「史上最強の助っ人」ランディ・バース ~神様、仏様、バース様~





プロ野球史上最強の“助っ人”とは誰だろう。

西武のデストラーデやカブレラ、近鉄のブライアントやタフィ・ローズ、シーズン最多本塁打60本を記録したバレンティンなど、枚挙に暇がない。

だが、阪神ファンならずとも、多くのファンがこの選手を選ぶに違いない。
そう、それは“神様、仏様、バース様”と崇められた、ランディ・バースである。

ランディ・バースと

ランディ・バースは1954年3月13日、アメリカ・オクラホマ州に生まれたプロ野球選手である。
1983年に来日し、1985年と1986年の2年連続で三冠王に輝いた。

1985年には54本塁打を放ち、あわや王貞治の持つシーズン最多本塁打55本に並ぶかという勢いであった。
そして、バースの活躍もあり、阪神は球団創設以来初となる日本一の座を射止める。

1986年には、王に並ぶ7試合連続本塁打記録を打ち立てた。
さらに、夏場まで打率4割をキープする。
夢の4割こそ達成できなかったが、張本勲の日本記録.383を更新する.389でシーズンを終えた。

三冠王獲得の理由

バースが日本で活躍できた理由とは何なのか。
もちろん、日本人にはないパワーや、風貌に似合わぬ器用なバッテングもあるだろう。
しかし、最大の要因は日本で成功した他の外国人選手と同様に、日本の野球を真剣に研究し、それを実戦に活かせる適応能力が挙げられる。

意外なことに、来日1年目は初打席から15打席連続無安打という、不名誉な記録から始まった。
このように、前半戦は調子が上がらなかったバースだが、シーズンが進むうち快音が聞こえてくるようになる。

賢い野球脳を持つバースは日本の野球に慣れるに従い、相手投手の配球を読むようになっていく。
真っ向勝負と言わんばかりにストライクを投げ込んでくるアメリカの野球と違い、日本ではボール球も有効に使ってくる。
そして、カウントが苦しくなっても、変化球でストライクを取れるコントロールの良さも日本の投手の特徴だ。
なので、配球を読むことは、成功するための大きな武器となる。
最終的に打率.288、ホームラン35本、打点83まで成績を伸ばし、シーズンを終えた。

また、バースは己を冷静に分析できる聡明さも持っていた。
実は、バースは外国人選手には珍しく、変化球よりもストレートに弱かった。
球威の無いストレートは別として、インハイへのスピードのある速球を苦手とした。

そこで、バースはバッターボックスで構えるとき、ホームベースから離れて立つことにした。
そうすることにより、インコースいっぱいのストライクが、ど真ん中に早変わりする。
今度は外角のボールが気になるが、そのコースを得意とし、リーチも長いバースは外角いっぱいのボールにもバットが届く。
当然、配球読みにも自信があるため、外角球を踏み込んで打つことができるのも大きかった。

さらに、バースは地の利を上手く利用することにも長けていた。
阪神タイガースの本拠地・甲子園球場は、浜風の影響でライト方向が逆風になることが多い。
逆に、レフト方向は追い風になる。
そこで、バースは外角のボールを無理に引っ張らず、流し打ちでレフトスタンドへ放り込んでいった。
元々“ニューヨークからロサンゼルスまで打球を飛ばす男”の異名をもつ彼は、日本の狭い球場ならば軽くミートするだけで外野のフェンスを越えていく。

ここでも、バースは環境に適応するための努力を重ねた。
アメリカ時代、パワーヒッターのバースは引っ張り専門で、ほとんど流し打ちはしなかった。
だが、来日当初、左打者にとって不利となる浜風に悩まされる。
そこで、身に付けたのが前述した流し打ちだった。

レフトへの流し打ちのホームランといえば“Mr.タイガース”掛布雅之である。
その芸術的な流し打ちを目の当たりにしたバースは早速参考にし、技術の習得に取り組んだ。
そして、掛布とともにバースにとって恩人といえるのが、当時の打撃コーチ・並木輝男だった。
ミートポイントを少しだけ後ろにすることにより、面白いようにレフトへの打球が伸びるようになっていく。
あれだけ苦労させられた浜風が、今やバースの追い風になっていた。

こうして、バースは自身のヒッティングマーチさながらに、「ライトへ、レフトへホームラン」を体現し、三冠王へと上り詰めていったのである。

素晴らしい人間性

もう一つ、バースが日本で成功できたのは彼の人柄もあっただろう。
流し打ちを開眼させてくれた並木コーチに感謝の言葉を口にする。

「並木コーチにはコースに逆らわず、センターからレフト方向へ打つことを教わった。ホームランが増え、タイトルを獲れるまで成長できたのはコーチのお陰です」

ホームランが増えただけでなく、打率でもハイアベレージを残せるようになったのは、この広角打法を身に付けたことが大きかったに違いない。

そして、4番・掛布への感謝も忘れない。

「三冠王を獲れたのは君がいてくれたお陰だ。本当にありがとう」

そう言葉をかけられた掛布は、その瞬間、シーズンの苦労が報われた気がした。
3番を打つバースの後ろに、その年3割40本108打点をマークした4番掛布がいたからこそ、相手投手はバースと勝負せざるを得なかったのだ。
もし、4番が低調だったとしたら、前を打つバースはフォアボール覚悟でより厳しい攻めにあったことだろう。

決して天狗にならず、客観的に事実を判断し、素直にチーム関係者に敬意を払うことができる。
そんなバースがチームに溶け込めない訳がない。

盟友・川藤幸三

バースといえば“浪速の春団治”こと川藤幸三を外せない。
まさに、盟友ともいうべき間柄だった。

ある日、川藤はロッカールームでチームメイトと将棋を指していた。
そこにバースは現れ、将棋を教えてくれと頼んできた。
川藤は驚いた。
将棋に興味を持つ外国人選手など、初めてだったのだ。
こうして、川藤がチームとの橋渡し役となり、バースは“助っ人”からチームの“仲間”となっていった。

そして、私はバースと川藤の記事を目にし、その関係性に心が温かくなった。
試合前、バースは珍しくベンチで塞ぎこんでいる。
すると、川藤がやって来てバースの横に腰掛けた。
いつもの調子で、川藤が何やらバースの耳元に話しかける。
すると、あら不思議。
あれだけ暗かったバースの顔に、いつの間にか笑みがこぼれているではないか。
このシーンを見られただけで、球場に足を運んだ価値があるというものだ

一説によると、代打専門の川藤は球場にグローブを持って来なかったという。
そんな都市伝説さえも囁かれるほど豪放磊落な男だった。
だが、こんなバースとの微笑ましいやり取りを見せられたら、“浪速の春団治”に苦言を呈することなど出来はしない。
そして、そんな川藤にバースはいつも感謝していた。

それはそうだろう。
外国人選手は独り、言葉も分からない異国の地にやって来る。
不安を覚えない方が無理というものだ。
バースにとって川藤の存在はさぞや僥倖だったことだろう。
しかし、川藤も言うように、バース自身が日本の文化を学び、日本のプロ野球に敬意を表したからからこそ、仲間として受け入れられたのである。

西武との日本シリーズ

1985年、バース、掛布、岡田のクリーンアップトリオを中心に、打ちに打ちまくりセリーグのペナントレースを制した阪神タイガース。
日本シリーズで対戦するのは“球界の盟主”としての足固めをしつつある、名将・広岡達朗率いる西武ライオンズであった。

広岡は戦前、一塁手バースの守備が阪神のウイークポイントだと公言して憚らなかった。
事実、バースは子ども時代に足を複雑骨折した影響で全力疾走ができず、守備範囲も決して広くない。

だが、バースは広岡の慧眼を凌駕する、ビッグプレーでチームに勝利を引き寄せる。
初戦を勝利し、幸先良いスタートを切った阪神は第2戦も7回まで2-1でリードする。
だが、7回裏1死1,3塁のピンチを迎えた。
バースの守備を弱点と見たバッター辻は、一塁方向にプッシュバントを試みる。
絶妙の位置に転がったボールに、誰もが同点を予感した。
ところが、辻のバントの構えに反応したバースが、猛然とダッシュする。
グラブで捕球しては間に合わないと見て取ると、素手で捕球し、そのままバックホームへ送球した。
しかも、ここしかないというピンポイントにだ。
俊足の3塁走者秋山を間一髪アウトにする、超ファインプレーが飛び出した。

守備には一家言ある広岡も、そのプレーには脱帽する。

「あの怪物にはアメリカに帰ってもらいたいですね」

そして、バースは自慢のバットも火を噴いた。
第1戦0-0で迎えた8回表、西武・工藤公康が投じた外角のカーブを軽打すると、打球はレフトスタンドへ突き刺さる。
結局、このスリーランホームランが決勝点となった。
第2戦も、4回表1点リードを許す場面で、高橋直樹からまたもやレフトへホームランをかっ飛ばす。

この大舞台でも、並木コーチと二人三脚で取り組んだ、レフトへの流し打ちでチームを牽引する三冠王。
第3戦でも3試合連続となるホームランを放ったバースは、本シリーズ打率.368、ホームラン3本、9打点を挙げ、シーズンに続き日本シリーズでもMVPを獲得した。

ランディ・バースの攻守にわたる大活躍で、阪神タイガースは悲願の日本一に輝いた。


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まとめ

日本の野球を真摯に学び、日本の文化に敬意を表し、チームメイトへの感謝も忘れない。
そんな“神様、仏様、バース様”と称された男は、史上最強にして史上最高の助っ人への道を歩んでいく。
いや、助っ人の枠を超えた名選手だった。

2023年1月13日、ランディ・バースは晴れて野球殿堂入りを果たした。
往時のチームメイト、川藤幸三は言う。

「ランディの功績を見れば当然のこっちゃ。当時のチームメイトはみんな、そう思っとるよ。ランディ、おめでとう」

球団史上初の日本一に輝いた1985年から40年近い日が経った。
それでも、川藤幸三とランディ・バースの関係性は変わらない。

私は、ふと思う。
人種も国籍も、性格も違うふたりの変わらぬ友情こそ、殿堂入りよりも素晴らしい勲章なのかもしれないと。

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