パリ五輪・柔道2日目。
女子52㎏級では優勝候補筆頭の阿部詩が2回戦で不覚を喫す波乱が起こる。
しかし、妹の鬱憤を晴らすかのように、兄・一二三がオリンピック連覇を成し遂げた。
その戦いぶりは柔道家としての完成期を思わせる、文句のつけようのないものだった。
道程
阿部一二三は10代の頃から天才ともてはやされ、スター街道を歩んできた。
天性のルックスと華やかさを兼ね備え、柔道をするために生まれてきたと言わしめる肉体を持つ彼は、天が二物を与えた典型例といえるだろう。
疑いようもなく「東京五輪の主役」と目された阿部だったが、暗雲がたちこめた。
ライバルの丸山城志郎の存在である。
一時は、東京オリンピックの代表レースで完全に後塵を拝した。
私も丸山で決まりだと思っていた。
だが、最後の最後で丸山との直接対決を制し、東京五輪の切符を手に入れる。
あの代表決定戦は“柔道界の巌流島決戦”とも呼ぶべき死闘であった。
戦いが始まり、両者が技を繰り出すこと実に24分、最後は阿部一二三の大内刈りが一閃し技ありと相成った。
あれほど、勝者と敗者の陰影が色濃く映し出された瞬間はあっただろうか。
敗れた丸山城志郎のみならず、勝った阿部一二三も男泣きに暮れる。
勝負とはかくも残酷なものかと痛感した。
阿部は五輪代表を手に入れるまでの試行錯誤の時間があればこそ、これほどまでの柔道家になれたのではないか。
背負いや袖釣り込み腰といった担ぎ技が世界中からマークを受ける中、足技に磨きをかけただけでなく、精神的な強さを身に付けることができたのも丸山城志郎の存在があったからに違いない。
それにしても、これほどの実力を持ちながら一度もオリンピックの檜舞台に立つことが叶わないとは…。
私は“美しい柔道”を追い続けた丸山城志郎という柔道家を決して忘れることはないだろう。
波乱
兄・一二三が偉業を果たした裏で、ショッキングな出来事に見舞われた。
妹・詩の敗退である。
しかも2回戦で敗れたため、敗者復活戦にも回れずにメダルなしとなる。
敗戦直後、嗚咽を漏らし号泣する姿はあまりにも痛々しい。
試合内容も良かっただけに、一瞬の間隙を突かれたような敗戦に目を疑った。
もちろん、東京大会に続く兄妹による連覇を目指した兄も同じだろう。
動揺もあったことだろう。
にもかかわらず、心技体を極めた阿部一二三は己の柔道を貫いた。
勝ち上がり
ディフェンディングチャンピオン阿部一二三は2回戦からの登場となる。
ハンガリーのポングラーツに合わせ技一本で危なげなく勝利する。
特に、“伝家の宝刀”袖釣り込み腰には目を見張らせられた。
続く準々決勝、若き実力者エモマリと対峙する。
受けの強さにも定評があるエモマリをどう攻略するか注目していたが、開始間もなく豪快な袖釣り込み腰で技ありを奪う。
そして、2度の出血による中断を経た直後、大内刈りで相手をねじ伏せた。
こうして、阿部一二三は準決勝に進出した。
事実上の決勝戦
阿部の対戦相手で最も手強かったのが、世界ランキング1位のデニス・ビエルである。
正統派の柔道を継承するモルドバ代表の彼は、静かな佇まいが印象的な私好みの選手だった。
そのビエルとの戦いに臨んだ準決勝こそ、事実上の決勝戦といえるだろう。
とはいえ、阿部の柔道はこれまでと全く変わらない。
組手争いを制し素早く左の引手を引き、相手をコントロールする。
ビエルが左の引手を警戒し腕を後ろにやると、今度は襟を掴んで技を掛けてゆく。
そして、両袖を引いた瞬間、強烈な袖釣り込み腰を放つ。
そこは本階級屈指の実力者ビエルだけに、ギリギリのところでポイントを回避する。
だが、阿部のラッシュは止まらない。
一本背負いで前を意識させると、一転して大外刈りで後ろを脅かす。
攻撃の手を緩めない阿部に対し、防戦一方のビエル。
残り2分を切ったところで、ビエルに2回目の指導が宣告された。
後がないビエルだが、ここから巻き返すのだから大したものである。
これまでと戦法を変え、右の奥襟を狙いながら足技を絡めていく。
ビエルはなおも右奥襟を引き付け電光石火の小外刈りを繰り出すと、阿部は必死に腹ばいで逃げる。
この瞬間はヒヤリとさせられた。
指導2回で追い詰められたはずのビエルだが、引き出しの多さはさすがである。
両雄による白熱の攻防は、ついにゴールデンスコアに突入する。
徐々にビエルに流れが傾きかけたムードの中、それはゴールデンスコアに入った刹那に起きた。
阿部は左の引手を掴んだ瞬間、袖釣り込み腰でビエルを崩し、そこから大外刈りが炸裂する。
あのビエルが成す術なく、技ありを奪われた。
あまりにも鮮やかで切れ味抜群の阿部の連絡技。
“匠の技“にお見事としか言葉が見当たらない。
敗北の痛みを呑み込み、阿部だけでなく観客席にも一礼するデニス・ビエル。
実力だけでなく、礼節においても超一流であることが窺える。
静かなる佇まいの中に秘めた意思の強さを感じさせる柔道家であった。
まとめ
男子66㎏級決勝。
素早い動きで翻弄し先手先手で攻めるリマ相手にも、阿部一二三は全く動じない。
最後は、再三再四にわたり見せてきた“袖釣り込み腰”で試合を決める。
ここに阿部一二三のオリンピック連覇の偉業が達成された。
妹の早期敗退という予期せぬアクシデントが起こる中、再びオリンピックの頂点に立った阿部一二三。
そんな真の柔道家はかく語る。
「誰が見ても凄いと思える柔道をしたい。そして、見ている人を魅了する柔道を届けたい」
まさしく、この言葉を体現した完璧な柔道だった。
このことを証明するように、“日本柔道の体現者”大野将平は阿部の柔道を評しこう言った。
「持ち味の攻めの強さだけでなく、組手、受けの安定性、どれをとっても隙の無い柔道家になってきた」
精悍な表情に名刀の如き切れ味の技を携えて、心技体を極めた阿部一二三。
彼は間違いなく、歴史に名を残す柔道家に成長した。