「棋界の太陽」中原誠自然流 ~その指し手 大河の流れのごとし~





昭和の時代、将棋界のご意見番かつ広報塔として活躍した原田泰夫九段。
その名伯楽に「棋界で最も素晴らしい人格」と謳われた棋士。
それが、中原誠十六世名人である。

中原将棋は攻め六分を旨として、攻めるべきときに攻め、守るべきときに守る。
その指し手は、あたかも大河の流れを思わせた。
そして、棋風のみならず、泰然自若とした姿から「自然流」と呼ばれるのであった。


中原誠名局集

最も好きな棋士

私が将棋界、いや日本で最も尊敬する人物のひとりが羽生善治永世七冠である。
自分のことより棋界のため、ひいては将棋の発展のために尽力し続け、はや30年以上経つ。
その変わらぬ姿勢に、感銘を受けずにはいられない。

では、最も好きな棋士は?と訊かれれば、羽生さんと迷いながらも中原誠十六世名人と言うだろう。

私が将棋に興味を持ち始めたのが、今から約40年前のことである。
当時、小学生だった私は、ときの名人・中原誠を見た瞬間ファンになる。
まだ30代前半の中原だったが、すでに大名人の風格が漂っていた。
何よりも、周りを包み込むような屈託のない笑顔に惹かれたことを思い出す。
子どもの頃に見た中では、トム・ワトソンとともに双璧をなす素晴らしい笑顔であった。

そして、その悠揚迫らぬ物腰。
それでいて、明朗快活な雰囲気はどこか親しみも感じさせたのである。

中原誠とは

中原誠は1947年9月2日に生まれる。
タイトル獲得64期は羽生善治、大山康晴に次ぐ歴代3位であり、名人在位15期は大山に続く2位である。
大山康晴十五世名人の後継者として一時代を築き、十六世名人の称号を得る。

若くして将来を嘱望されていた中原は、三段リーグを突破するのに6期3年も要した。
通常ならばプロになれるだけでも凄いのだが、中原クラスの棋士では珍しい。

だが、18歳でプロデビューを果たすと快進撃が始まった。
当時の最年少タイトル記録となる20歳で棋聖を獲得すると、徐々に大山の牙城を崩していく。
47勝8敗、勝率.855は今なお破られぬ年間最高勝率記録である。

タイトル戦、特に棋界の頂点・名人戦でカド番に追い込まれると、緊張したり重圧を感じたりするのが普通だろう。
だが、中原は全くそれを感じさせない。
悠然とした態度で、普段通りの将棋を指していく。
大山十五世名人も巌のように揺るがなかったが、それとはまた異なる趣であった。

また、中原といえば「桂使いの名手」というのが、つとに有名である。
これは、打倒大山の副産物だという。
大山名人の難攻不落な堅い守りを崩すには、通常の攻めでは歯が立たない。
自然とトリッキーな動きをする桂馬に活路を見出すようになり、いつしか得意な駒になったのだ。
しまいには、「銀桂交換は桂馬の方が駒得」と言い出すほどだった。

大山時代から中原時代へ

中原がプロ入りした時代、棋界の頂点に鎮座していたのが大山康晴である。
全盛期には50期連続タイトル戦出場、19期連続タイトル獲得など、他の競技でも類を見ない絶対王政を築いていた。

そんな大山を対戦成績で107勝55敗と圧倒する中原。
若い方が有利とはいえ、ほぼダブルスコアの数字を見て驚きを隠せない。

もちろん、中原の実力は言わずもがなである。
しかし、それだけでないだろう。

大山といえば、盤外戦術である。
対局中だけでなく、それこそ布団に入るまで神経戦をしかけてきた。
終始自分のペースに持ち込むためである。
ところが、中原には通じなかったのだ。

一例を挙げると、タイトル戦直前、両者と関係者がゴルフをラウンドした。
プレー終了後、大山はすぐに食事にするよう仕切り始める。
まずは、シャワーを浴びるのが定石だろうに…。
だが、中原は気にする素振りもなく、「先に汗を流しましょうよ」とシャワーに向かう。
すると、これ幸いとばかり関係者も付き従う。

通常ならば角が立ちそうなものだが、不思議と中原には当てはまらない。
中原の懐の深さと、人に牙をむかせぬ包容力がなせる業だろう。
あの屈託のない笑顔と悠揚迫らぬ態度に、さすがの大山も勝手が違ったのかもしれない。

次世代との対決

昭和57年、第40期名人戦で加藤一二三に敗れ、無冠となってしまう。
中原誠、34歳の時であった。

翌年、谷川浩司が史上最年少の21歳で名人になるなど、中原時代の終焉とともに群雄割拠の様相を呈していく。
旧世代のライバル・米長邦雄と鎬を削る中、高橋道雄・南芳一ら55年組の台頭もあり、熾烈を極めていく覇権争い。

中でも、谷川時代に待ったをかけた、名人戦は見事といえるだろう。
昭和60年に谷川名人を下し2期防衛後、昭和63年その谷川に奪い返される。
そして、平成2年、三度相まみえると再び4勝2敗で奪還する。
これにより、史上初となる三度目の名人復位を果たすのであった。

谷川浩司が棋界統一を果たせなかったのは、名人戦で中原が壁として立ちはだかったのが大きい。
私は、そんな中原がとても誇らしく思えた。

名人戦名勝負

名人戦という檜舞台で、数多の名勝負を演じた中原誠十六世名人。
中でも、印象に残るシリーズを紹介する。

1.「泥沼流」米長邦雄戦

名人戦において、中原が最も数多く挑戦を受けたのが米長邦雄である。
通算で6回の番勝負を戦い、5度中原が制しているが、最後の最後で勝利した米長は史上最年長となる50歳の名人に輝いた。

数多の名勝負を繰り広げた両雄だが、この1局だけは外せない。

昭和54年の第37期名人戦。
ときの名人・中原誠は米長邦雄を挑戦者に迎えていた。
ここまで名人位を6連覇中の王者・中原だが、直前の王将戦で加藤一二三にタイトルを奪われ、名人戦でもいきなり2連敗の出だしとなる。
一方、米長は棋王のタイトルをその加藤から奪取し、NHK杯でも優勝を飾っている。
勢いの違いもあり、すわ新名人誕生かと棋界周辺がざわついた。

第3局でようやく片目を開けた中原だが、第4局目も苦しい展開で進行する。
だが、中原名人は起死回生の一手を放つ。
これが世に名高い「5七銀」である。
取られそうな場所にわざわざ銀を動かして、スピード重視の終盤に一手かける意表の勝負手。
5七の地点で銀を取らせることにより馬が玉から遠ざかり、さりとて4八に飛車が成れず詰めろが消えたため、あっという間の逆転劇である。

この名人戦史上に残る妙手により、波に乗った中原誠は名人7連覇を達成した。


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2.「怒濤流」大内延介戦

ときは昭和50年、第34期名人戦の挑戦者に名乗りを挙げたのは、“穴熊党総帥”大内延介である。
江戸っ子ならではの気風の良さと、豪快で破壊力満点の棋風から「怒濤流」と呼ばれていた。

このシリーズは中原有利の前評判にもかかわらず、激闘が繰り広げられ、最終局までもつれ込む。
そして、最終第7局、これまで同様激戦が予想された。
しかし、早くも1日目、中原に疑問手があり大内が優勢になってしまう。
その夜、さすがの中原名人も寝付けなかった。
そんな中、ふと…大内の泊まる部屋に目をやると明かりが灯っているではないか。
有利なはずの大内もまた、名人の重みにプレッシャーを感じているのだと、気を取り直したという。

とはいえ、2日目も大内優勢は変わらない。
ついに終盤の佳境を迎え、中原必敗の局面となる。
ところが、大内に手順前後があり、待将棋になる。
そして、指し直しとなった第8局で中原が勝ち、薄氷の防衛となった。

1日目に不利に陥りながらも、大名人の威厳と貫録を誇示し続け、悠然と構える中原誠。
対照的に、名人位の重みと棋界の頂への特別な思いが高じるあまり、大内は平常心を欠いたのだろうか…。

いずれにせよ、痛恨の悪手の要因は外野には分からぬが、大内延介一世一代の大魚を逃したことだけは確かである。

3.「地道高道」高橋道雄戦

中原誠最後の名人防衛となったのが、平成4年に行われた第50期名人戦である。
挑戦者は、4者によるプレーオフを勝ち抜いた高橋道雄であった。
その堅実な指し手から「地道高道」と呼ばれ、谷川浩司とも互して戦った実力者である。

シリーズが開幕すると、対戦成績で大きく負け越し、下馬評不利を伝えられていた高橋が3勝1敗と圧倒する。
中原は得意の矢倉で後塵を拝し続け、あっという間にカド番に追い込まれてしまった。
名人戦史上、1勝3敗から3連勝したケースはない。
さすがの中原も、ここまでかと思われた。

ところが、中原には伝家の宝刀が残されていた。
中原流相がかりである。
名人失冠後に新境地を切り拓き、谷川浩司から名人を奪取した原動力となった戦法だった。

矢倉を捨て相がかりと横歩取りに勝機を見出し、カド番から3連勝した中原は大逆転で15度目の名人を戴冠した。
まさに名人にかける執念、そして大名人ならではの勝負術が印象に残る七番勝負であった。

スキャンダル

中原は50代になり、女流棋士・林葉直子との不倫が発覚する。
“棋界の太陽”がスキャンダルという泥沼に沈んだ瞬間だった。
渦中の中原は自宅の庭に記者たちを招き入れ、あっさりと事実を認める。
しかも、律儀に数回にわたり会見を開く姿から、「何も記者会見まで自然流でしなくても…」と嘆かれた。

私もこの一連の騒動を知り、甚く失望したことを覚えている。
何よりも、将棋界に偉大なる足跡を残した大棋士・中原誠が、将棋に無関心な人々に罵詈雑言を浴びせられることが辛かった。

しかし、改めて気付いたことがある。
たとえ名声が地に堕ちても、やはり私は「自然流」中原誠が好きなのだ。
初めて将棋界に興味を持ったあの日、中原誠はまごうことなき“棋界の太陽”だった。
あたたかい空気に包まれた素晴らしい笑顔を湛え、偉ぶらず、泰然自若を体現した立ち居振舞い。
子ども時代の私にとって中原誠こそ、まさしく偉大さを絵に描いたような大人物だった。

やはり、少年時代の思い出は美しく、色褪せない。
世間の喧騒の中、私はひとり、終生の中原ファンを誓うのであった。

まとめ

第44回NHK杯戦決勝。
平成7年3月に行われた戦いは、宿命のライバル中原誠と米長邦雄が相まみえる。
準決勝で中原は佐藤康光、米長は羽生善治という、棋界きっての強豪を破っての決勝進出だった。

その対局前、政界進出を噂された米長は感慨深げに語った。

「プロ棋士になって30年。中原先生と出会うことができ、幸せな棋士人生でした」

人に歴史ありと言う。
この棋界最大のライバルふたりに、私も様々な思いが去来した。

米長の強烈な攻めを凌ぎ、6度目の優勝を飾った中原誠。
その姿に、私は喜びを噛みしめる。

私は長らく思うことがある。
世の中には様々な美徳があり、目指すべきものがある。
その中でも、「自然流こそ我が悲願」だと。

行きかう流れは大河のごとく、悠久の時を思わせる「自然流」。
私にとって、中原誠は今も変わらぬ“棋界の太陽”なのである。

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