初戦のドイツ戦こそ苦戦したものの、準決勝で強豪ロシアを4勝0敗のストレートで下した日本チーム。
いよいよ泣いても笑っても、東京オリンピックにおける柔道のフィナーレを迎える戦いが始まろうとしていた。
決勝戦
恐るべきフランスチーム
決勝の舞台で相まみえるのは、ヨーロッパの柔道大国フランスである。
それぞれの階級に出場する選手が発表された。
日本は概ね予想されたメンバーである。
問題はフランスチームだ。
私はひと目そのメンバー構成を見て愕然とした。
ここまでの個人戦の試合を観た感想として、フランスの方が地力で勝るように感じたからである。
特に、女子の3選手は団体戦に出場していない52㎏級のブシャールを含め、誰もが黒人ならではの身体能力に裏打ちされたスピードとパワーを武器に圧倒的な柔道を展開していた。
なぜ、フランスが今大会での金メダル獲得が1個だけなのか、不思議なほどの面々である。
正直、日本が勝てそうな階級は男子73㎏級以下の大野将平と、男子90㎏級以下の向翔一郎ぐらいではないかと思った。
なので、大野が第6戦で登場する組み合わせは非常に痛い。
なぜならば、下手をすると大野の出番がないまま、敗退してしまう可能性があるからだ。
勢いがある日本チームなので、私のヘボ予想が外れることを祈るばかりである。
苦戦の予感
先鋒として畳に上がったのが、女子70㎏級以下の新井千鶴である。
ここまでの団体戦で2連勝しており、個人戦の好調をキープしている。
ところが、フランスは70㎏級の選手ではなく、1階級下の63㎏級のアグベニューを起用した。
今回、私が苦戦を覚悟した最大の要因が、今大会の個人戦金メダリスト・ アグベニューの存在なのである。
前編でも述べたように、素人の私見だが現在の女子柔道界のパウンドフォーパウンドは阿部詩ではないかと思う。
そして、もう一人候補を挙げるとすれば、このアグベニューなのだ。
63㎏級の個人戦の試合を観て、アグベニューのパワーと瞬発力には目を見張らされた。
事実、団体戦の準決勝でも70㎏級以下に出場し、1階級上の銅メダリストに勝っている。
いきなり初戦から山場を迎える決勝戦が始まった。
試合開始から、力のこもった柔道を繰り広げる両者。
開始1分が経とうとした時、アグベニューが小内刈りで技ありを先制する。
予想どおり、 アグベニューは全く1階級下ということを感じさせない。
十分な組手を許さず試合を進めるアグべニューは、新井の足技にも対応していく。
そして残り30秒、互いに足技を仕掛ける中、アグベニューの小内刈りが再び決まった。
技あり2つで合わせ技一本、アグベニューの完勝であった。
それにしても、アグベニューの強さは私の想像以上であり、世界選手権5度制覇の実績は伊達ではない。
次鋒戦は、男子90㎏級以下の向翔一郎がクレルジェとの戦いに臨む。
クレルジェは34歳とベテランながら、2019年の世界選手権で銅メダルを取るなど実力者である。
だが、今日の向は動きが良いだけでなく、井上監督の期待を意気に感じる様子が伝わってくる。
なので、十分に勝機があるのではないかと思っていた。
一進一退の攻防の末、両者譲らずゴールデンスコアに突入する。
向も積極的に攻めるが、百戦錬磨のクレルジェも試合巧者ぶりを発揮し、決め手を許さない。
厳しい試合が続く中、向が小外刈りにいったところを隅落としで合わせられ、一本負けを喫した。
この大事な一番にしては、少し不用意な技の入りだったかもしれない。
だが、試合中に頭から出血し包帯を巻きながらも、祖国のために全力を尽くしたクレルジェを褒めるべきだろう。
いずれにせよ、日本にとっては手痛い1敗となった。
重量級 魂の戦い
2連敗で迎えた第3戦は、女子70㎏超級の素根輝がフランスのディコと対峙する。
個人戦金メダリストの素根には大変申し訳ないが、私はディコに分があるように思っていた。
準決勝でディコは他の選手に敗れて銅メダルに終わったが、直接対決にならなくて安堵としたことを憶えている。
しかも、これ以上絶対に負けられないという重圧ものしかかるのだ。
試合が始まると、162㎝しかない素根に対し180㎝あるディコは体格差を生かし、上から奥襟や背中を持ってプレッシャーをかけてくる。
守勢に回る素根に、最初の指導がきた。
やはり単純なパワー勝負では、ディコに分がありそうだ。
しかし、強引に技をかけてくるディコの一瞬の隙をついて、素根が大内刈りで巨体を倒した。
必死に腹ばいで逃げ、何とかポイントを逃れるディコ。
素根からすれば非常に惜しかったが、流れが変わる気配が漂う。
再び組み合いジリジリと圧力をかけてくるディコを、再び大内刈りが強襲する。
今度は技ありを奪い、素根がリードした。
そして、ディコが苦し紛れに放った引き込み技に乗じて素根が抑え込む。
10秒が経ち、合わせ技一本で素根が勝利する。
素人予想の遥か上をゆく素根は、真の意味で重量級の女王であることを証明した。
体格とパワーに勝るディコに対し、技で倒した素根輝には感嘆せずにはいられない。
星を一つ返した日本だが、実は次の男子90㎏超級が最も絶望的な戦いなのである。
対戦カードは、日本が100㎏級のウルフ・アロン、フランスが100㎏超級で長きにわたり絶対王者として君臨してきたリネールである。
ウルフも身長181㎝と決して小柄なわけではなく、無差別級の全日本選手権でも優勝した経験があり、100㎏超級の相手でも十分に戦えるポテンシャルを秘めている。
だが、相手のリネールは身長204㎝、体重も130㎏近くあり、昨年不覚を喫するまで国際大会154連勝を記録した怪物なのだ。
圧倒的な体格差に加え、実力も超一流のレジェンドを向こうに回し、さすがのウルフも策がないかに思えた。
試合開始直後から、リネールは右で奥襟を引きつけウルフの頭を下げさせ、揺さぶりをかけてくる。
序盤戦は、防戦一方のウルフ・アロン。
やはり厳しいか…。
しかし、開始2分を過ぎたあたりからウルフも相手の道着を引き、技を仕掛けていく。
ところが、ウルフに2つ目の指導が飛んできた。
これで後がなくなってしまうと、リネールが強烈な隅返しを放つも、素早く反応し事なきを得るウルフ・アロン。
だが、全く弱気にならないウルフは正面から襟を掴み、大内刈りで攻めていく。
さらに相手の懐に飛び込み、裏投げで脅かす。
柔道界の怪物相手にも、全く怯むことなきウルフ・アロンの心の強さには、感動すら覚えてしまう。
ついに、ゴールデンスコアにまで縺れこむ。
なおも、ウルフは釣り手と引手を取り、先に技を仕掛けていく。
時間が経つにつれ、ウルフが押し気味に試合を進めているではないか!
延長戦に無類の強さを発揮するウルフだけに、番狂わせの予感が走る。
がっちりと組み合い、リネールの払い腰にも余裕を持って対応する。
今度はウルフが、逆に内股、大内刈りでリネールをぐらつかせる。
そして、ついに決着の時が訪れる。
両者引き付けあい、ウルフが小外刈りを放った瞬間、リネールが内股を打ち返すとウルフの体が宙を浮き倒される。
6分29秒、技ありでリネールに凱歌が上がった。
敗れたとはいえ、自分の全てを出し切ったウルフ・アロンの柔道は、素晴らしいのひと言に尽きる。
団体戦の中で、最も深い感銘を受けた戦いぶりであった。
外国人の血が流れるウルフ・アロンだが、その魂はまさしく武士(もののふ)を彷彿させるものだった。
素晴らしい戦いを見せてくれたウルフ・アロンという柔道家に、ただひたすらに感謝の意を表したい。
フランスの意地
いよいよ土俵際に追い詰められた第5戦は、女子57㎏級以下の芳田司が登場する。
女子57㎏級銀メダリストのシジクを相手に、個人戦で銅メダルに終わった悔しさをぶつけるような果敢な柔道を繰り広げたが、技ありを取られ後一歩届かず敗北した。
このシジク。
不運な判定で銀メダルに終わったものの、この階級最強の片鱗を見せつける。
柔道混合団体の戦いは、4勝1敗でフランスチームの優勝で幕を閉じた。
まとめ
優勝が決まった瞬間、膝の怪我をおして出場したシジクは歓喜のあまり涙が止まらない。
同様に、フランスチームも皆で肩を寄せ合い、喜びを爆発させる。
そして、畳の上のシジクのもとに駆け寄り、チーム一丸健闘を讃え合った。
個人戦ではツキに見放された感もあり、金メダルはアグベニューの1個に終わったフランス。
あのリネールでさえ、有利に試合を進めていた準々決勝で一瞬の隙を突かれ、銅メダルに終わっていた。
その悔しさを団体戦にぶつけるかのような快進撃。
日本の敗戦は誠に残念ではあるが、フランスは本当に強かった。
3年後のパリオリンピックは、間違いなく日本にとって最大の壁となるだろう。
一方、虚ろな目で敗戦の痛みに耐える芳田司。
勝者と敗者のコントラストに、改めて勝負の世界の厳しさを思い知る。
だが、この決勝は1試合たりとも凡戦がなく、国の威信を懸けた熱き戦いに終始した。
全ての選手が祖国のために死力を尽くした姿は、観る者全ての脳裏に焼き付いたことだろう。
最後に、私は大野将平のインタビューに深い感銘を受けた。
他の選手が敗戦の悔しさを滲ませるコメントを残す中、冒頭で柔道競技への応援に対する感謝を述べ、フランスチームの強さを称賛し、相手チームへ尊敬の念を表したのである。
出場の機会がないまま銀メダルに終わった無念の気持ちは、いかばかりであったことだろう。
にもかかわらず、日本チームの主将らしい立派なコメントを残したのだ。
実は、この団体戦の中でホッとしたことがある。
誤解を恐れずに言うと、それは大野将平が準々決勝で負けたことだ。
もちろん、結果的にそのドイツ戦で日本が勝ち上がったから言えることなのは間違いない。
しかしながら、私は今大会の大野を見ていて、気の毒で仕方がなかった。
篠原信一、吉田秀彦、野村忠宏、穴井隆将等々、全ての柔道関係者から大野が負けるはずがないと言われていたように思う。
それに加えて、大野将平こそ心技体を極めた日本柔道の体現者だとも謳われていた。
大野の口から語られたリオ五輪以降の苦しかった日々を想像するに、こうした内外からの期待や絶対に負けられないという重圧がどれほど彼を苦しめたことか。
勝負は時の運であり、ましてや世界中の猛者が打倒大野に心血を注いでいるのだ。
その日の体調や勝負の綾で負けることも、少なからず存在する。
負けて良かったなどと言われるのは、大野にとっては不本意だろう。
だが、これで双肩にのしかかっていた重い看板を少しでも降ろすことができ、大野将平が好きで始めた柔道の原点に回帰できることを願わずにはいられない。