アラン・プロスト ~近代F1に君臨した「プロフェッサー」~





1980年代から1990年代前半のF1で、ワールドチャンピオン争いの主役を演じたドライバー。
それが、「プロフェッサー」の異名を持つアラン・プロストである。

あるときはピケやマンセルと、またあるときはチームメイトのニキ・ラウダと、そして“宿命のライバル”アイルトン・セナと戦った。

そんなFI史に残る名ドライバー、アラン・プロストの輝ける軌跡を紹介する。

アラン・プロストとは

アラン・プロストは1955年2月24日にフランスで生まれた。
ワールドチャンピオンを4度獲得し、通算勝利数も51を数える。
ちなみに、プロストの51勝はミハエル・シューマッハに破られるまで最多勝利記録であった。

このように、F1史上屈指のドライバーとして誉れ高いプロストは、そのドライビングスタイルから「プロフェッサー(教授)」と呼ばれていた。
さらに、フジテレビでF1実況を担当していた古舘伊知郎に、「最強の偏差値走法」「微分積分走法」「勝ちゃいいんだろう走法」「氷の微笑」「微笑み黒魔術」「F1詰将棋」「F1チェックメイト理論」など、褒めているのか貶しているのかよく分からないニックネームを付けられる。

そんなアラン・プロストこそ、私にF1の魅力と奥深さを教授してくれた師匠のような存在であった。

熾烈なワールドチャンピオン争い

プロストは1980年にマクラーレンでデビューすると、いきなり決勝レースで6位入賞を果たす。
その後、予選でもチームメイトのワトソンを圧倒するようになり、新人ながら先輩ドライバーに速さを見せつけた。

翌年、才能を買われ、地元フランスのルノーに移籍する。
すると、マシンの戦闘力が向上したこともあり、初優勝を飾るなど、順調にキャリアを重ねていく。
1982年からは、ワールドチャンピオン争いにも加わるようになり、未来のワールドチャンピオン候補として母国の期待を一身に背負う。

年が明けた1983年、プロストはシーズン序盤から快進撃を続け、ライバルのネルソン・ピケを抑え、獲得ポイントで首位に立っていた。
ところが、中盤戦でピケと接触事故を起こしリタイアしてから流れが変わり、ピケに逆転でタイトルを奪われてしまう。
すると、プロストとルノー双方で、互いに責任をなすり合う泥仕合に発展する。
その結果、プロストはフランス国民からも批判を浴び、祖国を追われるようにチームを去って行った。

この結果、プロストは再びマクラーレンに移籍した。
そこでチームメイトになったのが、すでにワールドチャンピオンのタイトルを2度獲得しているニキ・ラウダであった。
ラウダとともに戦う1984年のシーズンは、プロストのF1人生にとって大きな転機となる。

プロストは予選の速さではラウダを圧倒した。
ところが、決勝になると確実にポイントを稼ぐラウダの老獪な走りに、主導権を握られていく。
結局、プロストの7勝に対しラウダは5勝でシーズンを終了したが、ワールドチャンピオンの座に就いたのはラウダであった。
その差、なんと僅か0.5ポイントである。

ではなぜ、純粋な速さでは上回るプロストが、ラウダの後塵を拝したのだろうか。
まず挙げられるのは、この頃のプロストの走りは、後に“プロフェッサー”と呼ばれる安定感抜群のそれとは程遠いものであった。
事実、シーズンを通してトップの7勝もしているのにタイトルを獲得できなかったのは、速さにこだわるあまりレース運びが荒削りで、しばしば自滅してノーポイントに終わることがあったからだ。
その点、ラウダは上述したように、たとえレースに勝てなくても着実にポイントを重ねていった。
塵も積もれば山となるとは、まさしくこのことである。

そして、タイトル争いの綾となるレースがあったのだ。
それは、伝統と格式を誇るモナコGPのことだった。
プロストが首位を走っていたが、レース中に豪雨が襲う。
すると、その年デビューを果たした若きアイルトン・セナが最悪のコンディションの中、首位プロストを猛追する。
そのままレースが続けば、間違いなく首位に躍り出たであろう圧巻のパフォーマンスであった。
しかし、あまりの危険な状況にレースは途中で打ち切られる。

この結果、プロストは首位を守ったものの、4.5ポイントを獲得するにとどまった。
優勝は本来9ポイントだが、規定周回に達しなかったため半分になってしまったのである。
仮に、このままレースが続行され、セナに抜かれ2位でチェッカーフラッグを受けても、6ポイント獲得できたのだ。
つまり、1.5ポイント多い計算になる。

ラウダに0.5ポイント差でタイトルを逃したプロスト。
もし、レースが成立していれば…。

しかし、プロストは翌年、実力でラウダをねじ伏せ、悲願のワールドチャンピオンの座を射止めた。
続く1986年も最終レースで優勝し、リタイアに終わったナイジェル・マンセルを大逆転の末、2年連続でチャンピオンシップに輝いた。

こうして、アラン・プロストは名実ともにF1の頂点の座に君臨した。
そして、プロストの最大のライバルといえば、アイルトン・セナである。
稀代の天才ふたりの対決は世界中を熱狂の渦に巻き込み、永遠に語り継がれる神話へと昇華する。

興味がある方は、当ブログ掲載の「セナプロ対決 ~F1の頂点の座を懸けて~」をご覧いただければ幸いである。

プロフェッサーの走り

プロストの走りの特徴は“リスクマネジメントの帝王”と呼ばれたことからも分かるように、危険を冒さず確実にポイントを積み重ねていく、計算し尽くされた安定感抜群の走りにある。

先で述べたように、キャリアの前半は予選から全力投球するスタイルであった。
ところが、ラウダの熟練の走りの前にタイトルを逃し、スタイルがガラリと変わる。
たとえるならば、勢いに任せて突っ走る“青二才の書生”から知性と緻密な戦略を駆使する“教授”へと変貌を遂げたのだ。

ライバルのセナが常に全力でコースを攻めていたのに対し、プロストは基本的に90~95%の余力残しで走っていた。
だが、決勝で勝負処を迎えると100%の力を発揮する、緩急自在なレース運びを展開する。
その証拠に、ポールポジションの獲得数ではセナの独壇場であったが、決勝レースでのファーステストラップの回数では、逆にセナを圧倒した。
“速さ”のセナ、“強さ”のプロストといわれる所以である。

そして、雨のプロストはさらに慎重なレース運びに終始した。
1982年、それは西ドイツGPのフリー走行中に起きた、終生忘れ得ぬ悲劇に起因する。
その日は雨が降りしきる、極端に視界が悪いコンディションだった。
前を走るプロストに気づかないピローニは車体に乗り上げ、路面に叩きつけられてしまう。
ピローニの両足は切断寸前の重傷を負い、2度とF1に戻ることは無かった…。

実は、ピローニとプロストは親友だったのだ。
親友の悲劇の当時者となったことが、一生拭えぬトラウマとなる。
このような経験も、プロストのレーススタイルに多大な影響を与えた。

もうひとつ、プロストのドライビングで特筆すべきは、車に負荷をかけないタイヤに優しい走りが挙げられる。
これは、正確で少ないステアリング操作が可能たらしめた。

分かりやすいように、具体例を出してみる。
ステアリングの角度が7度で回れる、コーナーがあるとする。
ほとんどのレーサーは7度丁度ではなく、プラスマイナス1~2度ぐらいの誤差でステアリングを切ってコーナーに入るため、微調整しなければならず、その分タイヤに余計な負荷がかかる。
一方、プロストは正確に7度で回ってくるため、タイヤの摩擦が少ない。
ほんの僅かな摩耗の積み重ねが、長丁場の決勝レースでは大きな差を生み出すのだ。

加えて、プロストは「ブレーキングの帝王」の異名を持つほどスムーズなブレーキ操作を行うため、一筆書きのような滑らかな走りを見せた。
ワールドチャンピオンに3度輝き、プロストに破られるまで最多勝記録を保持していたジャッキー・スチュワートはかく語る。

「世界最速のドライバーはアイルトン・セナである。しかし、世界最高の運転技術を誇るのはアラン・プロストだ」

たしかに、車を速く走らせるためには高い技術が必要だろう。
しかし、速く走ることだけが技術ではない。
F1という極限のスピードの中で車に負荷をかけず、他のドライバーよりもタイヤを長持ちさせるのも高度な技術を要するのだ。
タイヤに優しい走りを具現化することにより、ライバルが2度タイヤ交換しなければならない状況でも、プロストだけは1回のタイヤ交換で済ませられるのである。

また、タイヤを長持ちさせるメリットとしては同じタイヤでより多く周回できるので、ピットに入るタイミングを選べる機会が増え、レース展開に応じて戦略の幅が広がっていく。
このように、技術と戦略を融合させたプロストの走り。
「レースで必要なものは速さだけではない」と言う、プロストの声が聞こえて来るようだ。

F1の奥深さを“教授”してくれるアラン・プロストが、「プロフェッサー」といわれる理由が垣間見える。


F1に賭ける人生―アラン・プロスト自伝

まとめ

私には、印象的な光景が脳裏に焼き付いている。
1993年、ワールドチャンピオン獲得を決めたプロストは、今シーズン限りでの現役引退を発表する。
そんなプロストがレース終了後、ファンから母国フランスの国旗を手渡された。
すると、4度目のタイトルを戴冠したフランスの英雄は、ウィニングランさながらに国旗を掲げ、サーキートをゆっくりと走行し始める。
1980年代半ばルノーと仲違いし、国民からも罵声を浴びせられ、国を追われたアラン・プロスト。
そんな男が、まるで全てを水に流すかのように、祖国の国旗とともにマシンを走らせている。
私はその光景に、なぜか深い感慨に包まれた。

そして、この稀代の天才レーサーの軌跡そのものが、近代F1の歴史のような気がした。
F1史に残るアイルトン・セナとの“セナプロ対決”をはじめ、ワールドチャンピオンシップの頂を目指したライバル達とのバトルは、今もファンの記憶に残っている。

コース上で火花散る、意地とプライドを乗せたスピードの競演。
あの時代のF1には剥き出しのエゴとともに、ファンを惹き付けて止まない個性豊かなレーサー達の熱い魂が存在した。

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