忘れ得ぬ名将③「球界のソクラテス」野村克也 ~大輪の花を咲かせた月見草~





プロ野球史において、最も野球というスポーツへの知見を有していた一人。
それは、野村克也ではないだろうか。

現役時代は捕手で4番、おまけにプレーイングマネジャーまで務めるなど、八面六臂の活躍をみせていた。

また、ヤクルト監督時代は4度のリーグ優勝に加え日本一にも3度輝くなど、名将の名をほしいままにする。

“球界のソクラテス”野村克也の苦言が聞こえぬ野球界は、どこか寂しく感じる。

野村克也とは

野村克也は1935年6月29日に京都で生まれる。
母子家庭で育った野村は子ども時代、極貧生活を送っていた。
少しでも母を助けるため、野村少年は新聞配達などのアルバイトに精を出し、家計を支えた。

その貧困から抜け出すため、野球への道を志す。
だが、家庭の事情もあり高校進学が難しい状況の中、成績優秀な兄が弟のために自らの大学進学を諦め、高校への入学を果たすことができた。
もし、兄の英断がなければ、後年の野村克也は存在しなかったかもしれない。

高校卒業後、野村は南海ホークスにテスト入団を果たした。     
だが、当時の南海は強豪チームで捕手も有力選手が目白押しであり、一度はクビを宣告されるなど早くも選手生命の危機が訪れる。
だが、野村は懸命の努力で、そのどん底から這い上がっていく。
もちろん、肉体の鍛錬も欠かさなかったが、何よりも考えることの重要性に一早く気付き、創意工夫をこらした練習に重きを置いた。

その時の経験が、後年、指導者になった時に提唱した“考える野球”の礎となったのである。


野村ノート (小学館文庫)

現役時代

現役時代、野村は数々の記録を打ち立てた。
ホームラン王9回、打点王7回、そして戦後初の三冠王も獲得する。
通算本塁打数は657本で、これは王貞治に続くプロ野球史上2位の記録である。
その他、安打数や打点等も2位となっており、まさにパリーグの最強打者として一時代を築いた。

野村の偉大さは、打者としての実績にとどまらない。
27年にも及ぶ野球人生において“生涯一捕手”を全うし、扇の要としての職責を十分すぎるほど果たしチームを支えた。
キャッチャーという負担の大きいポジションをこなしながら、上記のような凄まじい記録をマークしていたのだ。
だが、強かな野村はその激務のポジションを逆手に取ってバッティングに生かす。
捕手として培った駆け引きの妙をバッティングにも応用し、相手バッテリーの配球を読む技術を磨いていく。

また、南海時代の後半は監督も兼任し、チームの采配も振るっていた。
もはや、私には意味が分からない。
いったい全体、一人何役をこなし、どれほどの重責を担っていたのだろうか…。

チームの攻撃面の主軸を担う4番バッター、守備の柱石としてのキャッチャー、そしてチームの舵取り役の監督。
これらを一人でこなし、あまつさえリーグ制覇も成し遂げた。

おそらく、チームへの貢献度としては、この頃の野村克也の右に出る者はいないのではなかろうか。

監督時代

南海時代のプレーイングマネジャーを皮切りに、ヤクルト、阪神、楽天と4球団で監督を務める。

特に、野村の監督としてのピークはヤクルト時代であった。
前述したように、9年間の監督生活で強大な戦力を誇る巨人を向こうに回して4度セリーグを制し、日本一も3度達成する。
良くいえばアットホームな、悪くいえばどこか生ぬるいヤクルトの体質を改革するため、毎晩のようにミーティングを行い、選手に考える野球を植え付けていった。

さらに、野村の指導は野球に留まらない。
野球選手といえども、現役を引退してからの方が人生は長い。
子どもの頃から野球漬けだったこともあり、ほとんどの選手は社会の荒波に揉まれていない“野球バカ”で、社会人としての自覚や常識が欠如しがちだ。
だからこそ、野村は第2の人生でも社会で通用するよう教養を身に付けさせ、口を酸っぱくして人間教育を施した。

監督・野村克也の座右の銘に“財を遺すは下、仕事を遺すは中、人を遺すは上なり”というものがある。
こうしてみると、野村は野球の知識や技術の向上だけでなく、選手の生涯にわたる人材育成に尽力していたことが窺える。

野村再生工場

野村の監督としての功績は枚挙に暇がないが、その一つに“野村再生工場”といわれる手腕がある。
成績が下降したベテランをトレードで獲得しては、見事に甦らせる。
野村によって多くの選手が復活を遂げたが、印象に残る選手を紹介する。

1.江夏豊

まず、思い出されるのが南海時代に阪神からのトレードでやって来た江夏豊である。
阪神時代、空前絶後のシーズン401奪三振を記録するなど、本格派の先発投手として球界にその名を轟かせていた。

だが、血行障害により、イニングを重ねると球威が落ちるようになってしまう。
そこで、野村は「野球界に革命を起こそう」との口説き文句で、先発にプライドを持っていた江夏をリリーフピッチャーとして再生させることに成功する。
以後、「江夏の21球」でも知られる球界屈指のリリーフエースとして活躍した。

2.トーマス・オマリー

初来日した1991年から6年連続で打率3割をマークし、シュアーなバッティングに定評があったトーマス・オマリー。
だが、1995年いっぱいで長打力不足と緩慢な守備を理由に、阪神タイガースを解雇される。

そんな助っ人に目を付けたのが、野村克也である。
阪神時代から抜群の選球眼と配球読みの上手いオマリーを、野村は「12球団で最高の助っ人」と高く評価していた。

一方、オマリーも「阪神にいた頃から野村さんを尊敬していた。野村さんはいつもオレの打撃を崩そうとしていた。その人が味方になって、こんなに嬉しいことはない」と野村へ敬意を抱いていた。

実は、オマリーには、もう一つ大きな問題があった。
自由奔放な性格も手伝い、阪神ではワガママ放題の振る舞いに終始していたのである。

だが、野村監督はそれを許さなかった。
キャンプでは他の選手と同様の練習メニューを課し、昨年までの特権を剥奪する。
遠征先で遅刻した際も、本来休日に当てる移動日に罰として練習を命令する。
また、自分の打席ではランナーが出ても盗塁させないよう主張するオマリーに対し、チームプレーの大切さを説き一喝した。
こうした野村の操縦法の下でオマリーは考えを改め、チームのためのプレーに徹するようになる。

移籍1年目のシーズン、オマリーは自己最多の31本塁打を記録し、ヤクルト日本一の原動力となる。
そして、セリーグMVPに加え日本シリーズでもMVPを獲得した。

当時、横浜のローズと共に、穴のない好打者として活躍していたオマリー。
ヤクルトに移籍し、野村監督との出会いが更なる飛躍に導いた。

3.小早川毅彦

13年間在籍した広島を戦力外となり、ヤクルトに移籍して来た小早川毅彦。
そんな彼が初めて野村監督と交わした言葉は、とても新鮮だったという。
自らを不器用だと自覚する小早川に、野村は言った。

「自分が見る限り、お前は器用なやりかたをしている」

そして、「相手のことはもちろん、自分のことも分析しなさい」というアドバイスを手始めに、多くの箴言を送られた。

それ以来、これまでの自分とは違う視点の存在に気づかされるようになる。
たとえ、同じことでも角度を変えることにより、全く異って見えだした。
小早川にとっては、まさに目から鱗が落ちる思いだった。

新境地を開いた小早川は、巨人との開幕戦にスターティングメンバーとして出場する。
相手ピッチャーは開幕戦で3年連続完封勝利をあげている、セリーグを代表するエース・斎藤雅樹である。
すると、小早川のバットはいきなり火を噴き、3打席連続ホームランを放った。

この年、開幕戦で斎藤を攻略し勢いに乗ったヤクルトはリーグ優勝を成し遂げ、日本シリーズも制覇する。

まさに値千金となる小早川毅彦の3連発だった。

25年間の思い

晩年の野村には、教え子にどうしても伝えたかった思いがあった。
それは、ヤクルト監督時代に出会った伊藤智仁への謝罪である。

伊藤智仁は、野村の長い野球人生においても別格の投手だった。
1993年、プロ野球界に颯爽と現れると、キレのあるストレートと高速スライダーを武器に三振の山を築いていく。
ところが、1軍デビューからわずか2ヶ月あまりで、怪我により戦線離脱してしまう。
以後、怪我に悩まされ続け、手術とリハビリに明け暮れながらマウンドを去った。

後年、野村は「無理をさせて申し訳なかった。選手生命を縮めたのは登板過多が原因であり、自分の責任である」と直接詫びる。

そう語る野村に対し、伊藤智仁は言った。

「野村監督を恨むなんて、とんでもない。そんな風に思ってほしくない。怪我をしたのは、あくまで自分の責任です。僕は途中で代えられ、マウンドを降りるほうが嫌だった」

そして、最後に笑顔を浮かべながら野村に言葉をかけた。

「何とも思ってませんから。監督!」

その瞬間、25年もの長きにわたり自責の念を抱き続けた野村克也は、肩の荷が下りたように安堵の表情を浮かべた。

まとめ

ID野球を標榜し、データと頭を駆使したプレーを指導した野村克也。
それを裏付けるように理詰めで口うるさいイメージが先行するが、その根底には野球への尽きること無き深い愛情があった。

そんな野村は現役時代、自らが打ち立てた記録をことごとく王貞治に塗り替えられていく。
また、王と共にプロ野球を牽引した“プロ野球界のスーパースター”長嶋茂雄は、記録よりも記憶に残る存在として一際輝きを放っていた。
華やかな“ON”の陰に隠れてしまった野村は、度々こう言った。

「ONが大輪の花を咲かせるヒマワリなら、自分は人目のない所でひっそりと咲く月見草だ」

だが、私はあえて訂正したい。
たしかに、王や長嶋が日向を歩く「陽」ならば、野村克也はどこか「陰」のイメージがつきまとう。
しかし、現役時代の活躍だけでなく監督としても名将の地位を不動にし、自らの叡智を数多の書物に認めるなど、球界の発展に寄与した功績は決してONにも劣らない。
野村克也という名の“月見草”は、人生のトータルの中で大輪の花を咲かせたのである。

2020年2月11日、最期まで球界を見守り続けた“稀代の野球人”野村克也は、最愛の妻・沙知代のもとに旅立つ。
享年84だった。

きっと、悲しみよりも喜びの方が大きかったに違いない。
一番会いたかった人に、会えるのだから…。


野村克也 全語録――語り継がれる人生哲学

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