4月1日、女子フィギュアスケートの宮原知子が現役引退の記者会見を行った。
引退自体は彼女の誕生日である3月26日に、自身のブログとインスタグラムで発表していた。
「今シーズンは、これまでにないほど練習に取り組んだ。最後まで充実した競技人生を送れた」とコメントを残した宮原知子。
そして、最後に周囲のサポートに心からの感謝の意を表すと、サプライズ?で登場した宇野昌磨から花束を受け取り、会見を締めくくる。
2013-2014のソチ五輪シーズンをもって浅田真央が休養に入った後、日本女子フィギュアスケート界を牽引してきたのが宮原知子であった。
2014年の全日本選手権を16歳で初優勝すると、2017年まで4連覇を果たす。
そして、世界選手権でも銀メダルと銅メダルをそれぞれ1回ずつ、グランプリファイナルでも2015年と2016年に2年連続で銀メダルを獲得する。
だが、私が最も印象に残っているのは、メダルにこそ後一歩届かなかったが、2018年の平昌五輪である。
彼女の演技は、まさに「ミス・パーフェクト」と呼ぶにふさわしいものだった。
平昌五輪での健闘
アリーナ・ザギトワとエフゲニア・メドベージェワによる、史上空前の頂上決戦を繰り広げた女子シングル。
結果は惜しくも4位で表彰台を逃したが、その戦いに宮原知子はしっかりと爪痕を残す。
伸びやかなスケーティングに豊かな表現力。
団体戦では回転不足を取られたジャンプもクリーンに決める。
オリンピックのリンクに立てる喜びを、エレメンツの全てで表現するような素晴らしい演技だった。
思わず「ミス・パーフェクトの名に偽りなし」と唸らされた。
ショートプログラムの「SAYURI」、フリースケーティングでの「蝶々夫人」という純和風な旋律に乗った演技は、宮原自身の大和撫子を彷彿とさせる雰囲気と非常に親和性が高く、世界中から称賛を浴びた。
滑り終わった直後、あの大人しい宮原が満面の笑みを浮かべながらガッツポーズをした。
それは、まさに4年間の努力の結晶が結実した瞬間だった。
努力と忍耐の人
私はオリンピックでの宮原知子の活躍を見ながら、この1年、彼女が乗り越えた険しき道のりを思い出していた。
実は、彼女は平昌五輪の前年1月に左足股関節を疲労骨折し、その怪我が回復すると今度は左足首を怪我し、さらに右足股関節の骨挫傷にも見舞われたのだ。
その当時、濱田美栄コーチがかけた言葉からも絶望的な状況が窺える。
「5年後のオリンピックを目指しましょう」
だが、宮原知子にギブアップという言葉は存在しない。
泣き言一つ言わずに、リハビリと練習に明け暮れる。
片方の足が怪我で使えないならば、もう片方の足で出来ることをやる。
ジャンプが跳べなければ、ステップやスピンのための時間にする。
リンクに立つことすらできない時は、映画を観たり音楽を聴いたりして、感性を磨く一助とした。
その苦しい道のりを乗り越えて、ようやくオリンピック間近の11月に復帰できたのだ。
そして、一発勝負の全日本選手権で優勝して、オリンピック出場に漕ぎ着ける。
平昌五輪の演技終了後、「結果は悔しいけれど、やれることはやった」とインタビューに答えた。
そして、「オリンピックは想像以上に夢の世界だった。思う存分、楽しめた」と語る宮原知子には、全てを出し切った清々しい笑顔が湛えられていた。
まとめ
浅田真央という銀盤の女王が不在の中、日の丸を背負い世界と戦った宮原知子。
北京五輪には出場できなかったが、平昌大会以降も己の課題と向き合い、真摯に努力し続けた。
また、平昌五輪シーズンのほとんどを怪我のため、思うように練習ができない中、今できる一つひとつに取り組みもした。
その時、ともすれば折れそうになる心を支えたことがある。
それは「怪我で苦しむ人々の希望になれるような人間になりたい」と一緒にリハビリをしたトレーナーに誓った思いだった。
その思いがあればこそ、苦しいリハビリでも決して諦めず、オリンピックという夢舞台への出場が叶ったのではないか。
引退後はプロフィギュアスケーターと共に、医学への道も念頭に置いているという。
一番苦しかった時、「怪我で苦しむ人々の希望になれるような人間になりたい」と思える宮原知子ならば、きっと患者の心に寄り添える医療従事者になるだろう。