東京オリンピック名勝負⑧ 柔道女子 ~遅咲きのヒロインたち~





柔道男子100㎏級では、日本代表のウルフ・アロンが韓国のチョ・グハムとの9分にも及ぶ激戦を制した。
豊富な稽古量に裏打ちされたスタミナは、最後まで切れることがなかった。
両膝の大怪我を克服し、自分の柔道を構築し直したウルフ・アロンは、最後まで守ることなく攻め続けた。

地元東京での金メダルは、感慨もひとしおに違いない。
本階級での金メダル獲得は、2000年シドニー五輪の井上康生以来である。

柔道女子では70㎏級で新井千鶴が、78㎏級で濱田尚里が、それぞれ金メダルに輝いた。
27歳の新井千鶴、30歳の濱田尚里はいずれもオリンピック初出場での栄冠であった。

彼女たちの戦いに迫っていく。

女子70㎏級

準決勝の死闘

新井千鶴は、埼玉県出身で1993年11月1日に生まれる。
リオ五輪では惜しくも代表選出を逃してしまう。
長い足を生かした足技を得意としており、今大会でも大きな武器となる。

初戦・2戦目とも一本勝ちした新井にとって、最大の山場は準決勝のタイマゾワ戦であった。

新井は試合を優勢に進める。
立ち技だけでなく、寝技でも終始攻め続け、何度も後一歩のところまで追いつめた。
だが、そのたびに、しぶとくタイマゾワは逃れていく。

延長戦に入り、時を刻んでも、延々と続けられる戦い。
新井が得意の足技を飛ばしていくが、紙一重で腹ばいで躱すタイマゾワ。
タイマゾワは2回戦でも15分近く戦っており、おまけに目まで怪我を負い、痛々しいほど大きく腫れている。
まさに満身創痍とはこのことである。

そして、新井はついに寝技から相手の腕を取り、関節技に入るがここでも極めきれない。
タイマゾワの体の柔軟性は驚異的である。

新井も肩で息をしているが、タイマゾワの状態は疲労困憊という言葉が温く聞こえるほどだ。
なぜ、戦い続けられるのだろうか…。
私の理解の範疇など、とうに超えている。

永遠に続くかと思われた戦いに、ついに決着の時がきた。
タイマゾワの攻めを躱し、うつ伏せに倒すと、新井は道着を掴んで首を締め上げる。
タイマゾワの顔を覗き込む主審が一本を宣告した。

16分41秒にわたるゴールデンスコアの末、新井千鶴が送り襟締めでようやく勝利を収めた。
締め落とされて失神するタイマゾワの姿が、壮絶な死闘を物語っていた。

決勝戦

いよいよ、金メダルをかけた決勝戦である。
この試合のポイントとなるのは、新井の体力がどの程度回復しているかだろう。
インターバルがあったとはいえ、16分41秒も戦い抜いたのだ。

だが、柔道場に上がる新井の目には光が宿っていた。

対戦相手のオーストリア代表ポレレスと礼を交わすと、声を出しながら気合一閃、前に出る。
ポレレスは、両手でしっかりと道着を持って戦う正統派の柔道をする。
なので、新井も存分に自分の柔道ができそうだ。

序盤から、新井は左で襟を掴み、有利な組手で試合を運んでいる。
開始51秒、新井は得意の小外刈りで技ありを奪った。

ポイントをリードされ、前に出てくるポレレス。
新井も逃げずに、真っ向から組み合う。
ポイントを奪うと、守りに入る選手が目立つ中、素晴らしい柔道を続けている。

なおも、新井は組手争いで優位に立ち、果敢に技をしかけていく。
決勝戦らしく、お互い組み合って力を出し合う試合内容は、見ていて気持ちが良い。
残り1分になっても、新井は体が動いている。
これならば、体力は問題なさそうだ。

時間が少なくなり、作戦を変えたポレレスが、背中を掴んで接近戦を試みる。
巧みに後ろを取られ、危険な時間が訪れた。
だが、必死に踏ん張り、何とか耐えきる新井。

最後のピンチを凌いだ新井は、そのまま逃げ切った。
試合終了の瞬間、新井千鶴に涙はなく、そこにあったのは爽やかな笑顔だった。
その笑顔は金メダル以上に輝いた。

さすがの新井千鶴もコーチと抱き合った途端、双眸を濡らさずにはいられなかった。

それにしても、リードを奪ってからも守りに入ることなく、攻めの柔道に徹した姿勢が素晴らしい。

自身で課題を見つけては、コツコツと真面目に取り組み、克服していった新井千鶴。
そして、どんな時にも「千鶴は強い!」と言葉をかけてくれた家族の存在があればこそ、くじけずに頑張れたという。
不断の努力を重ねて勝ち取った金メダルは、一段と輝くに違いない。

女子78㎏級

濱田尚里は、鹿児島県霧島市出身で1990年9月25日に生まれる。
尚里は「しょうり」と読み、勝負師としては何ともゲンのいい名前だ。
実は、濱田は自衛隊に入隊し、サンボの世界選手権でも優勝するなど異色の経歴をもつ柔道家なのである。
サンボの世界王者になったように、彼女の得意技はもちろん寝技である。

初戦、準々決勝のいずれも、得意の寝技を武器に快勝する。

準決勝では、今年の世界選手権女王ワグナーと対戦した。
開始早々、ワグナーは奥襟を持って強烈な大内刈りで濱田を浴びせ倒す。
際どく、腹ばいになって逃れる濱田。
挨拶代わりといわんばかりの先制パンチである。

今度は、濱田が大内刈りでワグナーを腹ばいにさせる。
足技でも世界チャンピオンに負けていない。

すると、効果的な足技で倒したワグナーに、電光石火の腕ひしぎ十字固めで一本勝ちを収めてしまった…。
あっという間に、世界女王を屠った関節技の切れ味は戦慄すら走る。
さすが、サンボの世界チャンピオンだ。
だが、躍進の陰には寝技をさらに活かすため、立ち技を磨いてきたことが挙げられる。

決勝の相手は、ここまで2勝4敗と分が悪いフランスのマロンガである。
彼女も黒人選手特有の高い身体能力を武器にした、力強い柔道を展開する。
濱田にとっては実に手強い相手だ。

世界を震撼させる寝業師の名に恥じぬ、キリリと引き締まった濱田の表情。
一方のマロンガも気合十分である。

開始直後、マロンガは十分に組むと、強引に技をしかけていく。
濱田は反応してマロンガを押し潰し、寝技で反撃を試みた。
しつこくしつこく腕の関節を狙いながら、徐々に相手の上半身を極めていく。
必死に足を絡めて、堪えるマロンガ。
だが、動きを止めずに足を抜きにかかる濱田。
ついに、マロンガの足がほどけ、濱田はガッチリと抑え込んだ。

10秒が経ち、まずは技ありが決まる。
マロンガは、完璧に極められ動けない。
そして、20秒が経ち、濱田尚里の勝利が確定した。

実に4試合の合計時間はわずか7分40秒あまりという、圧倒的な強さで頂点に駆け上がった。

勝利の後も、表情を全く崩さない濱田尚里。
阿部一二三とも、大野将平とも異なるポーカーフェイスぶり。

苦楽を共にした塚田真希コーチと固く抱き合うと、ようやく笑顔が弾けた。

まとめ

場内の関係者に飛びっきりの笑顔で手を振りながら、インタビューへと向かう濱田尚里。
「絶対に金メダルを獲りたいという気持ちでやってきたので、優勝できてよかったです」
日頃から、口数が少ない濱田らしく控えめに答える。

すると、みるみるうちに表情が崩れ、涙があふれ出す。
柔道着で目を拭いながら、質問の一つひとつに答える姿に、濱田の誠実さが画面越しに伝わってくる。

メダル授与のセレモニーが始まると、戦いを終えた選手たちの顔には、全てを出し切った清々しさが湛えられていた。
表彰式の最後に、一番高い台の上でメダリストたちが並んだ。
他の選手に比べて頭一つ低い濱田尚里に、改めて体格の差を痛感する。
しかし、その小柄な体から繰り出される寝技には、世界の強豪も為すすべがない。

27歳の新井千鶴と30歳の濱田尚里。
ともに、初出場のオリンピックで金メダリストとなった彼女たちは、まさしく遅咲きのヒロインだった。 

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