忘れ得ぬ名将②「智将」三原脩 ~魔術師と呼ばれたカリスマの肖像~後編




大洋監督時代

1.奇跡の日本一

後に自身でも語っていたように、三原脩の長きに渡る監督生活の中で、最も采配が冴え渡ったのが大洋ホエールズを日本一に導いた1960年のシーズンだった。
何しろ前年とほとんど変わらぬ戦力で、6年連続最下位のチームを日本一に導いたのである。
まさしく「巨人に独占されたセリーグに風雲を起こすために私は来た」という公約を果たしたといえる。

優勝の原動力として挙げられるのが、投手の分業制である。
今ではよく目にするが、当時は1人の打者を抑えるために投手を交代するワンポイントリリーフはまず見られなかった。
いち早く、こうした起用法を取り入れたのが三原脩だった。
絶妙の継投策を用いた大洋は1点差ゲームで34勝17敗という抜群の勝負強さを発揮し、ペナントレースを制す。

接戦を得意とする大洋は日本シリーズでも全て1点差ゲームで競り勝ち、4連勝で日本一の座を射止めた。
まさに、三原脩の名言「野球は筋書きのないドラマ」を地でいく奇跡の日本一であった。


日本プロ野球、昭和の名将―1936ー1988 

2.大洋躍進の理由

先で挙げた投手の分業制以外にも、大洋躍進のカギとなる“魔術師”ならではの巧みな用兵戦術が光った。

(1) チームの意識改革

三原は、開幕戦からいきなり6連敗を喫してしまう。
しかし、全く慌てることなくチームの課題改善に着手する。
それは、チームにはびこる負け犬根性の一掃であった。

三原は主力選手でも怠慢なプレーをすれば試合に出さないという、厳しい姿勢を貫いた。
ピリッと引き締まっていくチームの雰囲気。
実は、監督受諾の条件として抵抗勢力となるベテラン選手のトレードを球団に要望していたこともあり、若手中心のチームには効果てきめんとなったのだ。
就任早々チームの低迷の原因を看破し、それを見事に修正した三原脩。

こうして、大洋ホエールズは徐々に戦うプロ集団へと意識改革が促されていった。

(2) 適材適所の人材活用術

世間で囃し立てられながら、結局はお題目で終わる適材適所の人材活用術だが、三原は見事にそれを成功に導いた。

当時の大洋には、一流と呼べる選手は数人しかいなかった。
そこで、二流以上一流未満の“超二流”と呼ばれた選手たちに、三原は目を付ける。

まずは、投手の権藤正利である。
権藤は大きく縦に割れるドロップを武器に1年目から15勝をあげ新人王に輝くが、それ以降、プロ野球記録となる28連敗を喫するなど、極度の不振に喘いでいた。
引退を考えるほど自信を失っていた権藤を、三原は見事に復活させる。
実は、権藤は華奢な体に加えて胃下垂による食欲不振もあり、イニングを重ねるとスタミナ切れを起こし打ちこまれていたのである。

それを見抜いた三原は、権藤を短いイニング専門の中継ぎと抑えに起用した。
すると、三原の起用法がピタリと嵌まり、新人王時代の快投が甦る。
また、三原のアドバイスで食生活の改善にも取り組みスタミナもついた結果、この年12勝をあげ、防御率も1.42という好成績を残した。

内野の要ショートのレギュラーを、麻生実男と浜中祥和が争っていた。
だが、麻生は打撃のセンスこそあるが守備に難があり、浜中は守備と走塁は一流の輝きを見せるも打撃はさっぱりであった。
まさに、帯に短し襷に長しである。

そんな折、三原は近鉄のショートを思い出す。
西鉄監督時代に目にした近鉄のショート・鈴木武は派手さは無いが、勝負強い打撃と玉際に強い堅実な守備を誇るいぶし銀のような選手であった。
ところが、今は二軍暮らしをしているという。
探りを入れると、職人気質の鈴木は監督と衝突し、干されていたのだ。
これを千載一遇のチャンスと見た三原は近鉄とのトレードをまとめ、シーズン途中で鈴木武を獲得する。
走攻守の三拍子揃う鈴木は、三原にとって喉から手が出るほど欲しい選手だった。
しかも、大人しい選手が揃うチームにあって、打たれ強い鈴木はチームの叱られ役としても欠かせない存在となる。

鈴木加入の効果はこれに留まらない。
守備と走塁が自慢の浜中祥和は終盤の守備固めや勝負所での代走に専念できたため、見違えるような自信に溢れたプレーを見せるようになった。

また、控えにまわった麻生実男を戦力として活かすため、三原は彼の練習風景を観察していると、あることに気付く。
麻生は初球のストライクに必ず快音を響かせるのだ。
一振りに賭ける代打稼業に必要なのは、優れた打撃技術だけではない。
三原の経験上、1球目から良い当たりを見せる選手は代打に向いていた。

「君こそ攻撃陣の切り札だ」という三原の口説き文句で、麻生は元祖代打男として新境地を切り拓く。
その年の巨人戦に12打数7安打と大暴れするなど優勝に大きく貢献し、オールスターゲームにも選出された。

人材登用の粋を極めた三原脩が、「作戦統率の妙」という理由で菊池寛賞を受賞したのも頷ける。


三原脩の昭和三十五年―「超二流」たちが放ったいちど限りの閃光 (宝島社文庫)

先見の明と勝負哲学

ここでは、野球を知り尽くした三原脩の慧眼と戦術、人生観に基づく勝負哲学に迫る。

1. 先駆的戦術

三原は今でいうID野球を実践し、ミーティング等で選手の意識改革を促した。
また、科学的アプローチを用いて具体例を出しながら説く三原の教えに、選手たちは目からウロコが落ちたという。

そして、三原は当時としては画期的な守備のフォーメーションを徹底的に選手に叩き込む。
右方向の打球の場合、現在では当たり前のように投手が一塁のベースカバーに入る。
また、外野からの返球に対する内野陣の中継プレーも見馴れた光景である。
しかし、これらは全て三原脩が考案し、実戦で取り入れたのである。

さらに、三原はスターティングメンバーに“あて馬”と呼ばれる偵察要員を使う作戦を重用し、先発投手に応じて打線を組み替えた。
当時としては、まず見られない作戦であった。

“魔術師”と呼ばれ、意表をつく采配に注目を浴びがちな三原であったが、緻密な理論に裏打ちされた野球を展開したからこそ、結果を残せたのである。

2.臨機応変の自在流

三原は西鉄時代は攻撃野球を、大洋では投手陣を中心とした守りの野球を全面に打ち出して戦った。
つまり、その時々の戦力に応じて、最善の戦い方を行っていたのである。
だが、決して攻めと守りのどちらかに偏って、戦うことを良しとしていたわけではない。
野球を人生の縮図と捉えていた三原の哲学は、「攻守のバランスの上に立ってこそ勝利に近づく」というものであった。

選手の扱い方も、相手の性格などを考慮し変えていく。
反骨精神溢れるプレーヤーには、厳しく接し負けん気を煽る。
マイペースの天才肌には、プライドを傷つけないよう放任主義をとる。
型にはめるのではなく、あくまでも選手の個性を重視する変幻自在の人心掌握術を得意とした。

こうしてみると、三原野球は臨機応変の自在流といえるだろう。
まさに、“名人に定石なし”とはこのことである。

3.カリスマ性

もう一つ、三原の人心掌握術の特徴として挙げられるのが、カリスマ性である。

西鉄黄金時代を支えた豊田泰光は述懐する。

「三原監督は、選手にああしろ、こうしろと口うるさく言わない。しかし、そのカリスマ的指導には独特の緊張感があった。決して選手と馴れ合わない監督だったが、選手たちは三原さんに誉められたいという思いを抱き、絶えず向上心に溢れていた」

当時の西鉄は野武士軍団と呼ばれる豪傑揃いであった。
その個性溢れる選手たちをチームとして束ねたのが、“カリスマ”三原脩なのである。

4.ファンあってのプロ野球

三原脩は勝つだけでなく、ファンが喜ぶ試合をすることがプロの使命であるという信念を持っていた。
それを象徴するのが「スタンドを見て野球をやれ」という名言である。

こんなエピソードがある。
当時の球界を代表するホームランバッター・青田昇が、無死1・2塁でセーフティバントを成功させた。
意気揚々とベンチに引き上げてくる青田。
ところが、三原は雷を落とした。

「お前にバントをさせるために、俺は3番を打たせているんじゃない!ファンはお前のホームランを見に来ているんだ!」

初めは不満を覚えた青田だが、時間が経つにつれ「三原さんは、そこまでファンを大切にしているのか…」と心酔する。

「魅せながら勝ってこそプロ」という究極の命題を両立し、ファンを魅了した三原野球。
それは、巨人V9時代の川上野球をルーツとする広岡達朗や森祇晶等の守りを重視した管理野球とは、一線を画するスぺクタルなものであった。

5.人生観と勝負論

戦争中、兵士としてビルマに赴任していた体験が、三原の人生観に大きく影響する。
敵の銃撃を受け左足を負傷し、マラリアに罹り瀕死の状態にも陥った。

ある戦闘で、三原は部隊の守備陣として残る予定だったが、たまたま攻撃陣に参加した。
ところが、残留部隊は敵襲により壊滅状態となってしまう。
もし、あのまま残っていたら…。

「人の運命は、何が幸いし災いするのか分からない。そこには、定命の者には如何ともしがたい運・不運が介在する」

この真理を悟った三原はツキや流れの存在を重んじ、そこに勝機を見出していく。

ある日、作家の伊集院静は、三原とプロ野球観戦に出かける。
終盤を迎え、ワンサイドゲームとなっていた。
ところが、試合の趨勢を見守っていた三原は突然「流れが変わった。この試合は逆転する」と予言する。
果たして、本当に逆転してしまったではないか。
ここまでの逆転勝ちは、シーズンを通しても滅多にない。

試合の流れの中で勝負の綾を感じ取り、偶然という名の必然を看破する三原脩の千里眼に、伊集院静は声も出なかった。

まとめ

晩年、病床に伏した三原には、胸中に秘めていた悔恨があった。
それは、日本一の座を射止めるため酷使させたチームのエースに、どうしても伝えたかった三原脩の遺言ともいうべきものである。

そのエースとは、西鉄ライオンズの稲尾和久と大洋ホエールズの秋山登であった。

稲尾といえば、何といっても1958年の巨人との日本シリーズにおける奇跡の3連敗4連勝の立役者である。
その稲尾に三原は頭を下げる。

「3連敗し負けを覚悟した時、どうすれば気性の荒い西鉄のファンを納得させられるかと頭を悩ませた。思案にくれたが稲尾しか考えられなかった。私は敗北を前提にして作戦を立てるという、チームの将たる監督して最もやってはならぬことをしたのだ。自分の都合で連投させて申し訳なかった」

そして、大洋のエース秋山登にも詫びた。

「あの時、優勝するためにはエースのおまえに頼るしかなかった。だが、その酷使のせいで投手生命を縮めてしまい、本当にすまなかった」。

だが、稲尾も秋山も、三原監督を恨む気持ちなど露ほどにもなかった。
監督のお陰で日本一になれたと、感謝の念しか抱いていなかったのである。
特に秋山は、通算勝利193勝と名球会入り目前で、酷使が祟り引退を余儀なくされた。
しかし、「名球会に入るよりも、素晴らしい経験をさせてもらえた。一片の悔いもない」と、晴れ晴れとした表情で語っている。

カリスマ性と威厳に満ちた名将と、チームのために投げ抜くエース。
監督と選手が織りなす美しい物語に、熱いものがこみ上げるのは私だけではないはずだ。
往時のプロ野球には、言葉に出さずとも分かりあえる魂の邂逅が存在した。

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