セナプロ対決 ~F1の頂点の座を懸けて~





かつて、F1が最も熱かった頃、ふたりの天才が存在した。
アイルトン・セナとアラン・プロストである。

この犬猿の仲ともいえる両者に、ナイジェル・マンセルとネルソン・ピケを加えた4人のドライバーが、「BIG4」または「四天王」と称えられていた。

この4人が激しいバトルを展開した1986年のF1シーズンを締めくくる最終戦、オーストラリアGPの開催地アデレード。
例年にも増して大混戦のワールドチャンピオン争いが繰り広げられた決戦の地で、レース前に肩を寄せ合う「BIG4」の一葉の写真が、古き良き時代を偲ばせる。

それはまるで、やがて吹き荒れる嵐の前の木洩れ日のようだった…。

ライバルふたり

アイルトン・セナは1960年3月21日生まれで、ブラジル出身の不世出の天才ドライバーである。
裕福な家庭に育ったセナは、何不自由なく暮らしていた。
かたや、プロストは1955年2月24日にフランスで生まれる。
父は家具職人であり、決して裕福とは言えない家庭で育つ。

出自からして好対照なふたり。
そして、最も際立つ違いはドライビングスタイルにある。

セナは予選から比類なき速さを見せ、「音速の貴公子」の名をほしいままにする。
それこそレースに人生の全てを注ぎ込み、いついかなるときも勝利に邁進し、120%の力をもってコースを攻め抜いた。
ゆえに、他人に対しても決して妥協する態度を見せない。
「F1はエゴの世界だ」と言って憚らず、それを具現化した。
このような信条を持つため、良く言えば「果敢な攻めの走り」、悪く言えば「危険なドライビング」が散見され、コース上でライバル達と絶えず軋轢を起こしていた。

そんなセナと真逆ともいえるのがプロストだ。
予選よりも決勝に重きを置き、普段は95%前後の力で、ここぞという場面のみ100%の力で走るというスタイルであった。
プロストにとって何よりも重要なのは安全であり、最高スピードが300㎞を超えるF1で常に全力で走るということは、不測の事態に対応できないことを意味する。

また、プロストは目の前のレースだけを視野に入れるのではなく、年間を通して行われる全レースを線として捉え、ワールドチャンピオンを獲ることを目標にしていた。
なので、レース展開によっては無理をせず、確実にポイントを稼ぐことを優先するケースも見られた。
つまり、レースに勝つことは目標ではなく、あくまでも手段の1つであったのだ。
このようなドライビングスタイルから、「プロフェッサー」や「リスクマジメントの帝王」、あるいは「戦略家」などの異名で呼ばれていた。

深まる確執

1988年、アイルトン・セナがホンダエンジンとともに、マクラーレンに移籍して来た。
ニキ・ラウダとコンビを組んだ1984年・1985年の栄光を取り戻さんと、プロストがチームに進言したこともあり、世紀の天才ふたりによる最強タッグが実現する。

すでに、2度のワールドチャンピオンに輝いていたプロストは、名実ともにF1の頂点に立っていた。
それに対して、セナは抜群の速さこそ注目に値したが、プロストの前ではまだまだ若きワールドチャンピオン候補の1人にすぎないと目されていた。
しかし、蓋を開けてみると、セナの速さは全16戦中13戦でポールポジションを奪うなど、予想以上であった。

1988年のマクラーレンのF1カー「マクラーレンMP4/4」はホンダエンジンの獲得に成功し、他を寄せ付けない圧倒的なパフォーマンスを誇った。
なんと!年間16戦のうちセナが8勝、プロスト7勝と、たった1戦を除きマクラーレンが勝利を収める。

ふたりの一騎打ちムードが漂う中、セナが日本GPで優勝を決め、初のワールドチャンピオンの座に就いた。
この年は、ポルトガルGPでセナの幅寄せ行為こそあったものの、両者の確執はそこまで表立っていなかった。

しかし、年が明けた1989年になると、様相が一変する。
それは、第2戦サンマリノGPのことだった。
ふたりの間では、チームメイト同士の激しいバトルによる共倒れを防ぐため、スタート直後の1コーナーを制したものがレースの優先権を得るという「紳士協定」が結ばれていた。
ところが、セナによってあっさりと覆されてしまう。
1コーナーを制したプロストを、2コーナーでセナが抜いたのだ。
こうして、ふたりの確執は決定的となった。

そして、セナプロ対決の象徴となったのが、第15戦・日本グランプリである。
ポイント争いでプロストにリードを許し、後のないセナは優勝しかない状況に追い込まれていた。
決勝レースが始まり、首位を走るプロストが先にシケインに進入する。
すると、セナが強引にインに飛び込み、抜きにかかった。

プロストはレース前のインタビューで「これまではセナの強引な追い抜きにも道を譲ってきた。だが、今度ばかりは譲るつもりはない」と公言していたとおり、一歩も引かず両者絡み合いながらコースアウトした。
なおも、執念を燃やすセナはコースに復帰して1位でゴールしたが、シケイン不通過の裁定により失格となる。
こうして、何とも後味が悪いまま、プロストの3度目のワールドチャンピオンが決定した。

そして翌年、セナプロ対決は最悪の結末を迎える。
舞台は、またもや日本グランプリであった。
この年のタイトル争いは、フェラーリに移籍したプロストが追う立場にあり、ノーポイントで終了した時点でセナがタイトルを獲得する。
だが、当レースにおいては、シーズン終盤にマシン開発が進んだフェラーリのプロストが有利と見られていた。

フロントローに並ぶ両雄。
シグナルが点灯し、運命のスタートが切られた。
前に出たのは予選2位のプロストだ。
ところが、そのプロストに突撃する1台のマシンがあった。
マクラーレンのセナである!
2台のマシンは無残にもコースアウトし、この瞬間、セナの2度目のタイトル獲得が決まる。

セナは後日、この突撃が故意であったことを認めている。
「昨年の報復のため、やったのだ」と。

私はセナの愚行に怒りが込み上げた。
これほど、人を馬鹿にした話はない。
昨年の事故は、両者のワールドチャンピオンへの想いが交錯したバトルであり、まだ理解できる。
だが、今回のセナの特攻はF1とワールドチャンピオンシップを冒涜する、断じて許されざる暴挙である。
ある意味、一歩間違えば死に繋がる、危険極まりないテロリズムといえるだろう。

アイルトン・セナの肥大したエゴイズムにより、開始数秒でセナプロ対決は幕を閉じた。


アイルトン・セナ 確信犯

打倒プロスト

プロストはセナの他に、ネルソン・ピケ、ニキ・ラウダ、ナイジェル・マンセルといった時代を彩ったライバル達とも、タイトル争いを繰り広げてきた。
アラン・プロストほど、多くのライバルと鎬を削ったF1レーサーもいないだろう。

しかし、セナはマンセルともワールドチャンピオンを争ったが、基本的にはプロストとの戦いがキャリアの大半を占めていた。
セナも当初は、勝つことが目標だったことだろう。
しかし、あるとき気がついた。
F1の盟主の座を射止めるためには、プロストを倒さねばならないと。

ワールドチャンピオンになる以前は当然として、1988年、1990年、1991年と3度タイトルを獲得した後も、セナはチャレンジャーで居続けられた。
なぜならば、5歳年上の王者プロストがいたからだ。
このことは、セナにとって幸運だった。
追われる者より、追う者の方が遥かに有利だからだ。
それを証明するように、プロストが休養した1992年と現役を退いた1994年、セナは明らかに精彩を欠いていた。
いつしか、セナはプロストに勝つことが目標になり、それこそが最大のモチベーションになっていく。

1993年限りでプロストが引退し、翌シーズンに念願のウイリアムズルノーへの移籍が決まったセナへの、元ホンダ総監督・桜井淑敏のコメントがまさに正鵠を射る。

「プロストが引退し、ワールドチャンピオンを経験した現役ドライバーはセナだけとなった。これから、セナは追う者から追われる者になる。その王者としての孤独は、昨年までの戦闘力の劣るマシンで戦わなければならない苦しさとは比較にならない」

この桜井淑敏の予言は実現する。
1994年、セナは挙動が安定しないマシンに苦しんだ。
加えて、若いミハエル・シューマッハの突き上げも追い打ちをかけた。
だがそれ以上に、サーキットにアラン・プロストがいない事実に孤独感を募らせ、疲弊しているようにも見えた。

私は桜井淑敏の言葉に、改めてアラン・プロストの偉大さを思わずにはいられなかった。
セナのマクラーレン移籍以降、チーム内で孤立を深めていくプロスト。
それでも1989年には四面楚歌の中、純粋な速さでは敵わない若き天才アイルトン・セナを向こうに回し、ワールドチャンピオンを戴冠して見せたのだ。
王者としての誇りを持ち続け、なによりもその精神の強さに感銘を受けた。

まとめ

1993年、シーズン最終戦オーストラリアGP。
優勝はセナ、2位プロストという結果となる。
その年、ウイリアムズルノーFW15Cを疾駆させ、4度目のワールドチャンピオンに輝いた「プロフェッサー」アラン・プロストにとって、最後のレースであった。

レース終了後、表彰台に立つ両雄。
すると、セナがプロストに手を差し伸べるではないか。
不倶戴天の仇同士のふたりが握手を交わし、互いの健闘を讃え合っている。

美しい光景だった。
F1ファンならば、誰もが待ち望んだシーンだった。
古舘伊知郎に「微笑み黒魔術」「氷の微笑」と揶揄されたプロストの相貌は、憑き物が落ちたように穏やかな笑みを湛えている。
戦争にもなぞらえた「セナプロ対決」が、今ここに終結した。
奇しくもその場所は、かつて「BIG4」が集い肩を寄せ合った思い出の地“アデレード”であった。

そして、F1史上最も悲しい日を迎える。
1994年5月1日、イタリアのイモラサーキットでセナが非業の死を遂げたのだ。
レース前、セナがプロストに贈った別れの言葉。

「親愛なるアラン…君がいなくて寂しいよ」

プロストの魂を真の意味で解放した、セナのラストメッセージであった。


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