「打撃の達人」榎本喜八 ~神の領域に踏み入れし求道者~




プロ野球開闢以来、数多の打撃職人たちが誕生した。
古くは王、長嶋、野村、少し前では落合、イチローなどが挙げられるだろう。

だが、“打撃の神様”川上哲治をして「神様という言葉は、彼にこそふさわしい」と言わしめた男がいた。

打撃の神髄を極め、プロ野球史上唯一、神の領域に到達したといわれる孤高のバットマンの物語を紹介する。


打撃の神髄 榎本喜八伝 (講談社+α文庫)

榎本喜八とは

榎本喜八は1936年12月5日、東京で生まれた。

当時の国民はみな貧しかったが、榎本家は特に貧しかった。
家の藁葺屋根は穴が空いていたため、雨が降れば家は水浸しになり、雪が降ると部屋一面が銀世界と化す。
そんな日々に涙を流す祖母を見て、榎本少年は心に誓う。
「何としてもプロ野球選手になって、おばあちゃんに楽をさせたい」

この夢を叶え、榎本は毎日オリオンズに入団すると、高卒ルーキーながら開幕戦で5番打者に抜擢されるなど、シーズンを通して活躍し見事新人王に輝いた。

その後も、榎本は首位打者に輝くと、翌年には史上最年少の24歳9ヶ月で1000本安打を達成した。
ちなみに、この記録はイチローを8ヶ月も上回る不滅の大記録である。

開眼

実は、榎本は非常に不器用な一面を持っていた。
昔から人一倍、肩に力が入ってしまうのだ。

そんな榎本に転機が訪れたのは、初の首位打者をとる前年のことだった。
ある日、先輩の荒川博に誘われ、合気道の開祖・植草盛平の道場に顔を出す。
あいにく植草は留守だったが、代わりに弟子の藤平光一が出迎える。
この藤平との出会いこそ、榎本が打撃を開眼する契機となった。

藤平は榎本に言う。
「臍下丹田を意識して、そこに意識を鎮めなさい」

この教えを常日頃から意識し、実践していくうちに体から無駄な力が抜け、リラックスした状態で打席に立てるようになった。

やがて、榎本は不思議な感覚に襲われる。
バットを構えると、見ていないのに先端からグリップエンドまでの全体像をはっきりと感じ取ることができたのだ。
それは、まるで自分の手足のような感覚だった。
そして、バットの全体像を感じながらスイングすると、その軌道が手に取るように分かる。
軌道が分かるとバットを振っているという感覚が喪失し、バット自らが自重で振られていく。

また、ボールを打った瞬間の衝撃も、以前とは明らかに違っていた。
それまでは、バットがボールを捉えた瞬間に、榎本の両手に衝撃が走った。
しかし、今はバットがボールを捉えると、まずはバットに「ググッ」という衝撃が伝わり、次に「ジーン」と手に響く。
つまり、コンマ数秒にも満たない刹那の感触を、時間差で一つずつ感じることができるのだ。

こうして、榎本喜八は新たな境地に到達し、神の領域への一歩を踏み出した。

最強打者

張本勲は通算3085本のヒットを打ち、首位打者も7度獲得した昭和を代表する安打製造機である。
その張本が榎本こそ、理想のバッティングフォームの持ち主だと舌を巻く。

「野球は動くボールを打つのだから、バッターは動かないのが理想である。しかし、それではボールの速さに負けてしまうため、反動をつけて打とうとする。だが、榎本さんだけは違う。バックステップもテイクバックもしないのだ」

榎本のバッティングフォームはどっしりした構えの中に、何があっても動じない“重厚さ”が存在した。
だが、いざバットを振ると、そのフォームは柔らかく美しかった。
一見、対極にある理を見事に融合させたバッティングフォームこそ、“孤高のバットマン”榎本喜八の真骨頂であろう。

また、現役時代を見たファンだけでなく、実際に対戦した多くの投手が、最強の打者に榎本喜八を挙げている。
記録には表れない、打撃を極めた凄みがあったのだろう。
この辺は、“孤高の天才”前田智徳と同じ匂いがする。

神の領域へ

「臍下丹田に意識を鎮め、そこを中心に五体を結ぶ」
1963年のシーズン、ついに榎本は弛まぬ努力の末、打撃の深奥へと続く感覚を手に入れる。

榎本は語る。
「臍下丹田に自分のバッティングフォームが映り、完全に自分の動きを把握できた。たらいに張った水に、月が綺麗に映る感じだった」

それは、7月7日のことだった。
相手投手は、歴代2位の通算350勝をあげた阪急ブレーブスの米田哲也である。

自分の動きが普段よりもゆっくりだと感じていた榎本は、大きく息を吐き、次に息を吸い込むと臍下に納まっていった。
精神的にも余裕があるように感じる。
バットのグリップを柔らかく握り、米田の投球モーションを見ている。
すると、指先から離れるボールが鮮明に見え、球筋だけでなくその縫い目までもはっきりと分かった。
脱力した状態から右足を踏み込み、律動を伴いながら体を鋭く回転させると、バットが自らの重みでスッと落ちるように動き出す。
バットの芯でボールを捉えると、臍下丹田に心地良い衝撃が伝わっていく。
気がつくと、打球はスタンドに突き刺さっていた。

もう一つ、榎本には劇的な変化が起きていた。
「それまでは、いくら自然体でバッターボックスに入っても、一番大切なのはタイミングだと思っていた。しかし、その状態になると、投手とのタイミング自体が消えていた。向かってくるボールが全てクリアに見えるので、ゆっくりとボールを待ち余裕を持って打てば良いのだから、そもそもタイミングが存在しない」

かつて、“打撃の神様”川上哲治は「ボールが止まって見える」という名言を残した。
榎本喜八も全てがスローモーションに見え、バッティングから間が消え去ったのである。

合気道の創始者・植芝盛平は「間なんて言ってるうちはヘボだよ」と語っていたが、その領域に踏み込んだということか。

神の領域からの滑落

8月1日の東映戦、榎本はファーストゴロを捕球し、ベースを踏みにいった際に捻挫する。

7試合ほど欠場した後、久しぶりにバッターボックスに立つ。
その瞬間、榎本喜八は愕然とした。

あの感覚が消え失せてしまったのだ!
それこそ、悪夢を見ているような気持ちだったに違いない。

どうしても戻らぬ、あの感覚。
理想と現実の狭間に立たされ、徐々に榎本の心は蝕まれていく。

そんな中にあって、“打撃の達人”榎本喜八は1966年に再び首位打者を獲得する。
だが、一心不乱に練習に明け暮れた榎本の体は、すでに満身創痍であった。

それ以降、思うような結果が残せない榎本は、ますます焦燥感に苛まれる。

「ヒットを打っても、神の領域に達していた頃とは違う。理想を追い求め、現実に満足することができず、絶えず反省を繰り返していた。体力も衰え、バッティングフォームも崩れてしまう。そのうちに、バッターボックスに立つと脂汗を流すようになり、審判の『ストライク!バッターアウト!』の声に震えだすようになった…」

それでもバットを振り続けるが、歯痒い現実の前に気が付くと涙をこぼす日々。

こうして、榎本は二度と絶頂期の感覚が戻らぬまま、ユニフォームを脱いだ。

引退後

ある日、榎本は、かつての毎日オリオンズ本拠地・東京球場のグラウンドを歩いていた。
全身全霊をかけ、白熱の攻防を繰り広げた思い出の地の取り壊しが決まり、目に焼き付けるためである。

雑草が伸びたダイヤモンドを噛みしめるように歩く榎本。
やはり、その風景はどこか懐かしかった。

最後にセンターバックスクリーンの前まで来ると、ホームベースに目を向ける。
夏草が陽射しに照らされ、一瞬キラッと輝いたように見えた。

すると、終生のライバル稲尾和久との過ぎ去りし、秘術を尽くした攻防が脳裏をよぎった。
稲尾とは、単なる打者と投手の戦いではない。
いわば、抜き身を構えた、達人同士の果たし合いであった。
そして、稲尾の稲妻のようなキレ味のスライダーは目で追わず、肌で感じなければ打ち返せない…。

夏草の一瞬の輝きが“滑るように曲がり一瞬キラッと光って消える”スライダーの残像を、榎本喜八の遠い記憶から呼び起こす。

そして、目から涙があふれ出した。

榎本は、そのときの心情を述懐する。
「あのとき、夏草を見ながら“兵どもが夢の跡”だなって、しみじみと思ったんですよ」

年輪を重ねた顔には、穏やかな微笑みが湛えられていた。

まとめ

後年、捕手として鎬を削った野村克也は語る。

「キャッチャーとしてプロで27年間やらせてもらったが、榎本だけは攻略法が見つからなかった。あれほど恐ろしい打者には、後にも先にもお目にかかったことはない。驚異的な集中力とバットコントロール…無の境地とは、まさにああいうことを言うんだろう」

また、榎本の打撃の師匠であり、“世界のホームラン王”王貞治に一本足打法を伝授した荒川博はかく語る。

「芸とは人を楽しませるためのものである。まず技があって、その上に術がある。だから技術というのだ。芸はその上に存在し、金田正一、王貞治、長島茂雄等のスーパースターは芸を極めた者たちであろう。だが、それで終わりではない。芸の上には道を極めることがあるのだ。日本のプロ野球史上、それに挑んだのは榎本喜八ただ一人である。私の弟子でいえば、残した記録では王だが、バッティングの実力では榎本喜八の方が上だった」

打撃の頂を追い求め、ほんのひと時とはいえ神の領域に到達した榎本喜八。

今もなお、その究極の打撃を再現できた者はいない。

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