「世界のホームラン王」王貞治 ~日本が誇る偉大なる野球人~





プロ野球の歴史上、最も偉大な選手。
あえて私見を申すなら、王貞治ではないだろうか。

たしかに、日米通算4367安打を放ったイチローは世界的な名選手であり、400勝投手・金田正一も捨て難い。
だが、やはり868本ものホームランを打った王の記録は突出している。
2位の野村克也でさえ657本であり、王よりも200本以上少ない。

プロ生活22年で868本…。

一本足打法を身に付けてから引退するまでの19年間、年平均で優に40本以上を超えるのだ。


野球にときめいて-王貞治、半生を語る (中公文庫)

王貞治とは

王貞治は1940年5月20日、東京都墨田区に生まれる。
実際は5月10日に生まれたが、仮死状態で生まれたこともあり、半ば諦めの気持ちも手伝い両親が出生届けを遅らせた。
両親は中華民国(台湾)国籍の父・仕福と日本人の母・登美であり、中華そば屋を営んでいた。

高校時代はエースとして甲子園に出場し、2年のとき春の選抜で優勝する。
卒業後、巨人に入団すると非凡なバッティングセンスを買われ、打者へと転向した。
ところが、期待の王は開幕から26打席連続ノーヒットと不信を極め、散々なデビューとなる。
ようやく、27打席目に出たのがホームランだった。

3年目までパッとしなかった王は荒川博に弟子入りすると、一本足打法を開眼し、世界のホームラン王へと覚醒した。

空前絶後の大記録

1977年、王はハンク・アーロンの世界記録755号を塗り替えると、通算868本塁打まで記録を伸ばす。
もちろん、未だ破られぬ不滅の金字塔である。

以下、王貞治が持つ主な日本記録を紹介する。
ちなみに、カッコ内は2位の選手と成績である。

ホームラン868本(野村克也657本)
打点2170(野村克也1988)
得点1967(福本豊1656)
塁打5862(野村克也5315)
四球2390(落合博満1475)
敬遠四球427(張本勲228)
シーズン最多四球158(丸佳浩130)
ホームラン王15回(野村克也9回)
打点王13回(野村克也7回)

ホームランや打点は、触れるまでもないだろう。
打点でさえ、年平均にならすと100打点近いのだから…。

際立つのが四球の多さである。
これは敬遠数が最も分かり易いのだが強打者の証であり、選球眼の良さも表している。
王の選球眼の良さは審判も一目を置くほどであり、どんなに際どい球でも王がピクリともせず見逃すと、「あの世界の王が自信満々に見逃すだから…」とボールに判定されたという。
私は、四球が多い選手として落合のイメージがあったが、900以上も多いのには驚愕した。

出塁率も.446でトップであり、1974年には.532をマークする。
つまり、その年は王選手が打席に立つと、半分以上は塁に出るというのだから、俄かには信じられない。

こうみると、王の陰に隠れているが、野村克也も偉大な記録を打ち立てたことが分かる。
「王さえいなければ…」とボヤくのも無理はない。

三冠王といえば3度獲得した落合の印象が強いが、バースと並び王も2度獲っている。
ちなみに、日米通算を加味すると、塁打記録ではイチローが5883塁打で王を抜いている。
さすが、通算4367安打は伊達でない。

少年時代の憧憬

現役時代の晩年、私は王貞治の勇姿をかろうじて見ることができた。
当時は、掛布雅之や山本浩二にホームラン数で後塵を拝していたが、引退した年でさえ30本も打ったのだ。
王の偉大さがよく分かる。

現役生活のラスト3年、さすがの王も本塁打王から遠ざかってしまう。
それでも、巨人ファンだった私は王に憧憬の念を抱いていた。
独特の雰囲気でバッターボックスに入り、右足を上げ一本足で構える“世界のホームラン王”。
そして、完璧に捉えた打球は美しい放物線を描き、後楽園球場のライトスタンドへ飛び込んだ。
少年時代の私にとって王貞治のホームランほど、幸せな気持ちにさせてくれるものはなかった。

そんなこともあり、友人との草野球でよく王の真似をして、一本足で構えては三振したことを思い出す。

野球界きっての人格者

イチローが恩師・仰木彬とともに、球界で尊敬するのが王貞治である。
かつて、イチローはこう言った。

「偉大な記録を作った人は沢山いますけど、偉大な人間はそうはいない。野球界の中には、尊敬できる人ってほとんどいない。その数少ない、僕が尊敬する方が王さんです」

そして、王・長嶋を不俱戴天の仇とした野村克也も「王は実力だけでなく、人格も超一流や」と絶賛している。

王の人間性は両親から受け継がれた。
特に、父・仕福からの影響が大きい。
若くして日本に渡航した仕福は言葉もよく分からない中、工場で懸命に働いた。
その頑張りを認められ、工場の班長に登美を紹介されたのだ。
ときは軍靴の足音が聞こえる戦時中であり、日本人でない仕福は理不尽な目にもあった。
しかし、彼は一度たりとも不平不満を漏らさない。
それどころか、日本で働かせてもらうことに感謝し、日本の人々に受け入れてもらうことが何よりも大切だと考え行動する。

仕福は息子・貞治に、いつも言い聞かせた。

「人に迷惑をかけてはいけない。人の役に立ちなさい」

父・仕福の背中を見て育った貞治は、謙虚で義理堅く、誠実な人間性が養われていった。

運命の邂逅

それは、中学2年のときだった。
後に、一本足打法を伝授される荒川博と運命の邂逅を果たしたのだ。

その日、王は地元の草野球チームの一員として試合をしていた。
すると、たまたま犬の散歩をしていた、毎日オリオンズのプロ野球選手・荒川の目に留まる。
荒川は王を見て言った。

「君は左利きだろう。なぜ右で打つのかい?僕の感じでは左で打った方がいいと思うよ」

そう促された王は左で打つと、快音を響かせる。
こうして、その日から王貞治は左打者に転向した。

そして、荒川は王が中学2年と知り驚いた。
チームで一番背も高く、いきなり左で打って弾丸ライナーを放ったのだ。
その才能の片鱗に、荒川は自らの母校・早稲田実業に進学するよう、王少年に勧めた。
こうした縁もあり、王は早稲田実業に入り、投打の要として甲子園で優勝を遂げることになる。

そして、王が巨人で3年目のシーズンを終えたとき、人生を変える再会があった。
荒川博がバッテングコーチに就任したのである。

王の3年間は素質を持て余し、“王は王でも三振王”と揶揄された。
荒川は久々に王のバッティングを見るなり、吐き捨てた。

「ひどい!野球のボールじゃなく、ドッジボールじゃなきゃ打てんな。遊びは上手くなったが、野球は下手になったもんだな!」

事実、王はこの頃、朝帰りの常連だった。
高校まで野球漬けだった反動もあり、ネオン街の誘惑に逆らえなかったのである。

荒川は王に言い放つ。

「やる気があるなら3年間、夜遊びと酒・タバコをやめなさい」

荒川の言葉に、王は一念発起する。
こうして1962年、伝説の荒川道場が始まった。
キャンプ中だけでなく、シーズンが始まっても猛練習は苛烈を極める。
毎晩深夜に及ぶまで、王は荒川の自宅で間断なく素振りした。
バットでの素振りはもちろん、パンツ一丁になって真剣を振ることもあった。
裸になることにより筋肉の動きが分かり、どこに無駄な力が入っているかが分かるという。
そして、真剣を振るうちに、極限の集中力が王の体内に宿っていく。
しまいには、一本足で構えながら子どもをぶら下げても、ビクともしなくなったという。

こうして、1962年7月1日、荒川の命令一下で一本足打法が解禁される。
すると、ホームランのほかに猛打賞のおまけまで付くほど、バットが火を噴いた。
以後、王は量産体制に入り、38本で初のホームラン王に輝いた。

そして、この年から13年連続、通算15回のホームランキングに君臨するのだった。


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最大のライバル

王がプロ入りして9年目、最大のライバルが現れる。
阪神タイガースの江夏豊である。
オールスターで9者連続三振を奪い、シーズン401奪三振は日本だけでなく大リーグに目を向けても史上最多である。

そんな江夏の自慢は、コントロール抜群の剛速球であった。
そして、球界屈指の強打者・王貞治こそ、倒すべきライバルであった。
以降、両者は名勝負を展開する。
稲尾和久が持つシーズン最多奪三振記録に並ぶ353個目と、新記録となる354個目の相手は王だった。
つまり、タイ記録を達成した後、わざと三振を取らずに王から狙い通り奪ったのである。

江夏は王への敬意を口にする。

「20歳の若造に対し、王さんはフルスイングで向かって来てくれた。そのことに、王さんの人間性を感じる」

一方、王は生涯放った868本のホームランで、唯一涙したのが江夏から打ったものだった。
1971年、王は極度の不振に喘いでいた。
5度の首位打者を獲得した王が、シーズン.276で終わってしまう。
それほどの絶不調の中、江夏から起死回生の一打を放ったのだ。

その日、王は江夏の剛腕の前に3打席連続三振を喫していた。
9回表0-2と2点リードされた場面、4度目のアットバットに向かう王。
カーブのサインに首を振り、真っ向ストレート勝負で挑む江夏。
王が放ったライトへの打球は、ラッキーゾーンへと吸い込まれた。

江夏は述懐する。

「王さんからカーブで三振をとっても嬉しくない。だから、直球で勝負した。王さんに言われた言葉を思い出す。“あの時はスランプで苦しんでいたこともあり、あのスリーランは忘れられない。豊、お前は最高のライバルだった”と。投手として最高に光栄だ」

ふたりの対戦成績は以下の通りである。
258打数74安打 打率.287 ホームラン20本 三振57 四球56

王が最も三振を奪われたのが江夏なら、江夏が一番ホームランを打たれたのも王だった。
そして、コントロールの良い江夏が56四球も与えている。
いかにギリギリの攻防だったかが窺える。

王貞治と江夏豊。
昭和のプロ野球には、忘れ得ぬ名勝負が存在した。


燃えよ左腕: 江夏豊という人生

まとめ

王貞治の野球人生には、切っても切れない人物がいる。
それはミスターこと長嶋茂雄だ。

どんな難しい球も天賦の才で打ち返す長嶋と、相手の失投を一刀両断する王。
記憶の長嶋に対し、記録の王。
動の長嶋茂雄、静の王貞治。

対照的な両者は互いに切磋琢磨し、巨人をV9に導いた。
球界のスターふたりが模範となり、率先して練習するので他の選手はサボれない。
両雄並び立たずの格言もなんのその、見事にそれぞれの役割を全うし、チームの両輪として機能した。
ひとえに“人の悪口は絶対に言わない”長嶋と、“球界の人格者”王なればこそだろう。

長嶋はかく語る。

「“いいライバルに恵まれることが、人生の真の幸福である”って言葉がありますよね。王(ワン)ちゃんとの関係は、まさにそういうものでした」

それは、きっと王も同じ思いだろう。
王貞治の偉大さがより際立つのは、ON砲で共に一時代を築いた長嶋茂雄がいたからに他ならない。

日本が世界に誇る“ホームラン王”王貞治。
“素晴らしい人格”も誇るべきものに違いない。

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