激突!至高の日本シリーズ「ヤクルト対西武」~念ずれば花開く~





プロ野球の頂上決戦「日本シリーズ」。

古くは、川上哲治監督率いる巨人がV9を達成した。
かと思えば、“悲運の闘将”西本幸雄は8回出場しながら、1度も勝利の美酒を味わうことが出来ずに終わった。

そんな数多の名勝負の中で私が最も心に残るシリーズは、1992・1993年の2年連続で相まみえた「ヤクルト対西武」である。

いずれも最終第7戦までもつれた激闘は、今もなお、ファンの記憶に刻み込まれている。

知将対決

1992年、圧倒的な力でパリーグを制覇した西武ライオンズに対し、大混戦のセリーグを僅か貯金8個で抜け出したヤクルトスワローズ。

1986年に監督に就任して以来、西武・森祇晶は6年間で5回日本一に輝いている。
一方、ヤクルト・野村克也監督は就任3年目にして日本シリーズに登場した。
こうした実績からも、“球界の盟主”西武に“若さと勢い”のヤクルトが挑戦する図式であった。

また、このシリーズ最大の見所は“知将対決”といえるだろう。
森、野村とも現役時代はリーグを代表する名捕手として鳴らす。
そして、敵チームとはいえ、互いの力量を認める好敵手でもあった。
そんな関係性もあり、巨人のV9戦士だった森は日本シリーズの前になると野村を訪ね、相手チームの情報収集に勤しんだ。

“勝負の鬼”森祇晶と“野球の鬼”野村克也。
まさに、狐と狸の化かし合いともいえる両者の駆け引きに、俄然注目が集まった。

歴史的名勝負

巨人のV9時代を生で観たことがない私にとって、1980年代後半から1990年代初頭の西武ライオンズこそ、最強のチームであった。
秋山、清原・デストラーデの球界屈指のクリーンアップトリオ、豊富な投手陣を中心にした固い守り。
どれをとっても穴の無いチーム力を誇っていた。

ヤクルトも強力打線に加え、知将・野村克也の采配など侮れないチームではあったが、如何せん西武の完成された野球には及ばないと思われた。

1992年10月17日、ついに両チームによる日本シリーズが神宮球場で開幕した。

その第1戦、負けたとはいえ、早くも西武の強さが垣間見えた。
2-3と1点リードを許す西武は、9回1死から清原がしぶとくセンター前ヒットで出塁する。
迎えるバッターは、今日2本のホームランを打っている“カリブの怪人”オレステス・デストラーデである。
ジリジリと迫りくる西武の強さ、怖さが徐々に先発の岡林を蝕んでいく。
さすがの御大・野村克也もベンチから身を乗り出して、食い入るように戦況を見守っている。
息をのむような緊張感の中、3ボール0ストライクからデストラーデが左中間へクリーンヒットを飛ばす。

そして、1死1.3塁の場面、ここまで凡打の山を築いていたキャプテン石毛がきっちり犠牲フライを打ち、あっという間に同点にしてしまう。
この場面、リアルタイムで観ていた私は、字面以上に西武ライオンズの底力をひしひしと感じていた。

だが、後続を抑え同点で踏ん張った岡林の力投もあり、杉浦のサヨナラ満塁ホームランが飛び出した。
結局、この日、岡林は延長12回・161球を投げ切った。

これほどの劇的なサヨナラ勝ちを収め、勢いはヤクルトかと思われたが、さすが西武である。
初戦で敗れたことなど歯牙にもかけず、翌日の第2戦から3連勝し、瞬く間に王手をかけた。
ところが、ヤクルトも池山やハウエルらのホームランもあり、第5・6戦の打ち合いを1点差で制し逆王手をかける。

いよいよ最終戦にもつれ込み、クライマックスを迎える頂上決戦。
ヤクルトに先制を許し、1点ビハインドの西武は7回にチャンスを掴む。
2死1・2塁の場面で、打順はピッチャーの石井丈裕である。
私は終盤に入ったこともあり、当然代打だと思っていた。
ところが、森監督はそのまま石井に打たせた。
すると、ペナントレースではDH制のため打席に入らない石井が、センターへ快音を響かせる。
俊足の飯田が追いついたかと思いきや、ボールを弾き、1-1の同点に追いついた。

私は、この采配に感嘆した。
点が入ったのは結果論であろうが、あの追い詰められた場面で代打を送らない森監督の胆力には恐れ入る。
だが、その裏、ヤクルトも2死満塁のチャンスを迎えたが、野村監督も同様にピッチャーの岡林に代打を送らずそのまま打たせた。

実は、両チームとも打ちあぐねており、そのまま先発投手に続投されるのが嫌だったのである。
だからこそ、それを看破した名将ふたりは、敢えて代打を送らなかったのだ。
このシーンもだが、本シリーズは随所に見応え十分の心理戦が展開されていく。

かねてから森監督は言っていた。
「うちはクリーンアップが目立つが、本当は脇役のチームなのだ」と。
キャッチャー伊東の好リード、キャプテン石毛のリーダーシップなど枚挙に暇がない。
そんな精鋭揃いのレオ軍団にあって、私が最も手練れだと感じたのが辻初彦である。

彼の攻守に渡るプレーは、まさしくいぶし銀である。
イニングが深まり、投手の球数が増え苦しくなる場面を迎えると、決して簡単には打たず、しつこくファールで粘りボール球を見極めていく。
投手が根負けしてフォアボールで出塁するかと思えば、アウトコースの難しいボールを職人芸の流し打ちでライト前に持っていく。

この試合でも、辻は7回1死満塁から杉浦の難しい打球を見事なフィールディングで本塁アウトにし、チームの危機を救っていた。
そして、延長10回表、先頭打者としてバッターボックスに入るのは辻である。
普段は右打ちを得意とする辻がインコースの変化球に対し、くるっと腰を回転させ2塁打を放った。
続く大塚が、初級から難なく送りバントを決める。

そして、1死3塁から秋山の犠牲フライで決勝点をもぎ取った。
いつもよりホームベースに近づいて、岡林のスライダーを狙いすました状況判断が光る。

不調の4番清原が途中交代していたが、辻・秋山のホットラインで日本一を獲得した西武の強かさに、野村監督の悲願は成就しなかった。

翌1993年、前年の日本シリーズを経験し、ヤクルトナインは一回りも二回りも成長した。
ペナントレースで躓くわけにはいかないと、巨人・中日を圧倒しセリーグ制覇を果たす。

日本シリーズが始まると、昨年は位負けしていた西武を追い詰めていく。
3勝1敗で王手をかけた第5戦。
第1戦で制球に苦しみノックアウトされた工藤は、立ち上がりからボールが先行する。
ところが、3ボール1ストライクから飯田がボール球に手を出し、センターフライを打ち上げた。
この飯田の拙攻で流れが変わり、ヤクルトはこの試合を落としてしまう。
いや、この試合だけでなくシリーズの流れも変わり、第6戦も西武が勝利した。

だが、両チームは1年経ち、勢力図が逆転していた。
流れを失っていたはずの最終戦、ヤクルトは西武を堂々と寄り切った。

昨年のリベンジを果たし、悲願を達成したヤクルトスワローズ。
野村克也にとって、2年越しとなる「念ずれば花開く」瞬間だった。

野村の思い

ヤクルト指揮官としては初のシリーズを迎える野村は、どこかいつもとは違って見えた。

普段は厳しい物言いに終始し、滅多に選手を褒めない野村。
そんな男が、西武の伊東勤がことさら名捕手として脚光を浴びる姿を見て、マスコミに漏らした。

「伊東だけでなく、古田も良いキャッチャーなんだぞ」

捕手というポジションの大家である野村は、とりわけ古田には厳しい注文を付けることが多く、意外だったことを覚えている。
また、第1戦の杉浦のサヨナラ満塁ホームランに、いつになく喜びを隠し切れない姿も見せた。

そんな野村はシリーズに臨むにあたり、ある言葉を口にした。

「念ずれば花開く」

この言葉を自らにも言い聞かせ、努力し最善を尽くせば“絶対王者”西武に対しても必ずや勝機が訪れ、夢が叶うのではないか。
実力的には劣勢なことを自覚する、野村の祈りにも似た思いが伝わってきた。


詩集 念ずれば花ひらく

岡林洋一 魂の粘投

1992年の日本シリーズで最も印象深かったのが、ヤクルトの投手・岡林洋一である。
シリーズMVPに輝いた石井丈裕投手以上に、心に残る魂の投球であった。
いや、それどころか私が観た歴代日本シリーズで、最も心を動された選手がこの岡林洋一といっても過言でない。

ペナントレースの終盤、激しい優勝争いを繰り広げる中、細身の体に鞭打つ岡林は先発にリリーフに獅子奮迅の活躍で15勝をあげ、チームをリーグ制覇に導いた。
そして、日本シリーズという檜舞台でも第1.4.7戦に先発し、いずれも一人で投げ切った。

第1戦は延長12回・161球を投げ抜き、強力西武打線を向こうに回し3失点で勝ち投手。
第4戦は、秋山のソロホームランに泣き、0-1で敗戦投手。
最終第7戦も延長10回を完投し、1-2で惜敗した。

終わってみれば、1勝2敗、3完投、防御率1.50、投球回数30イニング、そして430球の粘投。
日本シリーズで30イニングにも及ぶ投球回数など、昭和の時代、それも杉浦忠や稲尾和久ら伝説の投手しか記憶にない。

マウンドで沈みゆく夕陽を背負い、“絶対王者”に立ち向かって行く岡林洋一に、私は熱いものが込み上げてくる。
その姿が、野球漫画の金字塔「キャプテン」の谷口タカオと重なって見えたからだろうか…。
あるいは、エンディングの名曲「ありがとう」の一節を思い出したからかもしれない。

「きみの背中に 夕陽がさす 僕は ありがとうと そっと言うのさ」

“素晴らしき敗者”岡林洋一の勇姿を、私は決して忘れることはないだろう。

まとめ

野村監督の打倒西武にかける思い。

そして、岡林洋一が体現した一球入魂のピッチング。
そんな岡林はそのシーズンの無理が祟り、それ以降ケガとの戦いに明け暮れた。

野村ヤクルト時代の悲運の投手といえば、伊藤智仁が思い浮かぶ。
実働2ヵ月の伊藤智仁は、あまりにも鮮烈な記憶を残し去って行った。

しかし、あの年の岡林洋一も負けず劣らず、深く心に刻まれた。
ヤクルトファンのみならず、野球ファンならば、どうか岡林洋一という魂のピッチャーがいたことを記憶の片隅に留めておいて欲しい。

2年越しの日本シリーズを戦った「ヤクルト対西武」の名勝負数え唄。
あの激闘を超えるシリーズが、今後訪れることはあるのだろうか…。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする