プロ野球 昭和のライバル達②“忠義の人”杉浦忠vs榎本喜八、稲尾和久





前回、榎本喜八vs稲尾和久のライバル対決をお伝えした。

今回は彼らと同時代を生き、そして同じパリーグで鎬を削ったライバルを紹介する。
その選手とは“史上最強のアンダースロー”杉浦忠である。

杉浦忠とは

杉浦忠は1935年9月17日に愛知県で生まれた、南海ホークスの投手である。
高校時代はオーバースローだったが、立教大学に進学した後、アンダースローへとモデルチェンジした。
肘を怪我したことに加え、投球動作の時、かけていた眼鏡がずれてしまいコントロールが定まらなかったためである。

このことが飛躍のきっかけとなる。
オーバースローでもスピードに乗ったボールを投げていた杉浦だが、アンダースローにフォームを変えても速球は唸りをあげた。
むしろ、下手から地を這うように繰り出される自慢の快速球は浮き上がるように伸びて来たため、さらに凄みを増す。

そのダイナミックで美しいフォームは流れるように上体が沈み込み、氷上を滑るが如くスムーズに水平移動すると、次の瞬間、鞭のようにしなった右腕からボールが放たれる。
アンダースローは下半身への負担が非常に大きいが、体全体の筋肉が非常に柔らかく強靭な下半身を誇った杉浦だからこそ、“魅惑のサブマリン”へと変貌を遂げることができたのである。


僕の愛した野球

忠義の人

南海黄金時代のエース・杉浦は実力だけでなく、名前の“忠”を体現するように義理堅い“忠義”の人でもあった。

1.入団のエピソード

当時、プロ野球は現在と異なりドラフト制度がなかった。
そのため、球団と選手の合意により入団が決まった。

南海ホークスの主力選手でテレビ出演時の「喝!」でお馴染みだった大沢啓二は、立教大学出身であり杉浦の先輩にあたる。
そうした縁もあり、立教大学の後輩・杉浦忠と長嶋茂雄は南海ホークスに入団する予定だった。

ところが、突然、長嶋は翻意し巨人に入団する意向を示す。
それに慌てたのが、南海の鶴岡一人監督だ。

「杉浦は…大丈夫なのか」

監督の命を受けた大沢は血相を変えながら、大急ぎで杉浦の下に足を運ぶ。
大沢とは対照的に、杉浦は笑みを浮かべながら静かに答えた。

「そんなにご心配ですか。僕が最初の約束を破る人間に見えますか」

その男の約束を守った杉浦は、翌年、開幕戦に先発し勝利投手となる。
実は、杉浦にも巨人から入団のオファーが届いていた。
しかし、義理堅い杉浦は丁重に断っていたのである。

2.“親分” 鶴岡一人との絆

1959年、パリーグを制覇した南海は日本シリーズで宿敵巨人を迎え撃つ。

当時の南海監督で“親分”こと鶴岡一人は監督就任以来、これまで4度巨人と日本一の座を争ってきたが、いずれも苦杯を舐めていた。
大エース杉浦を擁する今年こそ、なんとしても悲願達成を成就すべく、過去のどのシリーズよりも期するものがあった。

その“親分”の期待に応え、杉浦は初戦から4連投し4連勝を飾る。
実は、杉浦は快投の裏で、シリーズ開幕戦から指に血豆が出来るアクシデントに見舞われていた。

シリーズ第3戦の終盤、力投を続ける杉浦忠。
すると、キャッチャーの野村がボールを持ったままマウンドに歩いてきた。

「ちょっと、指を見せてみろ…」

そう言うと、野村は手に持ったボールを杉浦に見せる。
そこには、血に染まり、黒ずんだシミが滲んでいた。
心配する野村をよそに、杉浦はその後も1人で投げ抜き、接戦をものにする。

だが、この第3戦は日本シリーズの流れを大きく左右する試合だった。
2-1と1点リードする南海は、9回裏を守り切れば3連勝が決まる。
ところが、同点ホームランを打たれ、なおも1死2・3塁と絶体絶命のピンチに陥った。
このとき、杉浦の右手中指は血豆が完全に破れ皮が捲りあがっており、とても投げられる状態ではなかった。

さすがの杉浦も弱気になるが、マウンドに来た伝令が何やら渡す。
それは、鶴岡監督が大切にしていた厳島神社のお守りであった。
監督の「スギ、この試合、お前に託したぞ!」という気持ちが胸に沁みた。
奮い立つ杉浦がこのピンチを何とか凌ぐと、南海は延長10回の末、貴重な勝利をあげる。

第4戦も杉浦が完封勝利を収め、悲願の日本一を達成する。

シリーズ4試合で、南海投手陣が投げた37イニングのうち実に32イニングを杉浦ひとりで投げ抜き、その球数は436球にも上った。

3.滅私奉公

快刀乱麻のピッチングで杉浦は、4年目のシーズン早々に通算100勝を達成する。
この3年1か月での100勝到達という記録は史上最速であり、おそらく今後も破られることはないだろう。

大車輪の活躍を見せた杉浦だが、1度も年棒は1000万円に達していない。
いくら昭和30年代とはいえ、彼自身の契約金が1200万円だったことを考えれば安すぎる。
これは、杉浦が球団の提示額に対して、一切異議を唱えなかったからである。

あるとき、妻が「これだけ投げているのだから、もう少し上げてもらっても…」と言うと、「親会社の南海電車が、いくらの運賃をお客様から頂いていると思っているんだ!」と厳しく窘めた。

そんな杉浦は、4年目のシーズン後半に動脈閉塞による血行障害のため、右腕に血が通わなくなってしまう。
あわや、右腕切断かというほどの重症であった。

杉浦がそこまで投げ続けたのはチームのため、そして恩師と慕う鶴岡一人のためだった。

杉浦は述懐する。

「南海は選手のまとまりにおいて史上最高のチームだった。鶴岡一人監督という素晴らしい師にも巡り会うことができ、僕の全てであった」

杉浦と鶴岡の関係は、決してベタベタしたものではなかった。
だが、目には見えない強い絆が二人の間に存在していたのだと、チームメイト達は声を揃える。



鎬を削ったライバル達

1.杉浦忠vs榎本喜八

1958年のルーキーイヤー、杉浦忠は27勝12敗の成績で新人王に輝いた。
翌1959年は38勝4敗(防御率1.40)という今では信じられない成績を残し、リーグ優勝と日本シリーズ制覇に大きく貢献する。
3年目も31勝をあげるなど、4年目のシーズンに登板過多による血行障害を患うまでは、まさに向かうところ敵なしの様相を示していた。

杉浦の持ち球は前述した快速球だけでなく、大きく曲がるカーブ、左バッターのアウトコースにシュート回転しながら沈むボールなど、どれもが決め球となった。
杉浦のカーブについては逸話が残されている。
あるとき、バッターが外角から曲がってきたカーブを打ちに行くも、空振りに終わる。
すると、あまりの変化の大きさに、ボールがお腹に当たったというのだ。

この“史上最強のアンダースロー”杉浦忠の前に立ちはだかったのが、“打撃の神髄を極めし者”榎本喜八である。

杉浦の1年目は、25打数10安打の打率.400と打ちこまれる。
杉浦が最も充実していた2年目は32打数9安打、打率.281であった。
打率は3割未満に抑えており、数字的にはそれほど打たれていないようにも見える。

しかし、この年、杉浦を打ち込んだバッターは皆無であり、3割近い打率を残した榎本は唯一の脅威であった。
事実、この年の杉浦は4敗しかしていないのだが、そのうちの2敗は榎本が在籍するオリオンズ戦なのだ。

「オリオンズ戦は、榎本がいると思うだけで前日から嫌な気持ちになった」

この杉浦の言葉が、何よりも雄弁に物語っている。

何とも残念なのは、杉浦が4年目のシーズンで故障し、往年の投球が2度と戻らなかったことである。
杉浦の絶頂期は、榎本が打撃の頂へと歩み出した時代であり、心技体の全盛を極めた榎本との対戦が実現しなかったことが悔やまれる。


打撃の神髄 榎本喜八伝 (講談社+α文庫)

2.杉浦忠vs稲尾和久

1950年代後半~1960年代にかけて杉浦と共にパリーグを代表する投手として、西鉄ライオンズのエース・稲尾和久がいた。
杉浦と稲尾は直接対決において24勝24敗と全くの五分であり、拮抗した実力の程が窺える。

杉浦はルーキーイヤーの1958年に27勝をあげ新人王を獲得していたが、ほろ苦いプロ1年目となる。
なぜならば、一時は西鉄に11.5ゲームもの大差をつけていたにもかかわらず、土壇場でパリーグ優勝を攫われてしまったからである。

杉浦にとって悔いが残ったのは西鉄との直接対決、特に稲尾との投げ合いで後塵を拝したことである。
また、オールスター後の後半戦、やや失速した杉浦に対して酷使の世界記録と評された稲尾は先発した翌日もリリーフで登板しては抑えきり、西鉄を勢いづかせた。

新人の杉浦にとっては酷な話だが、ここ一番でのエースの差がペナントレースの行方を左右したのである。

その年のオフシーズンに日米野球があり、試合終了後、稲尾と杉浦は数名で連れ立って夜の街に繰り出した。
一行が数軒目の店に到着すると、突如、泥酔した杉浦が豹変する。

「おい、稲尾!よくも南海を抑えやがったな!来年こそ、仇を討ってやるから覚えとれ!」

あの温厚で球界随一の紳士と謳われた杉浦の剣幕に驚く稲尾達。
大逆転でパリーグ制覇を逃したことが、よほど悔しかったのだろう。
とはいえ、この時の杉浦の酩酊はあまりにも酷かった。

しかし、稲尾は逆に感心したという。

「ここにも強い本物のプロがいる」のだと。

そして、翌年。
昨年とは打って変わり、杉浦はほぼ全ての試合で稲尾に投げ勝った。
こうして、対西鉄戦7勝1敗という成績を収めた杉浦は、南海ホークス悲願の日本一の立役者となる。

互いの実力のみならず、人格も認め合った杉浦忠と稲尾和久。
パリーグを超えた球史に残る、素晴らしいライバル関係といえるだろう。


神様、仏様、稲尾様

まとめ

杉浦忠は、現役時代を振り返りこう言った。

「とにかく、投げることが出来れば満足だった。マウンドへ向かうことが楽しかった」

ライバル稲尾和久も同様の弁を残している。

往時の選手達は自分のことよりもチームのため、ひいては監督のために身を粉にしていた。
まだ美しい日本人の精神を継承していた時代であり、我々の胸を打つ。
だが一方で、登板過多により選手生命を縮めたことは残念でならない。

杉浦が現役引退をした年の瀬、鶴岡一人は突然自宅に現れた。

「どや…辛いか…辛いやろ」

そう杉浦に語りかけた鶴岡は、明らかに酔っていた。
そして、その顔は涙に暮れていたという。

きっと、“親分”鶴岡にとって杉浦は、監督として日本一の栄光を味わせてくれた孝行息子のような存在だったのだろう。
そして、チームの勝利のために杉浦を酷使し投手生命を縮めたことに対し、言葉では語り尽くせぬ思いが去来したのかもしれない。

杉浦忠、稲尾和久、榎本喜八。
昭和30年代のプロ野球界で火花を散らしたライバル達。
白球に魂を込めた“サムライ”達の物語を語り継ぐのが、我々プロ野球ファンの使命ではないだろうか。

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