「将棋界の至宝」羽生善治永世七冠 ~その素晴らしき魂~





A級順位戦からの陥落が決まり、去就に注目が集まる羽生善治永世七冠(本稿での肩書は九段ではなく永世七冠を使用)。
来期はB級1組で戦うことが発表され、ほっと胸を撫でおろしているのは私だけではないはずだ。

私にとって、羽生善治という棋士は格別である。
数々の偉業を成し遂げ、棋界のトップを走り続けた姿をリアルタイムで見ることができ、とても幸運に思う。

だが、個人的には実績もさることながら、羽生善治という人物の人柄に敬意を抱いてきた。
己の都合よりも棋界の発展のため、そして将棋界という同じフィールドで切磋琢磨する同志のため、多忙の身を押して幾度となく行動してきた姿に感銘を受けずにはいられない。

ある棋士が語った、羽生善治がどれほど棋界のために尽力しているかというエピソードを聞き、改めてその偉大さを思い知らされる。
イベントを開催する場合、棋界の顔である羽生の参加の有無で盛り上がりが違ってくる。
当然、協賛企業からも羽生の出席を要望されることが多い。
すると、タイトル戦の合間の数少ない休日でも、万障繰り合わせて顔を出す。
他にも取材や講演と、一体いつ休んでいるのか分からない。

この話で思い出すのが、勝浦修九段の言葉である。
2018年の竜王戦で、弟子の広瀬章人が羽生竜王からタイトルを奪取した。
師匠の勝浦修は、愛弟子の快挙に喜びを隠せない。
その一方で、「羽生さんが竜王を失い、無冠になったのは複雑だ」とも語る。
なぜならば、長年理事を務めていたこともあり、これまで羽生がどれほど将棋普及のために貢献してきたかを知るからだ。

NHK将棋講座の講師

今でこそ最も尊敬する棋士の羽生善治永世七冠だが、若い頃は“上座事件”を起こすなど、慣例や風習にとらわれない言動を見聞きするたび、どこかいけ好かない感情を抱いていた。
ところが、羽生善治という人物を知るにつれ、己の浅慮を深く恥じるようになる。

あれは、最初の七冠制覇がかかった1995年の王将戦直後だった。
羽生が、4月からスタートするNHK将棋講座の講師を務めたのである。
あの当時、前人未到の七冠制覇がかかった王将戦・最終第7局が3月23・24日に行われた。
史上初の七冠制覇かと空前の将棋ブームが巻き起こり、テレビや雑誌のインタビューに加え、CM撮影にも追われ、休む間もないほどの多忙を極めた。

つまり、そのハードスケジュールの合間を縫って、録画撮影が行われていたということか。
なぜ、そんな時期にと誰もが思った。
今は七冠制覇のため、少しでも対局に集中すべきだと。

しかし、将棋界への恩返しのため行動するのが羽生善治という棋士なのである。
羽生は講師を引き受けた理由をかく語る。

「七冠全冠制覇が注目を集める今だからこそ、自分が講師を務めることにより、多くの人に将棋に関心を持ってもらえるのではないか」

羽生は当時まだ24歳だった。
その若さで、これほどまでに棋界のことを考えているのかと…。
羽生善治こそ“将棋界の至宝”だと確信した。

ライバルへの追悼

天才・羽生善治の数多いるライバルの中でも、とりわけ異彩を放っていたのが映画「聖の青春」で知られる村山聖九段であろう。
若かりし頃から「東の羽生」「西の村山」と謳われるほど、才能の煌めきを見せていた。
だが、幼少時代からネフローゼ症候群を患い、常に己の体調と向き合ってきた村山は29歳で夭逝する。

故人の遺志により密葬が営まれたこともあり、羽生が訃報を知ったのは死後2日経った8月10日だった。
ちょうど東京将棋会館で竜王戦の準々決勝を対局しており、昼食休憩中に知らせを聞いたという。
対局を終え、東京の自宅に帰ったのは深夜0時を過ぎていた。

ところが、翌8月11日の昼間には広島にある村山聖の実家にいた。
もちろん、弔問に訪れたのである。

東京から村山の実家まで、どんなに急いでも5時間以上はかかる。
つまり、日付が変わってから帰宅した羽生は、翌朝一番の飛行機に搭乗したのだ。
1日で体重が2~3㎏減るといわれる対局の翌日、疲労困憊の体に鞭打って、広島まで追悼に赴く羽生善治。

通夜や告別式が行われるわけではない。
すでに密葬が営まれ荼毘に付されており、そこまで慌てていく必要など全くない。
それでも、羽生善治はライバルを悼むため、自分が今できる最善を尽くしたのだ。

私は、この羽生の行動に涙した。

村山聖にとって、羽生善治は特別な存在だった。
そして、羽生善治をして村山聖は「彼は天才であり、本物の棋士だった」と言わしめた。

志半ばで逝った村山聖。
だが、終生のライバル・羽生善治と出会えたことは僥倖だったに違いない。


聖の青春 (角川文庫)

里見香奈への思い

女流棋士・里見香奈は10代の頃から女流棋界の頂点を極め、史上初の女流5冠にも輝いた。
そして、プロ棋士の養成機関である奨励会に入会する。
すると、女流棋士としては初の三段まで昇段を果たし、プロ棋士の座を賭けて三段リーグを戦った。
結局、三段リーグを勝ち抜くことはできなかったが、その功績は讃えられて然るべきである。

ところが、女流棋士と奨励会の二足の草鞋を履いた里見は、2014年3月から12月末まで体調不良により休場した。
常に女流のタイトル争いに加わりながら、プロ棋士と遜色ない実力を持つ三段リーグの猛者達との戦いは、あまりにも過酷だったに違いない。

そんな中、実家で静養していた里見は、休場直前に防衛した第40期女流名人戦の就位式に出席する。
さすがに、名人の就位式を欠場するわけにはいかなかった。

すると、思いもよらぬサプライズが待っていた。
なんと、羽生善治がふらっと就位式に現れたのである。
彼が自分以外の就位式に顔を出すなど、これまでなかったのではないか。

記者が理由を尋ねると「いや、まあ、ちょっと時間があったものですから」
羽生は微笑みながら答えた。
そして、里見のもとに足を運び、楽し気に談笑した。

記者は改めて里見について訊くと、羽生は答えた。

「女流棋戦と奨励会の両立は、肉体的にも精神的にも想像以上に大変なことだと思います。大きな負担が掛かっていたのではないかと。きつい状況の中でも対局は続いていく。そんな世界ですが、やはり限度もありますので。
特殊な環境にいる里見さんには、先駆者であることの大変さが必ずあると思うんです。最初の道を通る人であるからこその苦しさのようなものが。しかし、若いので回復する力はあると思いますし、今は休むことに専念して、さらに大きく飛躍していってほしいと思います」 

私は、この羽生善治の言動に感じ入る。
まさしく「心温かきは万能なり」の体現者だと。

実は、羽生は2日後に王将戦の第7局を控えていたのである。
通常ならば、研究に時間を割きたいところだろう。
ただでさえ、2日制のタイトル戦は普及も兼ねて地方で対局するため、そのための準備にも時間が必要となる。
その多忙を縫って、わざわざ就位式に訪れたのだ。

おそらく、羽生は心身が悲鳴をあげるまで真摯に将棋に打ちこんだ里見を心配し、励ましたかったのだろう。
そして、里見の辛さを誰よりも分かるのもまた、羽生善治だったのではないか。

「先駆者であることの大変さ」「最初の道を通る人であるからこその苦しさ」。
これは、まさに羽生自身が味わい続けたものではないか。
だからこそ、タイトル戦の直前にもかかわらず、里見にエールを送りに来たのだろう。

不登校の子どもたちとの交流

以前、羽生は不登校の子どもたちから取材を受けたことがあった。
それ以降、スケジュールを調整して彼らの学校を訪問し、さらに不登校児のために開催された大会に金沢まで足を運んだ。

羽生善治のあたたかい人柄に、不登校の子どもたちも心を開いていく。
その中で、学校に依存しない生き方を実践してきた羽生に、「不登校の人へのメッセージは何かありますか」と質問したことがあった。

羽生は答える。

「学校へ行かないことに罪悪感を持たないことが大切だと思います。私は中学生でプロ棋士となったため、高校では月10日くらい休んでいました。なので、学校に行かない罪悪感が分かるような気がします」

そして、続けた。

「でも、学びとはいつ始めても良い、いつやめても良いものだと思います。“こうしなければ大人になれない”という答えは無いと思うんです。私は20代の頃は明確な“答え”を求めていましたが、30代以降は“答えなんてなくてもいいんだ”と思えるようになったんです。分からないことや未確定なことがあるからこそ、将棋はおもしろいんだし、そこに進歩の余地があるんだと思っています」

この「将棋も人生も答えなんてなくてもいいんだ」という羽生の言葉は、不登校の子どもたちの心に深く響いた。

将棋は“81マスの無限の宇宙”と喩えられるように、とても全てを読み切れない。
なので、羽生はしばしば定石では不利だと結論付けられている手を指すことがあった。
将棋の可能性をとことことん追求するためである。

彼の言葉が子どもたちの心に届いたのは、羽生自身が実践者なればこそ、真実の重みが増したためだろう。

そして、彼等に送ったメッセージがもう一つある。
“3手の読み”である。
羽生は、この“3手の読み”をいつも大切にしているという。

3手とは、まず1手目を自分が指し、2手目が相手、そして3手目を自分が指す。
最も大事なのが2手目であり、相手の考えを読まなければならない。
人は「相手の立場に立って、自分の価値観で考えてしまう」のだと羽生は語る。
相手の価値観で考えてこそ、相手の手が読めるのだと言うのだ。

これは何も将棋に限ったことではない。
人との関わりの中でも、つい見失いがちだが大切なことである。

まとめ

私には数ある羽生善治永世七冠の名言の中で、特に素晴らしいと感じた言葉がある。
それは、彼が語った才能の定義についてだ。

「以前、私は、才能は一瞬のひらめきだと思っていた。しかし、今は10年とか20年、30年を同じ姿勢で同じ情熱を傾けられることが才能だと思っている」

「何かに挑戦したら確実に報われるのであれば、誰でも必ず挑戦するだろう。報われないかもしれないところで、同じ情熱、気力、モチベーションをもって継続しているのは非常に大変なことであり、私はそれこそが才能だと思っている」

眩いばかりに輝く才能に恵まれながら、「継続は力なり」を実践する羽生善治永世七冠だからこそ、30年もの長きにわたり棋界の第一人者たりえていたのだろう。

「将棋界の至宝」羽生善治永世七冠。
同じ時代を生きられたことに深く感謝したい。


才能とは続けられること

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コメント

  1. 依田浩人 より:

    何故か羽生先生に強く惹かれる理由を説明してくださったブログでした。ハック・フィンさんと、このブログに導いてくださった理恵さんに感謝です。ありがとうございました。