全盛時代の羽生善治 その強さの源泉を考察する





2023年10月11日、王座戦第4局で勝利し、史上初の八冠制覇を成し遂げた藤井聡太。
この偉業に際し、想起するのは1996年に達成した羽生善治の七冠制覇である。

当時の羽生さんは、恐ろしく強かった。
何か神懸かり的なものを感じたことを思い出す。

本稿では、羽生善治永世七冠の全盛時代の強さの源泉を考察する。

驚異の実績 

今さら語るまでもないだろうが、羽生さんの実績は驚異的である。
タイトル獲得99期をはじめとし、史上初の七冠王に輝くなど、歴史に名を残す名棋士として誉れ高い。
それも、谷川浩司や同年代のライバル佐藤康光、森内俊之など、歴史上これほどの精鋭が揃ったことはない時代を駆け抜け、令和の世でもトップを走り続けていることには只々感心するしかない。
藤井聡太八冠の誕生で盛り上がる将棋界だが、羽生善治もまた不世出の棋士である。

羽生善治の強さの源泉

1. 竹のようなしなやかさ

羽生善治の強さの源泉とは、一体なんなのだろう。
彼の対局を長年見てまず思うのは、竹のようなしなやかさである。

例えば、谷川浩司十七世名人は“光速の寄せ”と呼ばれるように、終盤にスピードの概念をもたらした。
また、佐藤康光は超合金のような固い意志を感じさせ、そのマインドを具現化した緻密にして強烈な攻めで他の棋士たちを畏怖させた。
その後、独創的な棋風に転換したのも興味深い。

羽生善治は彼らの長所と比べても、ときにそれらを凌駕する力を見せつつ、臨機応変な柔軟性も持っており死角が見当たらない。
まさに、剛柔あわせ持つ緩急自在な指し回しといえるだろう。

高い硬度を誇る金属などは、綻びが生じると意外と脆い。
しかし、竹は衝撃や負荷がかかっても、しなりながらその力を吸収し、ポッキリと折れることはないのである。

2. 羽生マジック

いまだ健在の有名なフレーズといえば“羽生マジック”である。
これは中・終盤の難しい場面で、誰も思いつかないような魔法の一手を放つことから名付けられた。

だが、それは本当にマジックなのだろうか。
たしかに、他の棋士からすれば苦戦にしか見えず、そこから飛び出した起死回生の一手に感じるのかもしれない。
しかし、あれだけ多くの絶妙手が頻繁に指されるということは、もはや偶然ではなく必然ではないだろうか。

つまり、羽生さんからすれば予定の局面であり、“羽生マジック”と呼ばれる着手も読み筋なのではないかとさえ思えてくる。
おそらく、現在の藤井八冠と同様に全盛期の羽生さんの目には、他の棋士とは見えている景色が違うように感じた。

3. 決断力

平成7年の棋聖戦、挑戦者に迎えるは若武者・三浦弘行であった。
ちなみに、翌年の同棋戦にて羽生七冠の牙城を最初に崩したのも彼である。

七冠制覇に邁進する第1局、それこそが羽生善治の尋常ならざる決断力を雄弁に物語る。
中盤の難所に差し掛かると、羽生棋聖は三浦陣に斬り込んだ。
通常ならば、果敢に打って出るか無難な手を指して様子見をするか非常に迷う局面であった。
攻めるならば、特に時間を使って慎重に読みを入れたいところである。

ところが、羽生棋聖はわずか3分の考慮時間で攻撃を選択した。
いかに天才・羽生善治といえども、あの局面を3分で読み切ることは不可能である。
結果は敵の陣形を粉砕し、羽生棋聖の完勝と相成った。
タイトルが懸かった大事な対局にもかかわらず、羽生棋聖の決断力と大局観には畏れ入る。

また、こんなこともあった。
郷田真隆挑戦者との王位戦七番勝負第3局。
2連敗で迎えた本局は負ければ後がなく、しかも後手番という剣が峰に立たされる。
当時の将棋界ではタイトル戦での3連敗4連勝は前例が無く、ここで星を落とすと七冠ロードに暗雲がたちこめる。

羽生王位が選んだ戦型は、初戦で完敗した四間飛車だった。
それは羽生王位の意地だったのだろうか。
あるいは、この苦しい状況だからこそ一度完敗した戦法で借りを返さなければ、本シリーズを戦えないと思ったのだろうか。
いずれにせよ、勇気のいる決断だったに違いない。

この第3局を激戦の末に制した羽生王位は、4連勝で王位を防衛した。


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4. 羽生善治の本質

女流棋士の清水市代はかつて「羽生先生は恐ろしい人である」と語っていた。
いつも穏やかな表情で優しい笑みを浮かべる羽生さんには、全く似つかわしくない表現である。

しかし、それは私も常々感じていた。
若い頃の羽生さんは対局中、凄まじい表情で相手を睨みつけつける“羽生睨み”をしばしば見せていた。
その姿は肉食動物を想起させる、今にも鋭い牙で喉元に襲いかかるような迫力があった。
もちろん相手を威圧する意図はなく、無意識のうちに出てしまう癖である。
だが、羽生善治が内に秘める闘争本能の発露のように思えてならなかった。

また、ある棋士はこう言った。

「羽生善治の強さは隙のない序盤・中盤、そして驚異的な終盤力にあるといわれている。確かに、それは一理ある。だが、私はそうは思わない。彼の本当の強さの源泉は、その直感力や動物的な勘である」

その言葉を耳にし、私は腑に落ちた。
森下卓八段との名人戦を思い出したからである。
それは1995年に行われた第53期名人戦・第1局のことだった。

後手番ながら「矢倉の大家」森下は羽生名人相手に、堂々たる指し回しで追い詰める。
そして最終盤、森下必勝の局面を迎えた。
誰もが森下の勝ちを確信し、当時テレビ中継を観戦していた私も同じ思いを抱いていた。

そのとき、羽虫が大量に入り込んだ対局室で森下は内心イラついていた。

「羽生さん、あなた名人だろう!なぜ、投げないんだ!」と。

実はこの夜、森下は恋人に電話する約束をしていた。
にもかかわらず、どうあがいても勝ちの無い局面で、時の名人が指し続けているのである。

そして、事件は起こった。
何気なく打った桂馬が敗着となり、あっという間の逆転負けである。

連敗で迎えた第3局、またもや森下必勝の局面である。
だが、今度はなぜか、羽生名人はあっさりと投了した。

森下は述懐する。

「第1局の私は羽虫や彼女への電話を気にかけ、集中しきれていませんでした。一方、第3局は決死の覚悟で臨んでいました。きっと、羽生さんは私の心のあり様を見抜いていたんだと思います。羽生さんはその辺を本能的に分かるような気がします」

げに恐ろしきは、羽生善治の直感力と動物的な勘である。
そんなことを再認識させられた名人戦であった。

5. 将棋への深き愛

羽生さんが最も傑出しているのは、将棋への飽くなき探究心と愛情の深さではないか。
将棋連盟会長を務めた米長邦雄はかく語る。

「羽生は将棋が好きでたまらない。それも度が過ぎるほど。純粋に将棋を愛している。それが、将棋が強い理由である」

またしても、私は思わず膝を打つ。
それこそが、将棋の神様に愛される理由なのだ!と納得したのである。
若かりし頃、羽生善治は先後を決める振り駒に異常に強かった。
重要な対局では、ほとんどが先手番になっていたように記憶する。

将棋の「名人」は選ばれし者にしか獲れないといわれている。
「名人」にととどまらず前人未踏の七冠全冠制覇を成し遂げた羽生善治こそ、まさに将棋の神に選ばれた棋士なのではないだろうか。

だいぶ前になるが、私は将棋雑誌で“棋界のマッチ”こと浦野真彦の記事を読んだことがある。
棋士たちは例外なく天才であり、将棋に対する情熱は我々凡人には窺い知れない。
ところが、そんな天才集団の一人である浦野真彦は、将棋に対するモチベーションを保ち続けることが難しいと語っていた。
あの厳しき勝負の世界で、倦まず弛まず将棋に向き合い続けることの難しさを垣間見た気がした。

翻って、羽生善治永世七冠である。
50歳を超え、令和の世になった今も、棋界のトップランナーの一員として走り続けている。
それも多忙を極める将棋会長との二足の草鞋を履きながらというのだから、只々頭が下がる思いだ。

将棋への深き愛情があればこそである。


才能とは続けられること

もし全盛期に藤井八冠と相まみえたなら…

好棋家の間で、かねてから囁かれる史上最強棋士論争。
これまでは大山康晴十五世名人と羽生善治永世七冠が有力視されていた。
そこに、藤井聡太八冠が名乗りを挙げたといえるだろう。
いやむしろ、現時点においては藤井八冠が最有力候補なのかもしれない。

だが、少なくとも七冠全冠制覇前後の羽生善治ならば、かなりいい勝負になるのではないかとも思う。
そのヒントとなるのが、王将戦第5局での藤井曲線を押し戻した羽生永世七冠の勝負術ではないだろうか。

藤井王将有利で進んだ局面は、早い終局も予想されるほど差がついていた。
こうなると、八冠王は逃さない。
しかも、驚異の勝率を誇る藤井王将の先手番に加え、持ち時間もたっぷりと残している。
ところが、角と桂馬を差し違える強手から、羽生挑戦者は追い上げる。
藤井王将も最善手で対応し、羽生マジックを容易に発動させない。

しかし、羽生挑戦者の軽やかな桂馬の跳躍が藤井王将の疑問手の呼び水となる。
まだ藤井王将優勢だが、いつの間にか羽生陣の駒が躍動し始めている。
とはいえ、藤井王将の強烈な踏み込みに、羽生の王様は風前の灯に思えた。

この大ピンチに3手1組の意表の受けで、藤井王将を幻惑させる羽生善治。
一見すると何の変哲もない受けなのだが、最善の着手であり、往年の勝負術を彷彿とさせる。
お好きにどうぞと手番を渡された藤井王将は、ついに悪手を指してしまう。
この手を境に遥か彼方にいた藤井王将の背中が一気に視界に入り、むしろ逆転ムードとなる。

結局、このあと羽生挑戦者が絶妙手を逃したこともあり、藤井王将に軍配が上がった。
その幻の最善手にも藤井王将は気付いていたように、終わってみれば藤井王将の圧倒的な終盤力と読みの深さが光る一局となる。

最後は年齢による体力面や脳のスタミナが影響したように感じたが、一度は藤井曲線を撃破した羽生善治永世七冠の勝負術。
個人的な所感では藤井八冠有利は否めないが、伝家の宝刀“羽生マジック”を引っ提げた全盛期の羽生さんならば、勝機有りと思うのは私だけだろうか。


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