ジョン・マッケンローとライバル達① vs イワン・レンドル





テニス史に天才の名を刻んだジョン・マッケンロー。
背中を追い続けたのがビヨン・ボルグならば、年下のライバルはイワン・レンドルだ。

1980年代、不俱戴天の仇としてコート上で火花を散らした両雄。
何もかも真逆のライバル物語を紹介する。

対照的なふたり

テニス界にとどまらず、星の数ほど存在するライバル達。
だが、このふたりほど対照的な組み合わせもいないだろう。

サウスポーのマッケンローと右利きのレンドル。
天才的なサーブ&ボレーを操るマッケンローに対し、グラウンドストロークを得意とする努力の人・レンドル。
試合中、感情を剥き出しにするマッケンローと無表情な様からロボットと呼ばれたレンドル。
などなど、挙げだすとキリがない。

1歳差のふたりだが、初のグランドスラム戴冠はマッケンローが1979年、レンドルは1984年である。
このように、80年代前半のチャンピオンがマッケンローなら、80年代後半の王者がレンドルだ。

しかし、ふたりの対戦成績は、意外な推移を見せている。
天才の前に立ちはだかったテニスマシーン、それがイワン・レンドルだった。
ふたりの対戦は、順当にマッケンローの連勝で幕を開けた。
ところが、1981年から約2年にわたり、レンドルが7連勝する。
そのほとんどがストレート勝ちだった。

打倒ボルグの原動力となったバックハンドへのスライスサーブ。
サウスポー特有の外に逃げていくサービスは、両手打ちのボルグには殊更有効に働いた。
ところが、片手打ちのレンドルはリーチが長く届くため、たびたび矢のようなリターンが炸裂した。
しかも、ネットからかなり上の軌道を描くボルグのトップスピンとは一味違い、高い打点から鋭い弾道のショットを打ってくる。
さらに、強打を警戒しながらネットにつくマッケンローを嘲笑うように、効果的なトップスピンロブも飛んできた。
この時期、マッケンローはレンドルの顔も見たくなかったことだろう。

だが、マッケンローは反撃の狼煙を上げる。
レンドルのパッシングショットを恐れず、より果敢にネットプレーを試みた。
具体的には、レンドルのセカンドサービスをリターンすると、そのままネットに詰めボレー勝負に活路を見出したのである。
そして、ときにはファーストサーブでもリターンダッシュを仕掛けていく。
すると、今度はマッケンローが圧倒し、対戦成績をリードする。

このように、両者は激しい覇権争いを演じ続けていた。



1984全仏オープン

この年82勝3敗、勝率.965という未だ破られぬ年間最高勝率をマークしたマッケンロー。
まさに、絶頂期を迎えた中で全仏オープンに挑んでいた。

サーブ&ボレーを得意とするマッケンローにとって、ローランギャロスのレッドクレーは鬼門であった。
芝やハードコートと比べ格段に球足の遅いクレーコートでは、それらのサーフェスでは決まっていたはずのボレーが拾われてしまうからだ。
さすがの天才マッケンローも、全仏オープンではここまでの最高成績がベスト8止まりだったのも致し方ない。

だが、1984年のマッケンローは本来不得手のサーフェスも何のその、決勝まで勝ち進む。
対するはボルグ引退後の最大のライバル、イワン・レンドルである。
ベースラインからの打ち合いを得意とするレンドルは、ここローランギャロスのレッドクレーを十八番としていた。

ゲームが始まると、マッケンローは第1セットを6-3で先取する。
ストローク戦でも互角以上に打ち合い、全く危なげないプレーにマッケンローの充実ぶりが窺える。
第2セットも、いきなりレンドルのサービスゲームを0-40から逆転し、幸先良いスタートを切った。
このブレイクで波に乗ったマッケンローが、第2セットも6-2で簡単に連取する。

有利なはずのサーフェスにもかかわらず、早くも追い込まれたレンドル。
ウィンブルドンならいざ知らず、まさかクレー巧者のレンドルが何もさせてもらえないとは…。
マッケンローの冴え渡るネットプレーの前に、もはやここまでかと思われた。

第3セットに入ると、レンドルのショットが少しずつ深くなっていく。
その影響もあってか、マッケンローのショットがラインを割ることが目立つようになる。
こうなると、勢いストローク戦でレンドルが有利になっていった。

マッケンローにとって痛恨だったのが第5ゲームでトリプルブレイクポイントをはじめとする、再三再四のチャンスをものにできなかったことである。
「ピンチの後にチャンスあり」とはよく言ったもので、続く第6ゲーム、強烈なパッシングショットを決めたレンドルが本試合初となるブレイクに成功する。

ところが、第7ゲームはマッケンローがブレイクし、混戦となっていく。
結局、このセットは第10ゲームにスーパーショットを連発し、ブレイクに成功したレンドルが6-4で奪った。
ここに来て、レンドルのストロークが威力を増してきた。

第4、5セットとも接戦模様となる。

第4セットは互いに譲らずブレイク合戦の様相を呈した。
俊敏なフットワークでボールを拾い、ストレート、クロス、そしてトップスピンロブと、多彩なパッシングショットを打ち分けたレンドルが7-5で競り勝った。
パワーあふれる強打とテクニックを駆使した巧打を散りばめた、レンドルらしいプレーが光る。
エンジン全開のクレー巧者レンドルが躍動し始め、いよいよセットカウント2-2に追いついた。

最終第5セットになっても、一進一退の攻防が続く。
だが、序盤はあっさりポイントを取っていたマッケンローが第3セット以降、レンドルの球際の強さに一発で仕留められなくなっていた。

なおも激戦は続いていく。
マッケンローが天才的なネットプレーでポイントを奪えば、レンドルはさすがのコートカバーと居合のようなバックハンドで切り返す。
気がつくと、両者の白いソックスは赤土色に染まっていた。

レンドルの6-5で迎えた第12ゲーム。
マッケンローのサービスゲームで、レンドルのショットが火を噴いた。
驚異の集中力で、マッケンローをダブルマッチポイントに追い詰める。
だが、さすがはマッケンロー。
セカンドサーブになるも、落ち着いてボレーで仕留める。

30-40になり、マッケンローがネットにダッシュする。
だが、痛恨にもボレーがラインを割った瞬間、レンドルに軍配が上がった。

それにしても、2セットダウンからのレンドルの驚異の粘りに畏れ入る。
満面の笑みのイワン・レンドルは5度目のグランドスラム決勝で、ついに初優勝を飾った。


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1984全米オープン

その年、両者は再び全米オープン決勝で顔を合わせる。
マッケンローからすれば、全仏での屈辱を晴らす絶好の機会が訪れた。
しかも、サーフェスは得意のハードコートで、会場は地元ニューヨークとお膳立てが揃っている。

果たせるかな、この日マッケンローは絶好調だった。
第1・2セットをマッケンローが連取する。
だが、ローランギャロスの記憶冷めやらぬこともあり、まだまだ予断は許さない…はずだった。

第3セットに入ると、さらにマッケンローは加速する。
第1ゲーム、レンドルのお株を奪うトップスピンロブでサービスをブレイクする。
さらに、サーブとボレーは切れを増し、ライジングでのリターンも面白いように決まり出す。
一方的な展開となり、いきなり4ゲーム連続で奪う。
結局6-3、6-4、6-1で宿敵を一蹴し、見事リベンジを果たした。

ウィンブルドンに続きUSオープンも制覇したマッケンロー。
まさに、このとき絶頂を迎えていた。

ライバルへの思い

レンドルは芝のサーフェスのウィンブルドンを苦手とし、ついにタイトルに手が届かなかった。
しかし、同じ芝の上でもゴルフの腕前はなかなかであった。
そんなレンドルをこき下ろす、口さがないマッケンロー。
もちろん、レンドルも応戦する。

このように決して関係性が良くないふたりだが、私には忘れないエピソードがある。
それは、1989年全仏で残したマッケンローのコメントだ。
4回戦でレンドルは、17歳のマイケル・チャンと相まみえる。
この試合を執念で制したチャンは、史上最年少で全仏オープンを制覇する。

だが、問題は最終セットで起こった。
チャンはレンドルにアンダーサーブを放ったのである。
世界王者を愚弄したプレーに、マッケンローは激怒する。

「姑息な手を使いやがって!そうまでして勝ちたいのか!もし、チャンがウィンブルドンで優勝したら、俺はセンターコートでパンツを脱いでやる!」

相変わらず悪童全開のマッケンロー。
だが、このマッケンローの品性下劣な言葉に、私は不覚にもウルっと来てしまう。
もちろん、あまりの口汚さに、鼓膜に変調をきたしたからではない。
長きにわたり鎬を削ったライバルへの、あふれ出す思いに胸がいっぱいになったのだ。

レンドルは良くも悪くも、マッケンローにとって特別な選手だったに違いない。
全盛時代においてすら、何度も苦杯を舐めさせられてきた。
だが、手強いライバルがいればこそ、より高みを目指せたのだ。
そんなレンドルに、そして当時の世界ランキング1位の王者に、こともあろうか17歳の少年がアンダーサーブをお見舞いしたのである。
きっと、そんなライバルへの非礼に、マッケンローは我慢ならなかったのだろう。

テレビで生放送を見ていた私もチャンの無礼な態度に、はらわたが煮えくり返った記憶が甦る。
もちろん、勝利のために必死に戦ったチャンの作戦に賛同する方もいるだろう。
もしかすると、私もレンドルファンでなければ、流せたのかもしれない。
だが、今もってあのシーンを思い出すたび、苦い思いが疼き出す。
だからこそ、マッケンローの辛辣なコメントに思わず膝を叩いてしまったのだ。

ちなみに、チャンはウィンブルドンではベスト8で敗退し、マッケンローは胸を撫でおろしたと語っている。
マッケンローの愛嬌たっぷりな発言の数々に、私がますます彼を好きになったことは言うまでもない。

まとめ

1985全米オープン決勝。
世界No.1の座をかけて、両者が臨んだ大一番。
結果はレンドルの快勝で幕を閉じる。
これ以降ふたりの力関係は完全に逆転し、レンドル時代が幕を開けた。

1980年代、互いの個性をぶつけ合い死力を尽くした“柔”のマッケンローと“剛”のレンドル。
犬猿の仲と言われながらも、心の奥底では認め合う真のライバルであった。

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