北京オリンピック名勝負⑦ フィギュアスケート男子シングル「至高への挑戦」後編




北京オリンピック大会7日目となる2月10日、フィギュアスケート男子シングル・フリースケーティングが行われた。

羽生結弦のオリンピック3連覇と、史上初空前絶後の4回転アクセルジャンプへの挑戦。
そして、上位3選手による優勝争い。

見どころ満載の頂上決戦に、世界の注目が集まった。


Number(ナンバー)1046号 完全保存版 北京五輪熱戦譜

男子フリースケーティング

羽生結弦

「天と地と」の曲と共に、羽生結弦は滑り出す。
練習の段階から右足が万全でない様子を見せていた羽生結弦。

しかし、そんなことは歯牙にもかけず、ディフェンディングチャンピオン・羽生結弦は覚悟を決めた表情で4回転アクセルへと飛んでいった。
美しい飛び上がりから、右足で着氷したかに見えた。
これまでで最も可能性を感じさせるジャンプだったが、後一歩で成功には至らず転倒する。
この瞬間、羽生結弦の3連覇は忘却の彼方へ消え去った。

今大会、鬼門となる4回転サルコウも転倒する。
これで、表彰台も厳しくなった。
奇跡の大逆転への秘策、トリプルアクセル&3回転ループの超高難度コンビネーションジャンプのセカンドを2回転トウループに変更したことで、メダルへの希望は九分九厘無くなった。
それでも、羽生結弦は曲と調和しながら滑っていく。
やはり、羽生結弦の演技は美しい。
冒頭のジャンプを2つ転倒して以降は全ての演技をクリーンに成功させ、羽生結弦の北京オリンピックは幕を閉じた。

技術点99.62点、演技構成点90.44点、転倒によるマイナスが2点の合計188.06点がフリーの得点となった。
羽生にしてはかなり低い演技構成点となったが、自身が拘り続けた羽生結弦にしかできない演技を最後まで見せてくれたことに、感謝の言葉しか見当たらない。

やり切った表情には、悔いはあっても後悔は無いように見える。
そして、羽生結弦が挑んだ4回転アクセルは着氷こそ出来なかったが、ISUに公式認定された。
これは、フィギュアスケートの未来へと続く人類初の偉業である。
結果は4位に終わったが、見事としか言いようがない羽生結弦の挑戦だった。


羽生結弦 未来をつくる

宇野昌磨と鍵山優真

ボレロの曲に乗せて氷の上を舞っていく、“表現者“宇野昌磨。
最初の4回転ループを美しく決め、波に乗るかと思われた。
ところが、5本の4回転ジャンプのうち3本ミスしてしまう。

だが、今季を象徴するように宇野は失敗を恐れず、最後まで攻めの姿勢を貫いていく。
超高難度プログラムにあって、スピン・ステップではレベル4を逃さない。
体力の限界をとうに越えていながらも、最後のステップシークエンスに有らん限りの情熱を注ぎ込む。
決して完璧ではなかった演技だが、宇野昌磨の高き志は観る者全てに伝わった。
己の信念を通した末に手にした銅メダル。
私には、平昌での銀メダルよりも価値あるように感じる。

宇野は、今後もフィギュアを続けていく。
そして、いつかネイサン・チェンのいる場所に辿り着くことを目指すと言う。
この4年間で、人間性にも磨きがかかった宇野昌磨の演技が待ち遠しい。


宇野昌磨の軌跡 泣き虫だった小学生が世界屈指の表現者になるまで

ショートの明るくポップな曲調とは一転する「グラディエーター」の旋律。
その音色に乗って鍵山優真は、リンクを駆けていく。
盤石の4回転トウループとサルコウは、間違いなく世界最高峰である。
そして、団体戦のフリーと個人戦のショートで取りこぼしがあったスピン・ステップも、全てレベル4をとった。
課題の一つひとつを確実にこなしていく鍵山優真の学習能力の高さに畏れ入る。

まさしく、経験を積むごとに進化していく18歳。
勝負をかけた高難度の4回転ループこそ失敗したが、転倒だけはギリギリこらえた。
団体戦には及ばなかったが、200点越えの201.93点は素晴らしい。

試合後、今大会で初めて緊張したと口にした。
にもかかわらず、18歳の少年があれほどの演技をしたのである。
鍵山優真は守りに入らず、初出場で銀メダルの栄誉に輝いた。

ネイサン・チェン

いよいよ、最終滑走者として登場するのが、世界王者ネイサン・チェンである。
彼が最も得意とする、「ロケットマン」で頂点を目指す。

ネイサン・チェンは冒頭の4回転フリップ&3回転トウループのコンビネーションジャンプに続き、単独の4回転フリップまでも完璧に着氷する。
この2連発のジャンプを決め35点近く叩き出した時点で、ある意味決着がついたのかもしれない。
そして、4回転ルッツを冒頭のジャンプ以上の出来栄えで成功させ、勝負の行方はほぼ決まる。

一時は、自身が持つ世界最高得点を更新する勢いであったが、演技後半にかかり、スピンでレベルを落とし、ジャンプもやや失速した。
優勝を確信し、やや安心したのだろうか。

だが、演技最終盤のコレオシークエンスでは、この舞台で滑る歓びを全身で表現するネイサン・チェン。
心から楽しそうにノリノリで踊る姿に、ここがオリンピックの舞台なのが信じられない。
その様は、まるでウィニングランのようでもある。

先月の全米選手権で、チェンは同じコレオシークエンスの場面で珍しく転倒した。
実は、曲に夢中になり過ぎて足もとが疎かになってしまったという。
それほどまでに、この「ロケットマン」というプログラムがお気に入りなのである。

金メダルへと向かって疾走するチェンは、華麗にスピンを決めて演技を終えた。
その瞬間、チェンを見守るラファエル・アルトゥニアンが、力強くガッツポーズする。
リンクを降りるネイサン・チェンは、そんな興奮冷めやらぬ恩師と熱い抱擁を交わした。
10年以上も共に過ごした愛弟子に、ラファエル・アルトゥニアンは何を思うのだろう…。

そして、キス&クライで得点を待つ、ネイサン・チェンとラファエル・アルトゥニアン。
218.63点とアナウンスされると、ネイサン・チェンは両手をあげて喜びを爆発させる。
世界記録を更新したショートでは不動の佇まいを見せたラファエル・アルトゥニアンも、チェンの腕を掲げ、喜びを隠せない。

ふたりはお互いの肩を抱き合い、万感の思いに身を寄せる。
今、師弟に最高のときが訪れた。

物語の完結

4年前の失意のショートを終えた後、「新たな1日を歩んで行こう」という気持ちで臨んだフリーの演技。
起死回生の4回転ジャンプを次々と決めていく弱冠18歳のネイサン・チェンの姿に、あの日、私はこの若者を応援することを心に誓う。
それ以来、羽生結弦よりもネイサン・チェンを応援し続けた私は、周りから非国民のレッテルを貼られてしまう。

そんなチェンに対し、もし金メダルを獲れなかったら、私はどうお詫びすれば…と心を痛めていた。
実は、これまで浅田真央、イリーナ・スルツカヤ、エフゲニア・メドベージェワといった、私がオリンピックで応援してきた選手はことごとく敗れているのだ。
はっきり言って、私は疫病神なのである…。
なので、当然嬉しさもあるが、全く関係のない部外者の分際でホッと胸をなで下ろしている。

今回の金メダルは、ネイサン・チェンの実力が突出していたこともあるが、常に「羽生は特別な存在である」と口にしていたように、謙虚な姿勢でリスペクトの気持ちを忘れなかったことも要因ではないか。
圧倒的な実力で不敗神話を築いても、羽生結弦というアイコンが居てくれたおかげで、完全なる孤高の存在になることはなかったように思う。
荒漠と広がる頂に、ただ独り鎮座することほど、孤独なことはない。
羽生結弦の存在は、ネイサン・チェンにとって不可欠だったのだろう。

その羽生結弦にとって、今大会は必ずしも満足できる結果ではないだろう。
それでも、ショート同様、キス&クライで得点を待つ彼は全てを受け入れた態度で、礼を尽くして感謝を述べていた。
これまでの私は、自己顕示欲旺盛な羽生結弦のスタンドプレーをあまり好きになれなかった。
だが、今大会の羽生結弦には、演技だけでなくリンク外の言動も含めて敬意を抱いた自分がいた。
人は、不本意にあるとき、その人の真実が見える。
悲願を達成できなかった無念の中、羽生結弦の人間力を見た思いがする。

試合後の羽生結弦の言葉に、4年に渡る厳しき道のりを痛感させられた。
「かつてないほど、濃密な練習をこなしてきた。報われない挑戦だったかもしれないが、自分ができることは全てやった」

私はこの羽生結弦のコメントに、彼と同じ苗字を持つ将棋界の伝説・羽生善治永世七冠の言葉を思い出す。

「何かに挑戦したら確実に報われるのであれば、誰でも必ず挑戦するだろう。報われないかもしれないところで、同じ情熱、気力、モチベーションをもって継続するのは非常に大変なことであり、私はそれこそが才能だと思っている」

まとめ

上位4名の選手は、各々が今目指すべき「至高への挑戦」を貫いた。
だからこそ、我々は勝敗を越えて、これほどまでに深い感銘を受けるのだろう。

平昌オリンピック以降、人類未踏の4回転アクセルに挑み続けた羽生結弦。
そんな羽生結弦は技術・表現力・精神力を合わせた総合力において、疑いようもなく“史上最高のフィギュアスケーター”である。

そして、同じくこの4年間、“史上最強の4回転ジャンパー”として、男子フィギュア界の頂に君臨し続けたネイサン・チェン。
心技体の全てを極めたネイサン・チェンは、“史上最強の4回転ジャンパー”という領域を抜け出し、“史上最強のフィギュアスケーター”となったのではないか。

歴史に残るライバル関係を演じた、ふたりの偉大なるアスリート。
羽生結弦とネイサン・チェンの物語はオリンピックの舞台で大団円を迎え、伝説から永遠に語り継がれる神話へと昇華した。

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