プロ野球 昭和のライバル達①「榎本喜八vs稲尾和久」





プロ野球の歴史。
それは言い換えれば、ライバル達の物語ともいえるだろう。
王と江夏、長嶋と村山、江川と掛布など、枚挙に暇がない。

そんな数多のライバル達にあって私が最も心惹かれるのが、昭和30年代のパリーグで互いに高みを目指さんと切磋琢磨したライバル。
“打撃の神髄”榎本喜八と“鉄腕”稲尾和久の物語である。

エピソードとともに、名勝負を振り返る。

榎本喜八

榎本喜八は現役時代、首位打者2回、24歳9ヶ月での史上最年少1000本安打記録を持つ、孤高のバットマンである。

プロ野球史上唯一、神の領域に到達したともいわれており、同時代に対戦した投手やファンからは最強バッターとして畏怖されていた。
真芯で捉えた打球は、火を噴くような弾丸ライナーでグラウンドを強襲する。

そんな榎本を評し、レジェンドたちはかく語る。

“打撃の神様”川上哲治。
「神様という言葉は、榎本こそふさわしい」

“プロ野球史上初の3000本安打”張本勲。
「私は7度首位打者を獲得したが、一騎打ちでタイトル争いに敗れたのは榎本さんだけ。この人には勝てないと思った唯一のバッターだった」

“世界のホームラン王”王貞治を育てた荒川博。
「芸とは、人を楽しませるためのものである。まず、技があって、その上に術がある。だから技術というのだ。芸はその上の存在であり、金田正一、王貞治、長島茂雄等のスーパースターは芸を極めた者たちであろう。だが、それで終わりではない。芸の上には、道を極めることがあるのだ。日本のプロ野球史上、その道を極めることに挑んだのは榎本喜八ただ一人である。私の弟子でいえば、残した記録では王だが、バッティングの実力では榎本喜八の方が上だった」

そして、野村克也をして驚愕させたのが類稀なる選球眼である。
榎本と対戦した時のエピソードを野村は語った。

「際どいコースを審判が、ストライクに取ってくれた。すると、見送った榎本が指を3㎝ほど広げ、“これぐらい外れている”と呟くではないか。実は、ボールを受けた私も、同じぐらい外れていると思っていた。それほどまでに、正確に見ているのかと驚いた」

剣豪の如き佇まいで打撃の神髄を極めた求道者。
それが、榎本喜八といえるだろう。


打撃の神髄 榎本喜八伝

稲尾和久

野武士集団といわれた西鉄ライオンズが“球界の盟主”巨人との日本シリーズで、3連敗から4連勝した球史に残る大逆転劇の立役者が稲尾である。
第4戦以降は全試合に登板し、巨人打線を抑え込む。
その八面六臂の大活躍から“神様・仏様・稲尾様”と呼ばれたのは、あまりにも有名である。

稲尾は1年目に21勝をあげ新人王を獲得すると、翌年からはプロ野球史上唯一となる3年連続30勝をマークする。
1961年には史上最多に並ぶ42勝をあげるなど、まさに“鉄腕”の名に恥じぬ球界を代表するエースであった。

打者の手元で伸びるストレートに加え、“一瞬キラッと光って滑るように曲がって消える”と言われたスライダー、右打者の胸元を抉るシュートなどを投げ分けた。
さらに、針の穴を通すと言われた抜群のコントロールまで誇っていた。
稲尾の切れ味鋭い球がストライクゾーンギリギリに決まるのだから、バッターからすると手も足も出ない。

そのうち、バッターから稲尾のスライダーは本当にストライクなのか?という疑問の声が聞こえてくる。
抜群のコントロールに定評がある稲尾は審判から絶対的な信頼を寄せられているため、際どい球は全部ストライクになると囁かれていた。

この噂を検証するため、審判たちが西鉄ライオンズのキャンプ地に赴き、本当にストライクなのか確かめた。
ホームベース上の四隅にゴムひもを垂らし、稲尾にスライダーを投げてもらう。
すると、“鉄腕”から繰り出されるスライダーは、ことごとくゴムひもを弾いていくではないか。
恐ろしいまでのコントロールであった。

では、なぜ稲尾はこれほどまでのコントロールの精度を誇っていたのだろうか。
稲尾は語る。

「右肩の上方に、ボウリングのスパットのようなものが浮かんでいるのが見えた。そこを目印に投げると、ストライクゾーンギリギリに投げることができた」

また、稲尾の瞠目すべき点は、それにとどまらない。
マナーも本当に素晴らしかったのである。

スリーアウトを取ると、必ずピッチングマウンドを自分のスパイクで綺麗にならし、相手ピッチャーが投げやすいようにしてからベンチに帰って行く。
ライバルである南海の杉浦もそのことに気づき、稲尾のマナーを見習おうと心がけるが、点を取られたりピンチを迎えたりした後は平常心を失い、どうしても失念してしまう。
しかし、稲尾は打ち込まれた時でも、その習慣を欠かすことなく続けていた。

たとえ倒すべき相手でも、同じ投手として最大限の敬意を払い、フェアに戦いたいという高い志の表れであろう。

そして、稲尾のフェアプレー精神を物語るのが、ライバル榎本喜八の証言である。

「打たれた後でも、稲尾だけはビーンボールまがいの球を1度も投げなかった」

まさに、稲尾和久こそ、投手としての品格を体現した真の野球人であった。

達人同士の果し合い

現代に生きる我々には、俄かに信じ難い境地に踏み入れた榎本と稲尾。
そんなふたりは、お互いを最大のライバルと認めていた。

稲尾は言う。
「榎本さんと対戦するときは、前夜から布団の中でシミュレーションをしてました」

当時の稲尾は、打者の心理状態が手に取るように分かった。
打者の心の動きが、ボールの見逃し方や打ちに行く体勢などに表れるというのだ。 

また、稲尾はストレート、スライダー、シュートといった全ての球種を同じ握りで投げていた。
それゆえ、投げる寸前に打者の狙いを察知し、咄嗟に球種やコースを変えるという離れ業を演じていたのだ。

ところが、驚異的な選球眼と集中力を誇る榎本は、バッターボックスで際どいボールを見送るときも、不動の構えで見切っていた。
これでは、さしもの稲尾も打者心理を見抜くことができない。
そして、選球眼に優れた榎本はボール球に手を出さないので、ストライクゾーンで勝負するほかなく痛打を浴びていた。

稲尾は述懐する。

「対戦した打者の中で、最も雰囲気があったのが榎本さんだった。バッターボックスに立つ姿は全くスキがなく、ボールを見逃す時も首をわずかに動かす程度なんで、打者心理を読もうとしても全く分からない。スライダーやシュートだけでは完璧に打ち返されてしまった」

“鉄腕”稲尾をもってしても、一分の隙もない“達人”榎本喜八には成す術がなかったのである。

稲尾は榎本対策として、フォークボールに活路を見出した。

「ひとりの打者のために、新しく球種を覚えたのは榎本さんだけです。フォークボールは肘への負担が大きいので、榎本さんだけに1試合5球限定で投げていた」

また、稲尾によると、打者のタイプは2種類に分けられるという。

「こちらが目を見て睨むと見返してくる気の強いタイプと、目線を逸らす気の弱いタイプ。榎本さんは目線を逸らさずこちらを見ているのだが、額のあたりを見ているようで視線が合わない。何とも、やりにくかった」

一方、榎本は「マウンド上の稲尾が近く見えるときは打てない。なので、まずは稲尾の足元を見るようにし、徐々に視線を上げていき、最後に額を見ていた。そうすることにより、稲尾を遠くに見えるようにしていた」

そして、榎本は稲尾の凄味をかく語る。

「稲尾の稲妻のようなキレ味のスライダーは、目で追っていては間に合わない。なので、肌で感じるようにしていた」

両者の逸話を聞くにつけ、もはや、野球というスポーツの域を超えているように感じる。
まさに剣豪、それも当代きっての達人同士の斬り結びとしか思えない。

互いの秘術を尽くしたせめぎ合い。
この達人同士の果し合いを目撃できた観客は、何と至福の時間を味わったことであろうか。

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