忘れ得ぬ名将②「智将」三原脩 ~魔術師と呼ばれたカリスマの肖像~前編




プロ野球開闢以来、数多の名監督たちが誕生した。
古くは“親分”鶴岡一人、“悲運の闘将”西本幸雄、V9を達成した“神様”川上哲治などが挙げられる。
平成以降では“ID野球”野村克也、“俺流”落合博満も抜群の存在感を示した。

だが、そんな記録にも記憶にも残る名将たちの中で、私にとって最も偉大な監督といえば“智将”三原脩をおいて他にいまい。

先見の明と人心掌握術に優れ、魔法のような用兵戦術を操り数々の奇跡を起こした稀代のカリスマ、それが三原脩なのである。


魔術師―三原脩と西鉄ライオンズ

三原脩とは

三原脩は1911年11月21日に香川県で生を受けた。
高松中学(現高松高校)時代に甲子園に出場した後、早稲田大学の主力選手として活躍する。
当時、隆盛を誇った六大学野球の看板選手として鳴らした三原は、ネームバリューを買われプロ野球契約選手第一号となり巨人に入団した。

選手としては短命に終わった三原は読売新聞の野球記者を経たのち、巨人の監督に就任する。
そして、西鉄、大洋などでも監督を務め、伝説的名監督としてプロ野球史に燦然と輝く足跡を残した。

巨人監督時代

元々、三原は監督業には興味がなかったが、成績が低迷していた古巣巨人の窮地を救うべく白羽の矢が立ったことにより、監督に就任した。
すると、期待に応えた三原は、チームを立て直し3年目に優勝を果たす。

しかし、その年、南海からエース別所毅彦の強引な引き抜き工作が露呈し、主力選手たちから猛反発を受けてしまう。
また、シーズン半ばに巨人のスター選手・水原茂がシベリア抑留から解放され帰国した。
これらが重なり、三原に叛旗を翻す選手たちから、水原は信望を寄せられていく。
さらに、生え抜きの選手たちが中心になって反三原の連判状が作られるなど、三原は徐々にチームでの居場所を失っていった。

三原からすれば乞われて監督になり、優勝まで成し遂げたにもかかわらず、その座を追われるはめになったのである。
しかも、翌年監督に就任したのが、ライバルともいえる水原茂であった。
優勝監督という手前もあるので、一応、三原には総監督というポストが与えられる。
だが、それは名ばかりのもので、恥辱にまみれた1年を過ごすことになった。

西鉄監督時代

雌伏の時を過ごす三原は、臥薪嘗胆を誓う。
「どんなチームでもいい。私に預けてくれ。そうすれば、必ずや巨人を倒すチームを育ててみせる」

三原脩の血を吐くような言葉を聞きつけたのが、後に黄金時代を築く西鉄ライオンズであった。
単なる監督としてだけではなく、ゼネラルマネージャー的な役割も任せて、九州は福岡に日本一のチームを作りたいという経営陣の熱意。
そして何よりも、石もて追われた巨人を倒すという強い思いが後押しとなり、三原脩は福岡の地に降り立った。

1.遠心力野球

三原が、西鉄ライオンズで標榜したのが「遠心力野球」である。

当時のパリーグは鶴岡監督率いる南海ホークスが最強の頂に君臨しており、球界の盟主巨人と同じく選手に規律を課して管理し、目標に向かって一丸となって突き進む「求心力野球」を実践していた。
これに対抗するため、選手個々の能力を最大限に発揮し、その強大なエネルギーを敵に向かって放出する様を“遠心力”に喩え、管理野球を打破しようと試みた。

この「遠心力野球」の根底をなすのは、選手自身が考えて行動するプロ意識である。
そこに要求されるのは本人の自覚に基づく研鑽であり、ある意味コーチや監督に管理されるよりも厳しいものがあった。

このように選手を大人扱いする三原は、プライベートには一切口をはさまなかった。
どんなに酒を飲もうが、夜遊びをしようが、そのことについては咎めない。
しかし、プロ野球選手の聖域であるグラウンドに立つ時は、全力でプレーできるよう自己管理を要求した。
それが、プロたる者の最低限の務めだという信念を持っていたからである。

自由には当然責任が伴う。
西鉄黄金時代の選手たちは、豪放磊落を絵に描いたような野武士集団であった。
しかし、彼らは言葉に出さずとも、三原イズムを汲み取ることのできる真のプロフェッショナルたちであった。

2.流線型打線

流線型打線とは流体力学からヒントを得て、三原が記者時代から提唱していたものである。
簡単にいうと、魚類や新幹線などが流線型の代表的形状であり、中心部が最も太く曲線を描きながら先端と後部にいくに従い細くなっていく。
この形状が最も抵抗を受けず、効率よくスピードを出せる。
こうした理論に基づき、打線を組んだことから名付けられた。

流線形でいう中心部を打線に当てはめると、そこはクリーンアップとなる。
その中でも、最も太い(強い)核となる部分に当たるのが4番であり、最強バッターが入る。
ここまでは、一般的であろう。
流線形打線が斬新だったのは、2番バッターを重視し強打者を置いたことである。
通常、2番バッターの特徴としては、バントやヒットエンドランなど小細工がきく器用なタイプが多い。
あくまでもクリーンアップへの繋ぎ役を求められるので、1番バッターに比べると打力が劣るケースがほとんである。

しかし、流線型に当てはめると、より中心に近い2番に強打者を配置するのが理に適う。
したがって、三原は2番にクリーンアップ級の長打力と勝負強さを兼ね備えた豊田泰光を起用する。
もちろん、当時の西鉄打線が球界随一の強力打線を誇っていたことも、この理論を可能たらしめていた。
だからこそ、本来はクリーンアップに入るべき打棒を誇る豊田を2番に配置できたのだ。

その強力打線を背景に、三原は2番にバントで送らせるようなスケールの小さい野球を指向せず、果敢にヒッティングに打って出た。
事実、西鉄が初優勝した1954年は流線型打線が爆発し、前年に比べ100点以上も得点力が飛躍した。
しかも、打率3割をマークしたのは、4番の大下弘だけだったのだ。

チーム打率よりも得点力こそが肝要であるという三原脩の持論を、見事なまでに体現した流線型打線。
従来の常識にとらわれない“智将”ならではの発想で、西鉄ライオンズは黄金時代を築いた。

3・悲願達成

1954年にリーグ優勝を果たすも、日本シリーズでは中日相手に3勝4敗で惜敗する。

1956年、再びパリーグを制覇した西鉄が、日本シリーズで迎えた相手が因縁浅からぬ水原茂率いる巨人であった。
かつての遺恨から、巌流島の決闘と呼ばれた一世一代の大決戦。
戦前の予想では圧倒的に巨人有利であったことも手伝い、開幕戦を前に力みかえる西鉄ナイン。
それを見てとった三原は、ミーティングで驚きの発言をする。

「今日は負けてもいい。ただし、巨人の選手をよく観てくること」

思わず拍子抜けする選手たち。
しかし、その言葉で肩の力が抜けリラックスして、グラウンドに立つことができたのだ。

いきなり、初戦から三原マジックが炸裂する。
大事な開幕戦の先発投手に、ペナントレースで2勝しかしていないベテランの川崎徳次を起用したのである。
もちろん、“魔術師”三原には狙いがあった。
大舞台に慣れさせるため、主力投手全員をマウンドに送ったのである。
つまり、先発ピッチャーは誰でもよかったのである。
加えて、投手全員の投球を見ることにより、巨人相手に通用する投手の見極めもできたのだ。

まさに、一石二鳥とはこのことである。

初戦を落とした西鉄だが、敗北と引き換えに1勝以上の収穫をあげることに成功する。
己と敵の戦力を冷静に分析し、戦術を駆使する孫氏の兵法が如き三原采配が功を奏し、結局4勝2敗で西鉄ライオンズは日本一に輝いた。

ゲームセットの声を合図に、胴上げされた“智将”が宙に舞う。
すると、あの三原脩の目に涙が光っているではないか!
長き苦難の道のりの末に、打倒巨人、そして打倒水原茂の悲願が成就した瞬間だった。

それにしても、私は三原脩という人物に感嘆せずにはいられない。
臥薪嘗胆の思いを胸に秘め、入れ込む自軍の選手を宥め落ち着かせ、日本一がかかった檜舞台の開幕戦を情報収集の場として捨てることのできる大胆さと冷静沈着さ。
因縁の宿敵を目前にして、通常ならば我を忘れ、はやる気持ちを抑えることができないのではないか。

指揮官として必要な心と技を極めた名将・三原脩。
この優勝を皮切りに、三原率いる西鉄は3年連続日本一の座に鎮座した。

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