沈む球が占めるため、ストレートだけにヤマを張れないのである。
しかも、レンドルの居合斬りの如きパスは容易にコースを読ませない。
レンドルのショットは、まさに剣豪を思わせた。

また、レンドルはプレー以外でも、いくつか特徴的なことがある。
まずは、サーブを打つ前にグリップの滑り止めとして、ポケットに忍ばせた大量のおが屑を使用した。
他の選手では滅多に見られないしぐさに、とても斬新に感じたことを思い出す。
二つ目は集中力を高めるため、プレーの合間に必ずラケットのガットを直していた。
ただでさえ無表情なレンドルが毎度同じルーティンを行うので、ますますマシーンに見えたのは言うまでもない。


アタック・ザ・レンドル (HOT-DOGバックス)

レンドルの悲哀

私が10代の頃、レンドルは全盛期を迎えた。
当時、私はたまにテニス雑誌を立ち読みしていたが、ある日ショッキングな記事が目に入る。
厳しい練習に音を上げる幼いレンドルが、元プロテニス選手の母親にネットを立てる支柱に縛り付けられながら、スパルタ指導を受けていたというのである。

私はこの紙面を見て、かねてからの疑問が氷解した。
レンドルには常に、言葉では上手く言い表せない“陰”の空気が漂っていたからだ。

たしかに、ボルグもレンドル同様、試合中は感情を表に出さず淡々とプレーした。
だが、レンドルとは異なり、ボルグの周りに漂っていたのは“陰鬱さ”ではなく“威厳”である。
また、コナーズが体いっぱいを使ってテニスの喜びを表現していたのとは対照的に、レンドルのプレーからは楽しさや歓喜の類は全く感じない。
遊びたい盛りの子ども時代、鬼のような母親に虐待もどきの指導を受け続ければ、テニスへの喜びなど湧くはずもないだろう。

そんなレンドルは圧倒的な強さと安定感抜群のプレースタイルも手伝って、「レンドルのテニスはつまらない」と言われ、人気のない王者の代名詞的存在だった。

私はレンドルのあまりの不人気ぶりに気の毒になった。
ローランギャロスに行けば「愛想がない」と批判され、その言葉を気にしたレンドルがウィンブルドンで微笑むと「気持ち悪い」と叩かれる。
一体、レンドルはどうすれば良いのだろう…。

また、前述したように精神面の弱さも指摘された。
後年そのことを払拭したようにも見えたが、グランドスラム決勝では8勝11敗と負け越している。
当時よく言われたのが、「もし、レンドルがベッカーぐらい図太ければ、史上最強になれただろうに…」ということである。
たしかに、レンドルは時に神経質な雰囲気を感じさせた。
だが、あれだけ多くの強豪と長期にわたり覇権争いを演じたレンドルは、歴史的名選手であることは疑いようがない。

よくレンドルのテニスは退屈だと言われたが、私からすればボルグの方がよっぽど退屈に感じる。
ただひたすらに重いトップスピンを相手コートに打ち返すボルグに対し、レンドルはスピードあふれる強打に加え、ドロップショットをはじめ技巧的かつ多彩なショットを散りばめた。
そして、私が最も好きなのがフォアサイドに大きく振られながら、ネットの真横からポール回しで叩き込む、一撃必殺の「レンドルフック」である。
絶対に追いつけない角度で強烈な回転をかけて飛んでくるスーパーショットは、ことごとくラインぎりぎりを捉えたものである。

こうみると、選手のルックスや醸し出す雰囲気がときにプレースタイル以上に、人気に影響を与えることがよく分かる。

ウィンブルドンへの想い

テニス界最大のタイトルにして勲章、それがウィンブルドンである。
それは、“テニス選手は「ウィンブルドンを勝った者」と「そうでない者」に分けられる”という言葉が雄弁に物語る。

そんな全選手憧れのタイトルを、誰よりも渇望したのがレンドルだった。
世界No.1だったレンドルはかく語る。

「これまでの全てのタイトルと引き換えにしても、ウィンブルドンのタイトルが欲しい」

ベースラインプレーヤーのレンドルにとって、芝のサーフェスのウィンブルドンは最も苦手な大会だった。
当時のウィンブルドンでは圧倒的にサーブ&ボレーが有利であり、ボルグ以外で純粋なベースラインプレーヤーの優勝者はほとんどいなかった。
そのボルグとて芝のコートでは、ネットに詰めボレーで仕留めていた。

しかし、サーブ・フォアハンド・バックハンドと世界最高峰のショットを揃えたレンドルが、唯一苦手としたのがボレーである。
少年時代のレンドルはサーブ&ボレーを駆使したが、後に見切りをつけプレースタイルを変更したことからも、そのことが理解できるだろう。
実際は、とりわけ対策を練った後年は酷評されるほどではなかったが、どうしても一流プレーヤーと比較すると見劣りした。

それでもレンドルは抜きんでた実力で1986年、ウィンブルドン決勝まで勝ち上がる。
対するは前年17歳の史上最年少で優勝したボリス・ベッカーだ。
ベッカーは“ブンブンサーブ”と呼ばれる強烈なフラットサーブで、レンドルを蹂躙する。
おそらく、芝以外のサーフェスならばレンドルにも勝機があっただろうが、ベッカーの圧倒的なパワーと破壊力の前に完敗した。

翌年も、準決勝で「芝の貴公子」ステファン・エドバーグを破り、レンドルは決勝に進出する。
対するパット・キャッシュには対戦成績でも分が良く、今度こそレンドルの初戴冠かと思われた。
しかし、第1セットでタイブレークを落とすと、そのままいいところなく敗退した。
この敗戦が、レンドルにとって後々まで響くことになる。

1988年と1989年は、いずれも準決勝でベッカーの前に辛酸を舐める結果となる。
1988年は試合中に足を故障しながらも執念でコートに立つが、セットカウント3-1で敗れる。
1989年は熟練の妙技で有利に試合を進めるも、雨による中断で流れが変わり逆転負けを喫した。

1990年、ウィンブルドンの前哨戦クイーンズ・クラブ選手権で、レンドルは難敵ベッカーに6-3、6-2で完勝する。
芝のサーフェスで、天敵ベッカーをここまで完膚なきまでに破るとは…。
いよいよ、自宅の庭に芝のコートを造り、得意の全仏オープンもパスして挑む、悲願のウィンブルドン初制覇が現実味を帯びてきた。
はずだった…。

レンドルは長年の芝対策の成果が実り、準決勝まで勝ち進む。
対戦相手は、当時ベッカーと並び立つ“芝の雄”エドバーグである。
個人的には1987年の準決勝で勝っていることもあり、ベッカーよりも勝機があると思っていた。
ところが、試合が始まるとエドバーグの天賦の才の前に、レンドルは成す術が見つからない。
レンドル渾身のパッシングショットにも“ひょい”とラケットを出すだけで、完璧なボレーを決めてしまう。
結局、ストレート負けとなる。

翌年以降も出場したが、もはやレンドルには往年の力は残されていなかった。

テニス人生を懸け、追い求めたウィンブルドンの頂。
だが、“テニスプレーヤー”イワン・レンドルはついに…その栄光に浴することはなかった。

まとめ

2012年、レンドルはアンディ・マレーのコーチにつく。
すると、自身と同じくグランドスラム決勝で4連敗を喫したマレーが同年、全米でグランドスラム初優勝を飾った。

そして翌年、ウィンブルドンも制覇する。
現役時代、恋焦がれたウィンブルドンでの栄冠をコーチとして手に入れたイワン・レンドル。
私は、その光景に感無量の思いが込み上げた。

1980年代最強を誇った「雷帝」イワン・レンドル。
テニス史に偉大な足跡を残す往時の王者が、指導者として悲願を成就させた瞬間だった。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする