名人位に長きにわたり君臨し、“棋界の太陽”といわれた中原誠の後継者といわれた天才棋士。
それは、十七世名人資格保持者の谷川浩司である。
光の速さを思わせる鋭い寄せで、好棋家を魅了する華麗な指し回し。
若くして老成した雰囲気、そして品格を感じさせる佇まい。
その棋風も相まって、谷川浩司こそ美学の棋士と呼ぶにふさわしい。
谷川浩司とは
谷川浩司は1962年4月6日に兵庫県で生まれる。
兄にアマ強豪の俊昭がおり、子ども時代から将棋のライバルであった。
後年の姿からは想像できないが、負けず嫌いの谷川少年は兄に苦杯を喫すると、悔しさのあまり駒を噛んだという。
プロデビューは14歳8か月と、当時としては“神武以来の天才”加藤一二三に続く2人目の中学生棋士となる。
1年目こそ昇級を逃したが、それ以降は順位戦で連続昇級を果たし、一気に名人まで駆け上がる。
その時、谷川浩司はまだ21歳2ヵ月であり、これは現在まで破られていない史上最年少記録である。
棋風
谷川の棋風といえば、「光速の寄せ」「前進流」の異名が示すように、鋭い攻め将棋といえる。
他の棋士ならば踏み込めない場面でも、果敢に攻撃の口火を切っていく。
そして、まだ難しいと思われた局面から、あっという間に相手玉を追い詰めてしまうのだ。
圧倒的な速度を誇る寄せは、いつしか「光速の寄せ」と呼ばれるようになる。
谷川は終盤にスピードの概念を持ち込み、ある意味、棋界に革命を起こした棋士といえるだろう。
覇権争い
1983年、加藤一二三を破って名人の座についた谷川は、翌年“だるま流”森安秀光の挑戦を受けた。
結果は4勝1敗で、名人初防衛を果たす。
この時期は約10年続いた中原時代が終わりを告げ、次世代の覇権の行方に注目が集まっていた。
そんな中、一度は無冠となるも、その後タイトルホルダーに復活した中原誠が、1985年に満を持して名人戦に挑んで来た。
結果、谷川は2勝4敗で敗北し、名人から陥落する。
最有力と目されていた谷川の棋界統一が遠のいた。
それ以降、旧世代の中原誠や米長邦雄らに加え、谷川と同年代の55年組も加わって群雄割拠の様相を呈していく。
谷川が突き抜けられなかった要因の一つに、55年組の中心メンバー・高橋道雄と南芳一をやや苦手にしたことが挙げられる。
堅実で腰が重い棋風の彼らは、谷川と互角以上に渡り合っていた。
しかし、谷川はやがて高橋と南をタイトル戦で下すようになる。
さらに、1988年には中原から名人を奪還すると、翌年には米長邦雄の挑戦を4勝0敗のストレートで退けた。
着々と、棋界統一の足固めを始めたように見えた。
だが、谷川にとって痛恨だったのが1990年の名人戦である。
中原が挑戦権を獲得し、三度、両雄が棋界最高峰の舞台で雌雄を決すこととなる。
20代後半の指し盛りの谷川名人と不惑を越えた中原誠。
年齢的にも有利な谷川がここで前時代の覇者を返り討ちにすれば、一気に棋界統一の流れが出来上がる。
ところが、結果は4勝2敗で、中原が史上初となる3度目の名人復位を成し遂げた。
谷川はこの年に三冠王、翌年には四冠王に輝くなど、間違いなく棋界の頂に最も近い存在であった。
全盛期を迎えていただけに、何とも惜しい敗戦だった。
羽生善治との戦い
谷川に続く史上3人目の中学生棋士として、脚光を浴びたのが羽生善治である。
デビューから勝ちまくっていた羽生は、昭和の終わりから平成の初めに開催された第38回NHK杯で、大山・加藤・谷川・中原の歴代名人経験者を総なめにして優勝する。
そして、19歳で竜王戦に登場するとフルセットの末、初代竜王・島朗に勝ち、初タイトルを獲得した。
その羽生が持つ竜王に翌1990年、谷川浩司が挑戦する。
結果は、谷川が4勝1敗でタイトルを奪取した。
若き天才を圧倒した内容から、やはり次の棋界の覇者は谷川かと思われた。
だが、羽生・谷川の両者が述懐していたように、このタイトル戦はその後に大きな影響を与える。
3連敗で迎えた羽生は第4局の大熱戦を制し、星を一つ返す。
次の第5局を谷川が勝利し羽生は失冠するのだが、ストレート負けでなく、1勝できたことが非常に大きかったという。
それ以降、両者のタイトル戦は1992年の竜王戦を皮切りに、ことごとく羽生に軍配が上がった。
最終局まで縺れることもあったが、どうしても谷川は勝負処で勝ちきれない。
いつしか、将棋界は羽生善治の時代を迎えていた。
そして、ついに1996年の王将戦で羽生は谷川を破り、前人未到の七冠全冠制覇を果たすのであった。
谷川浩司の思い出
1.震災を乗り越えて
話は前後するが、羽生が七冠制覇した前年の王将戦も、当時六冠王だった羽生が谷川王将に挑戦していた。
最初に戦った竜王戦での勝利以来、谷川は羽生にタイトル戦で負け続けていたこともあり、羽生の七冠達成が濃厚だと思われていた。
王将戦が開幕し、初戦を制した谷川は阪神淡路大震災に見舞われる。
幸い怪我はなかったが、被災したため神戸を脱出し、A級順位戦の対局に向かい勝利する。
震災から約1週間後、今度は王将戦第2局も制した谷川浩司。
このような状況の中、最終戦まで死闘を演じた末、谷川浩司が見事に防衛を果たし、羽生の全冠制覇を阻止したのだ。
車で神戸から対局に向かう途中、目を覆いたくなるような街の惨状に罪悪感を覚えたという。
何もできない自分のもどかしさと同時に、ある思いが谷川に芽生えた。
それは、将棋を指せる感謝と喜びだった。
谷川は語る。
「震災が無かったら勝てなかったかもしれない。将棋を指せることが嬉しかった」
命の重みと儚さを目の当たりした谷川にとって、これまで抱いていた羽生への苦手意識など些細なことだった。
そして、被災した人々の応援も谷川浩司の背中を後押しした。
これ以降、谷川浩司は神戸という街と共に在り続け、シンボル的存在となっていく。
世間のほとんどが羽生の七冠制覇に肩入れしていたが、ひねくれ者の私は谷川王将を応援していただけに、感動したことを昨日のように覚えている。
2.美しき佇まい
翌年度、保持する全てのタイトルを防衛し、再び王将戦の舞台に戻ってきた羽生善治六冠。
当時の羽生は、まさに神がかり的な強さだった。
なにしろ、7つのタイトル戦に登場しながら、中原が持つ年間最高勝率にあと一歩で並ぶところまでいったのだ。
一方、この年の谷川は精彩を欠いていた。
こうした勢いの差もあり、羽生は4連勝でタイトルを奪取し、七冠の偉業を達成する。
この大一番にもかかわらず、谷川の将棋はあまりにも不甲斐ない内容だった。
特に、決着がついた第4局は二日目午後の早い時間帯に、羽生が勝勢になってしまう。
だが、誰よりも悔しいのは谷川浩司自身なのである。
七冠達成の引き立て役として、勝ち目のない将棋を投了まで指さねばならない屈辱。
ここまで散々辛酸をなめさせられてきた羽生善治に、またしても敗者としての悲哀を味わわされるのだ。
その心中たるや察して余りある。
ところが、テレビに映る谷川浩司を観て、私は目を見張った。
谷川は一切上記のような負の感情を表に出さず、いつも通りの美しい対局姿勢に終始する。
まるで死を覚悟した高僧が、ただ静かにその時を待っているかのような佇まい。
大盤解説に詰め掛けた中高年のファンの中には、その谷川浩司の姿に涙する者もいたという。
かくいう私も、敗色濃厚にもかかわらず、“美しき棋士”であり続ける谷川浩司に深い感銘を受けた。
人は苦しいとき、辛いときにこそ、魂の美醜が表れる。
羽生善治の七冠制覇よりも、私には“美しき敗者”谷川浩司が印象に残る王将戦だった。
3.復活
王将戦で敗北し、無冠となった谷川は、その後もなかなか調子が上がらずにいた。
そのまま夏を迎え、子どもたちと多面指しを行う機会が訪れる。
約20人もの子どもたちと対局するうち、谷川は気付く。
将棋を心から楽しむ、彼らの生き生きとした表情に。
そして、谷川は大切なことを思い出す。
本来、将棋は楽しむものだということを。
それをきっかけに、谷川は11連勝を飾るなど復調し、竜王戦の挑戦者となった。
そして、宿敵・羽生善治から4勝1敗で竜王のビッグタイトルを奪冠する。
中でも、第2局で指した△7七桂馬は、「光速の寄せ」の真骨頂ともいえる会心の一手であった。
翌1997年、両者は名人戦で激突する。
結果、谷川は羽生を4勝2敗で倒し、中原誠に続く史上2人目となる3度目の名人復位となった。
と同時に、名人通算5期となり、十七世名人の資格を取得する。
こう見ると震災の時もだが、谷川浩司の復活や飛躍の陰には、ファンをはじめとする人々との縁を感じる。
その度に、将棋を指せる喜びを思い出し、「前進流」の名のとおり駒たちが躍動しながら前に進む。
この年、竜王も防衛した谷川は名人とあわせて2大タイトルを独占し、5度目となる最優秀棋士賞に輝いた。
将棋世界「将棋名人戦」~昭和・平成 時代を映す名勝負~ (将棋世界Special)
まとめ
21歳の谷川浩司は初の名人戴冠後、「1年間、名人位を預からせていただきます」とコメントを残した。
謙虚な言葉に人柄が垣間見える。
時代が進むにつれ、勝負本位の傾向が強まり、棋士の中に美しい棋譜を残す意識が薄らぎつつあるように感じる。
“昭和は遠くなりにけり”といったところであろうか。
そんな中、谷川浩司は美学の棋士としてあり続ける。
品格と光速の寄せを身に纏い、81マスの無限の宇宙に美意識を描いた谷川浩司。
今もなお、その美しき佇まいは好棋家の心を捉えて離さない。