忘れ得ぬ名将① 「悲運の闘将」西本幸雄





今年のパリーグは、オリックス・バファローズが優勝を遂げた。
リーグ制覇は近鉄を吸収合併して以降初であり、それ以前を含めても25年ぶりとなる。

そんなオリックスにゆかりのチームといえば、阪急ブレーブスと近鉄バファローズである。
その両チームで監督を務め、当時パリーグの弱小球団といわれながらも、リーグ優勝に導いた名将がいた。

その男こそ「悲運の闘将」と呼ばれた西本幸雄である。

「道のりは遠くとも、目標に向かって歩めば、一歩一歩近づくことだけは確かだ」

彼の生き様は、この座右の銘を思わせた。


日本プロ野球、昭和の名将―1936ー1988


監督歴

西本幸雄は1920年4月25日に和歌山県で生まれた。
現役時代は特段目立つ成績を残すことなく1955年に引退すると、その後は指導者の道を歩む。

2軍監督やコーチを歴任後、1960年大毎オリオンズの監督に就任すると、強力ミサイル打線を擁し、就任1年目にしてパリーグを制した。
しかし、日本シリーズでは勝負処でのスクイズ失敗などもあり、4連敗で敗退する。

1963年、阪急ブレーブスの監督に就任し、灰色の球団と呼ばれた弱小チームを持ち前の情熱を傾け鍛えあげた。
そんな西本の思いが実り、就任5年目の1967年に悲願の初優勝を果たす。
以後、監督を退く1973年までにリーグを5度制覇するなど、ブレーブスの名に違わぬ勇者に育てた。

そして、翌1974年からは近鉄バファローズの監督に就く。
この近鉄も、未だ優勝経験のないパリーグきってのお荷物球団であった。
西本は、そんな近鉄を阪急時代以上の熱意をもって指導する。
その甲斐あって、監督6年目の1979年に球団悲願のパリーグ初優勝を遂げると、翌年も連覇した。

悲運の闘将

西本は最初の大毎オリオンズを除けば弱小チームを率いたにもかかわらず、通算20年の監督生活で実に8度のリーグ優勝を成し遂げた。
誰もが認める名将である。

しかし、日本シリーズだけは1度も勝てなかった。
近鉄時代は広島と2年連続で最終戦まで戦うも、後一歩で涙を呑む。
特に、1979年は1点リードされた9回裏に無死満塁のチャンスを迎えながら、「江夏の21球」の前に無得点でゲームセットとなる。

翌日の新聞には“悲運の名将・西本幸雄”の見出しが躍った。
それを見た西本は呟いた。
「何を言うとるんや。わしほど幸運な監督が他にいると思うとるんか」

この言葉こそが、監督西本幸雄の真骨頂なのだ。
西本は監督退任後、日本シリーズで勝てなかった悲運について訊かれると必ずこう言った。
「素晴らしい選手に恵まれて、8度もパリーグ制覇ができた。そんな私が悲運なんて、とんでもない。むしろ私は幸運だ」

優勝できたのは、あくまでもグラウンドで戦った選手のおかげである。
この選手への感謝の心を忘れないのが西本らしい。

指導者としての信念

西本の指導はとにかく厳しかった。
グラウンドの上で怠ける者はもちろん、緊張感なく弛緩した態度で練習に向かう者にも容赦なく雷が落とされる。
主力選手にも一切の妥協をしない。
こうした姿勢をブレずに貫くため、ときにはベテラン選手と摩擦を起こすこともあった。

だが、時間の経過とともに、野球への情熱と人柄に惹かれ、気が付くと西本の背中についていく。

一方、真摯に練習に取り組む者には、厳しくもあたたかい眼差しを送るのが西本流である。
そこには、決して器用とか効率とかには目もくれず、選手が出来るまで手取り足取り指導する姿があった。
たとえ1時間でも2時間でも…。

西本が“愚直のダンディズム”といわれる所以である。

オヤジ

監督時代、西本幸雄はどんなときも選手を庇った。

1969年日本シリーズ、阪急対巨人の第4戦。
巨人がダブルスチールを試みて、3塁ランナーの土井がホームに突入する。
ホームベース上でクロスプレーになるが、完全にアウトのタイミングに見えた。
ところが、主審の岡田はセーフの判定を下す。

その判定に激高した捕手の岡村は、主審岡田を殴り退場処分となってしまう。
この判定は物議を醸した。
なぜならば、何度ビデオで確認してもアウトにしか見えなかったからである。

ところが、カメラマンが撮影した写真に、捕手のブロックの隙間からホームベースを踏む土井の左足が写っていたのだ。
セーフである。

その晩、新聞記者が西本のコメントをとるため、写真持参で取材に訪れた。
だが、西本は写真を見ながら断言する。
「写真がどうした。アウトはアウトだ!」

呆気にとられる新聞記者。
こんな筋が通らぬ話は有りえない。
しかし、西本監督を取り囲む選手たちは、誰一人として怪訝そうな様子がない。
その時、新聞記者は、はたと気づく。

「たしかに、監督の言っていることは理不尽かもしれない。でも、監督はどんな時でも俺たちの味方になって物申してくれる」

ブレーブス(勇者)たちの顔には、監督への揺るぎない信頼感が満ちていた。

また、こんなこともあった。
阪急の攻撃で、内野ゴロの間に3塁ランナーがホームに突入した。
クロスプレーになりスパイクで足を削られた捕手・野村克也は、カッとなりランナーの尻を蹴り上げる。

その瞬間、3塁コーチにいた御年53歳の西本監督が猪突猛進、野村めがけて体当たりをぶちかました。
「俺の選手に何をするんだ!」と。
さすがの野村も、その迫力に手も足も出なかったという。

「理屈じゃない。オヤジはいつでも俺たちを守ってくれる」

暴れる西本幸雄を止めながら、選手たちは改めて“オヤジ”に忠誠を誓うのであった。


愛弟子とのエピソード

本項では、阪急時代の愛弟子たちとのエピソードに触れていく。

通算284勝をあげた山田久志は、“史上最高のサブマリン”と謳われた名投手である。
そんな山田も、なかなかプロの厚い壁を破れずにいた。

それは入団2年目だった。
開幕から6連敗中の山田は「このまま一生勝てないかもしれない」と、もがき苦しんでいた。
そんな山田を、西本監督は呼び出した。

「ちょっとぐらい勝てなくても、へこたれたらあかん。苦しいかもしれん。でも、コツコツやっとったら、お天道様はお見通しや」

山田は今でもこの言葉を忘れられない。
その言葉をきっかけに、シーズン10勝をあげエースへと飛躍した。

2人目は“世界の盗塁王”福本豊である。
13年連続盗塁王にして1065盗塁の世界記録を打ち立て、通算2543安打を放ったレジェンドである。
王貞治に続く国民栄誉賞を打診されるも、「立ちションもできなくなる」という理由で断った豪傑だ。

実は、福本が一番誇りに思っているのは、208本のホームランを打ったことである。
168㎝という小さな体で200本以上打ったのは、たしかに偉業だろう。

福本は俊足を活かすため、ゴロを打ち内野安打を稼ごうと考えていた時期があった。
ところが、そのバッティングを見た西本に雷を落とされる。

「チョコンと当てにいくバッティングでも、少しはヒットを打てるやろう。だが、それでは長続きせん。いくら足が速くても、本物の打撃の力がなければ塁にも出れん。そして、ツボに来たら、ガツンと放り込める怖い打者にならなくてはいかん!」

福本が長くレギュラーを張れたのは、あの言葉があればこそだという。

「自分は阪急と西本監督に育ててもらった。もし、西本監督との出会いがなければ今の自分はない」
その真摯な眼差しには、亡き恩師への深い敬意が宿っていた。

首位打者を2回、打点王にも3度輝いたのが、西本道場の“やんちゃ坊主”加藤秀司である。
加藤の才能の片鱗を見逃さなかった西本は、ことさら熱を込めて指導した。

入団3年目のシーズン。
成長著しい加藤は、オープン戦から3番バッターを任される。
だが、スランプが襲う。
加藤は3番を外して欲しいと願い出るも、西本は決して譲らない。

その後、自力で不振を克服し、不動の3番としてリーグを代表する強打者へと駆け上がっていく。
西本の辛抱があればこそ、加藤の飛躍があったのだ。

時は流れ、1979年の近鉄対阪急のプレーオフ。
西本監督率いる近鉄の選手とすれ違いざま、決戦に臨む加藤秀司は言い放つ。
「オヤジを男にしてやれ!」

球団史上初のリーグ制覇がかかった大一番。
それは、西本幸雄の悲願であった。
たとえ敵チームにいても、加藤秀司にとって西本幸雄こそ生涯の恩師なのだ。
口をついた言葉に、西本への思いが滲み出た。

まとめ

近鉄の監督就任5年目のシーズン終了後、西本は成績不振の責任を取るべく辞任を決意する。
ところが、それを知った近鉄の選手たちは涙を流して懇願した。

「監督を辞めないでくれ!おれたちを見捨てないでくれ!」

翌年、辞任撤回をした西本率いる近鉄は、悲願のリーグ優勝を達成する。

1981年、西本幸雄が監督生活に別れを告げる時が来た。
奇しくも相手は、常勝軍団に育てあげた阪急ブレーブスであった。

試合終了後、別れの挨拶をするためマウンドに立つ「悲運の闘将」西本幸雄。

「実に充実した、やりがいのある20年でした。若い血にあふれる選手を預からせてもらい、男冥利に尽きます。本日をもちまして、2度とユニホームを着ることはありません。ファンのみなさま、本当に長い間ありがとうございました」

「悲運の闘将」の野球人生の大団円に、こみ上げるものを抑えきれぬ近鉄の選手たちは、恩師の下に走り出す。
と、同時に阪急ブレーブスのベンチからも山田久志、福本豊、加藤秀司等、かつての門下生も駆け寄った。
もはや、敵味方関係なく入り乱れ、胴上げが始まった。

選手、チーム関係者、記者、ファン、その場に集う全ての人が泣いている。
そして、宙を舞う西本幸雄の目にも…。

「日本シリーズで8回も負けたが、決して強がりではなく後悔はない。自分の作ったチームが上り坂にあると感じるときの快感は優勝よりもええもんやった」と述懐する西本は言葉を継ぐ。
「阪急時代、俺が鍛えた選手が日本シリーズで、あの王、長嶋と勝負しとるわけよ。もう、それを見ただけで涙が出そうになった。よう、ここまできたもんやと…」

誰よりも選手に情熱と愛情を注いだ西本幸雄。
人は彼を「悲運の闘将」と呼ぶ。
だが、西本幸雄ほど選手に恵まれ、慕われた監督は決していないだろう。


パ・リーグを生きた男 悲運の闘将・西本幸雄

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