少年の日、私はひとりのテニスプレーヤーを見た。
北欧神話の登場人物のような男は長髪をバンダナでまとめ、整った顔立ちを決して崩すことはない。
そして、ゼウスやイエス・キリストを思わせる風貌は独特の威厳とカリスマ性を漂わせ、気がつくと畏敬の念を抱いていた。
そう…幼き日、ビヨン・ボルグは神だった。
ビヨン・ボルグとは
ビヨン・ボルグは、1956年6月6日にスウェーデンで生まれたテニス選手である。
1974年に全仏オープンをわずか18歳で制覇すると同大会で4連覇を含む通算6度優勝し、ウィンブルドンでも5連覇の偉業を果たすなど、コナーズやマッケンローとともに一時代を築いた。
たしかに、コナーズはテニスに強打と格闘技の要素を持ち込み、オープン化以降のテニス界に変革をもたらした。
しかし、ボルグもまた新しい時代を切り拓き、「現代テニスの父」と称される。
コナーズがフラット気味の強打でテニス界を席巻する中、ボルグはトップスピンという当時見慣れぬショットを多用した。
フラットショットは弾道が低くスピードが速いが、その分安定感に欠ける。
それに比べてトップスピンは高い弾道で強打しても、順回転により落下速度が速くなり、下方向へと曲線的な軌道で落ちていく。
そのため、ネットにかかりづらく、アウトにもなりにくい。
ボルグのショットが安定感抜群なのは、こうした理由のためである。
しかも、80ポンド以上のガットから放たれるボールは、ボルグの鉄のリストと相まって強烈無比な順回転となり相手コートを襲うのだ。
想像するだけで、鉛のような重いボールが目に浮かぶ。
対戦相手はボルグのヘビートップスピンへの対応を余儀なくされ、身も心も徐々にダメージが蓄積していった。
ボルグ以降その優秀性が浸透し、今日においてトップスピンは必要不可欠なショットとなっている。
こうしたことから、ボルグは「現代テニスの父」と呼ばれるのである
そして、ボルグのニックネームといえば“氷の男”である。
常に冷静沈着で、不動心を絵に描いたような表情は神々しさを湛えていた。
プレーにも揺るがぬ精神性が反映し、まさに「鉄人」といった趣を感じさせる。
その相貌も手伝って、人々はビヨン・ボルグというカリスマに畏敬の念を抱くのであった。
テニス界の七不思議
前述したように、ボルグはウィンブルドンで5度、全仏オープンでも6度優勝している。
長年テニスを観戦してきた身としては、俄かには信じられぬ偉業である。
球足が速く滑るような低い弾道のグラスコートのウィンブルドンに対し、球足が遅くバウンドして高く弾むレッドクレーの全仏オープン。
正反対の適正を要求されるサーフェスにもかかわらず、ボルグは1978年~1980年までの3年間、その両大会で不敗を誇った。
21世紀に入り様相が変わってきたものの、20世紀の時代、ウィンブルドンではサービスとネットプレーが幅を利かせていた。
裏を返せば、ストロークプレヤーにとって受難の時代であった。
その証左として、当時まごうことなき世界No.1だったイワン・レンドルも、ついにウィンブルドンの栄冠を射止めることができずに現役を退くこととなる。
たしかに、ボルグはストロークプレヤーとしては異例ともいえるほど低いボールに強かったとはいえ、この事実は驚愕に値する。
一方で、全仏での6度の制覇こそ、プレースタイルを考えると腑に落ちる。
それでも、通算8回出場し6度優勝するボルグの偉大さは、言うまでもないだろう。
そして、ボルグ最大の謎にしてテニス界の七不思議とされるのが、全米オープンで1度も勝てなかったことである。
1976、1978年はコナーズ。
1980、1981年にはマッケンローというように、4度も決勝に進出しながら苦杯を舐め続けた。
特に1978年の対コナーズ戦は、直接対決でボルグが圧倒し始めた時期にもかかわらず、ストレートで完敗を喫してしまう。
しかも、ボルグはグランドスラムで16回決勝を戦い、5度しか負けていない。
これほど勝負強いボルグが全米オープン決勝になると、途端に勝てなくなったのだ。
こうしてみると、ボルグとはプレーの堅実性とは裏腹に、意外性をはらんだ選手だったことが窺える。
ライバル
1. ジミー・コナーズ
1970年代、ビヨン・ボルグのライバルといえば4歳年上のジミー・コナーズだった。
フラット系のショットで攻撃テニスを畳みかけるコナーズと、ヘビートップスピンで相手を追い詰める安定感抜群のボルグ。
そんな両者は大方の予想通り、初期の頃はコナーズが圧倒する。
ところが、1977年を境にボルグはコナーズにほとんど負けることが無くなった。
その数少ない敗戦が、1978年の全米オープンだったのだ。
結局、両者の対戦成績はボルグのほぼダブルスコアで終わる。
そして、グランドスラムでの優勝も1970年代だけでボルグ8勝、コナーズ5勝であり、通算でもボルグが11勝挙げているのに対しコナーズは8勝だった。
こんなこともあり、ウィンブルドン5連覇が始まった1976年以降、私はボルグ時代が到来したと思い込んでいた。
だが、意外にも1974~1978年までのほんどで、世界ランキング1位はコナーズだったのである。
ボルグが名実ともに世界ランキング1位につくのは、1979年まで待たなければならなかった。
やはり、シーズン最後のグランドスラム・全米オープンで勝てなかったことが響いたのかもしれない。
2. ジョン・マッケンロー
21世紀のテニス界最大のライバルがロジャー・フェデラーとラファエル・ナダルなら、20世紀最大のライバルといえるのがボルグとマッケンローである。
熾烈なトップ争いを演じた期間こそ約2年であったが、その濃密な試合内容は決して色褪せない。
威厳に満ちあふれ人々に畏敬の念をもって迎えられたビヨン・ボルグに対し、癇癪もちで悪童と呼ばれたジョン・マッケンロー。
トップスピンでテニス界に革命をもたらしたボルグと、サーブ&ボレーを得意とし魔法のようなタッチを操るマッケンロー。
キャラクターもプレースタイルも好対照なふたりの対決は、世界中を熱狂させた。
ときは1980年ウィンブルドン決勝戦。
大会5連覇を目前にした24歳の王者ボルグに挑む、21歳の若き挑戦者マッケンロー。
ふたりの白熱の攻防はフルセットまでもつれこむ。
最後は、ボルグのパッシングショットが決まり、3時間55分の激闘に終止符が打たれた。
その年、全米オープン決勝で雪辱を果たしたマッケンローは、翌年のウィンブルドン決勝でもボルグの6連覇を阻んだ。
結局、両者の対戦は7勝7敗と全くの五分で終えることとなる。
生まれてきた環境もキャラクターも全く異なるボルグとマッケンロー。
だが、互いに敬意を表し合うテニス界最大のライバルであった。
まとめ
マッケンローとの濃密な戦いを経て、1981年ビヨン・ボルグは25歳で燃え尽きた。
そして、26歳での突然の現役引退。
最後の試合を終えたボルグはかく語る。
「これで…あのトレーニングから解放される」
この一言で、どれほど厳しい鍛錬を続けたのかが窺える。
威厳とカリスマ性を身に纏い、短くも濃密な時を駆け抜けたテニスプレーヤー。
まさにビヨン・ボルグは揺るぎなき、偉大なる「鉄人」だった。