「キューバの誇り」ハビエル・ソトマイヨール





カリブ海の真珠とも謳われるキューバ共和国。
その美しいビーチに囲まれた島国からは、これまで様々なアスリートが輩出されてきた。

だが、その数多の“超人”たちの中で、「キューバの誇り」と呼ばれるハイジャンパーが存在した。
それは、人類史上初にして、唯一8フィートのバーを跳んだハビエル・ソトマイヨールである。

ハビエル・ソトマイヨールとは

ハビエル・ソトマイヨールは1967年10月13日にキューバで生まれた、走高跳の選手である。
身長は193㎝あり、全身これバネというハイジャンパーとして理想的な体躯であった。
若くして頭角を現したソトマイヨールはわずか14歳で2mを跳び、16歳の時に2m33㎝の世界ジュニア記録を打ち立てた。

20歳で世界記録となる2m43㎝に成功すると、翌年には人類初となる8フィート越え(2m44㎝)を達成した。
さらに1993年には、自らの記録を更新する2m45㎝をクリアする。
ちなみに、ハビエル・ソトマイヨールの世界記録は、30年近く経った現在でも破られていない。

そんなソトマイヨールは、屋外と室内をあわせて2m40㎝以上を20回以上も跳んでいるというのだから、驚異的である。
まさに、1980年代後半から1990年代にかけての圧倒的支配者と呼べるだろう。

ソトマイヨールの跳躍

私は、ハビエル・ソトマイヨールの跳躍を初めて見た時、筆舌に尽くし難い感動に打ち震えてしまった。
したがって、上手くお伝えできないかもしれないのでお許しを。

まず、ソトマイヨールは跳躍の態勢に入る前に、必ず目をつむり、独り極限まで集中力を高めていく。
そして、その儀式を終えた後、大きなストライドで助走をとり、バーへ向かって背面で跳んでいく。
簡潔にいうと、このような感じであろうか。

では、私が初めて彼のハイジャンプを観た時の感想を記してみる。

ソトマイヨールの助走は他の選手よりも大きく独特であり、トレードマークの白いハイソックス共々、非常に印象的だった。
そして、ソトマイヨールがバーをしなやかに越えていく様は、まるで彼の周りだけ重力が働いていないかのようである。
未だ誰も成功させていない高さを、美しいまでの跳躍で越えていく姿を観た時、私は大袈裟でなく神の存在を感じた。
それほどまでに、ハビエル・ソトマイヨールの跳躍は神々しく、感動的であったのだ。

だが、私が彼の姿にインスピレーションを受けたのはそれだけではない。
前述したように、ソトマイヨールは助走に入る前に、目を閉じ瞑想状態に入る。
手拍子を求める選手が多い中、ソトマイヨールにその様子はなく、ただひたすらに他人とではなく己との戦いに集中する。
そして、己との戦いを終えた時、ハビエル・ソトマイヨールは目を開く。
その眼差しは、まさしく全てをやり遂げたかのようでもあり、悟りを開いたかのようでもある。
つまり、実際に跳躍する前に、もう既にバーを跳んでいるのだ。

そして、ソトマイヨールは試技に移ると当然のようにジャンプを成功させる。
まるで確認作業のために、我々凡人に分かりやすく実演して見せている感すらある。

この一連の所作を観た時、私はなぜハビエル・ソトマイヨールが「キューバの誇り」と呼ばれるのかが、分かったような気がした。

バルセロナオリンピック

1992年夏、スペインのバルセロナの地にソトマイヨールは降り立った。
それは、もちろんバルセロナオリンピックに出場するためである。

実は、これだけの実績をもつソトマイヨールだが、オリンピックに出場するのは初めてであった。
ジュニア時代からメダルを十分に狙える実力があったにもかかわらず、祖国キューバが政治的な理由から、1984年ロサンゼルス・1988年ソウルと2大会連続してボイコットしたのである。

4年に1度のオリンピックを1回パスするだけでも厳しいというのに…。
スポーツに政治を持ち込む愚かさに、ソトマイヨールの無念の思いが伝わってくるようではないか。

8年越しの悲願が叶ったソトマイヨールだが、この大会には手強いライバルたちが参戦していた。
中でも、最大のライバルとなるのが、スウェーデンのパトリック・ショーベリーである。
3歳年上のショーベリーは、ソトマイヨールが出場できなかったロサンゼルスで銀、ソウルで銅と、オリンピックで2大会連続のメダルを獲得していた。
そして、ソトマイヨールに破られるまで2m42㎝の世界記録を保持していたのも、ショーベリーである。

また、ソトマイヨールとは異なり、ショーベリーは派手な私生活に加え、競技中も素行の悪さが目立つなどトラブルメーカーとしても有名であった。
さらに、褐色の肌に短髪のソトマイヨールに対し、ショーベリーが白人で金髪をなびかせる美男子というのも対照的だった。

決勝は予選を通過した14人で争われた。
いきなり、最初のジャンプ2m24㎝を失敗してしまうソトマイヨール。
波乱の予感が走る。
それを象徴するような大混戦の中、最終的に5人で争われた優勝争いを制したのは、ハビエル・ソトマイヨールだった。

5人とも2m34㎝を跳んだにもかかわらず、メダルの色を分けたのは無効試技の差であった。
唯一人、1回でその高さを成功させたのがソトマイヨールだったのである。
銀メダルには、これまた無効試技の関係でパトリック・ショーベリーと相成った。
これで、ショーベリーは3大会連続のメダル獲得である。

ソトマイヨールにとって、金メダルへの道のりは長く険しかったことだろう。
決勝での苦しい試合展開、そして、ボイコットにより2大会続けて欠場を余儀なくされた末の大願成就。
その心中は察して余りある。

まとめ

灼熱のバルセロナで、ソトマイヨールと鎬を削ったパトリック・ショーベリー。
そんな彼は引退後、愛犬に白いソックスを履かせ、ソトという名前を付けた。
もちろん終生のライバル、ソトマイヨールにちなんでのことである。

早熟のハイジャンパーとして世界を熱狂させたショーベリーが、あるとき尋ねられた。
「なぜ、若くして成功を収めたあなたが、未だ衰えぬ情熱をもってこの競技に打ち込んでいるのか」と。

「それは、ソトマイヨールも頑張っているからだ」
パトリック・ショーベリーは真摯な眼差しで答えた。

私は、このショーベリーの言葉を聞いて胸が熱くなった。
幼い頃から“悪童”と呼ばれたショーベリーと、走高跳の真理を探究し続けた“孤高のハイジャンパー”ソトマイヨール。
何もかもが真逆な両者にもかかわらず、ショーベリーはそんなライバルに敬意を払い、その存在を励みに努力を重ねていたのだ。

タイプは違えど、同じハイジャンプという競技に心血を注ぎ、共に高みを目指すかけがえのない同志。
パトリック・ショーベリーの言葉には、そんな思いが伝わってくる。

オリンピックという最高の舞台でライバル同士が全力を尽くした、1992年8月のバルセロナ。
大空を舞うような、ふたりの姿は夏の陽射しよりも輝いていた。 

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