2月8日、北京オリンピック大会5日目は、フィギュアスケート男子シングルのショートプログラムが行われた。
大会屈指の注目競技だけあって、どの選手も素晴らしい演技を見せる。
残るフリースケーティングを前に、首位ネイサン・チェン、2位に鍵山優真、3位宇野昌磨という結果となる。
羽生結弦はアクシデントもあり、8位と出遅れた。
Number(ナンバー)1046号 完全保存版 北京五輪熱戦譜
男子ショートプログラム
氷上の熱き戦いを演じた男子ショートプログラム。
上位3選手と羽生結弦の戦いの模様を振り返る。
羽生結弦
オリンピックチャンピオン・羽生結弦にいきなりアクシデントが襲う。
4回転サルコウを跳ぶときに、リンクの穴に足を取られ1回転になってしまったのだ。
ショートプログラムにおいては、単独の1回転ジャンプは0点になる。
五輪3連覇を目指す羽生結弦、痛恨の無得点…。
だが、さすが羽生結弦である。
気落ちしてもおかしくないはずなのに、その影響を微塵にも感じさせない演技で挽回していく。
高得点のジャンプをはじめ、他のエレメンツでも高い技術を見せつける。
4回転ジャンプ1本分が無効になっても、得点を95.15点まで伸ばした。
だが、上位陣が得点を伸ばすハイレベルな戦いになったこともあり、8位でショートを終了した。
4位までは十分射程圏内であるが、3位宇野まで10点以上、首位ネイサン・チェンに至っては18点以上も遅れをとる苦しい展開となった。
羽生のハードラックに、私は三国志に登場する諸葛孔明の言葉を思い出す。
「事をするは人の業。事を成すは天の業」
意味するところは、“どんなに完璧な準備をし、それを完全な形で実行しても、最後に成否を決めるのは人間を超越した存在である”
だからこそ「人事を尽くして天命を待つ」という諺が存在するのだろう。
演技後に羽生自身が語っていたように、跳ぶ瞬間、穴に嵌まってはどうしようもない。
このタイミングで、こんな理不尽はないだろうに…。
彼の4年間の道のりを思うに、やるせない気持ちになった。
そんな私をよそに、いつもどおりの演技を続ける羽生結弦。
技術の高さは無論、諦めることを知らない心の強さに感動した。
上述したように、我々定命の者は最善を尽くすことしかできない。
羽生結弦はこれほどの困難に直面しても、それを粛々とこなしていく。
その姿に、私は確信した。
彼こそ、史上最高のフィギュアスケーターだと!
演技が終わった羽生は、これまたいつものように観客席に向かって礼をする。
得点を待つキス&クライでも、悪びれることなく真っ直ぐ前を向き「次、頑張ります」と健闘を誓う。
最善を尽くした者だけに漂う清々しさに、心を洗われる気がした。
オリンピックの歴史を紐解くと、過去にも羽生同様、ショートで辛酸を舐めた選手はいる。
若きネイサン・チェンは前回の平昌のフリーで最高得点をマークし、五輪史上初となる6本の4回転ジャンプに挑み5本成功させる。
浅田真央もソチで、女子選手としては初となる6種類全ての3回転ジャンプを着氷した。
こうみると、史上初尽くしではないか!
翻って、羽生結弦である。
彼が目指すのは、人類初の4回転アクセルの成功だ!
ショートの結果を受け、「もう怖いものはない」と語る羽生結弦。
暗闇の中に一筋の光明が見えたと思うのは、私だけだろうか。
現実的には、難しいチャレンジなのは、私も理解している。
されど、羽生結弦にしかできない演技に拘り続けた4年間。
フリーでは、羽生結弦にし跳べない4回転アクセルを見せてほしい。
宇野昌磨と鍵山優真
団体戦でも感じたが、「オーボエ協奏曲」の調べは、本当に宇野の滑りに映える。
以前プログラムで使用していた月光もだが、宇野昌磨には厳かで抒情的な曲が似合う。
だからだろうか。
今回のショートプログラムの中で、私は純粋に宇野の演技が一番好きだ。
その演技には、苦しみの中で熟成した人間性の深みが滲み出ているように感じる。
そして、コロナで合流が遅れていた心の師ステファン・ランビエールが、間に合ったのも頼もしかったことだろう。
団体戦でも素晴らしかった4回転フリップを、それを上回る出来栄えで演技をスタートする宇野昌磨。
続く4回転トウループ&3回転トウループはセカンドジャンプで手をついてしまったが、後半のトリプルアクセルでは華麗に着氷する。
団体戦で取りこぼしたステップ・スピンでもレベル4を確実にとっていく。
終わってみれば、先述したコンビネーションジャンプでわずかに減点された以外はノーミスの演技だった。
自己ベストを0.44点更新した宇野昌磨。
そのコメントに成長した姿が窺える。
「演技に臨むにあたり失敗したくないという気持ちではなく、練習してきたものを出したいと思った。今シーズンは失敗しても次にどう活かすかということをテーマに取り組んできたが、今日もその気持ちを忘れずに試合に向かえた」
宇野昌磨が結果だけでなく、いかに練習と過程を大切にしてフィギュアスケートに向き合っているかが理解できる。
宇野昌磨の軌跡 泣き虫だった小学生が世界屈指の表現者になるまで
その宇野昌磨以上に、弾むようにリンクを舞ったのが鍵山優真だった。
まず、特筆すべきは4回転ジャンプが2本とも出来栄え点で+4を超えたことである。
そして、演技後半のトリプルアクセルもGOE+3.6近くを獲得する安定感。
ステップシークエンスがレベル4を取りこぼした以外は完璧な演技であった。
パーソナルベストの108.12点に会場はどよめいた。
コーチである父の顔も思わず綻んだ。
これまでは、フリーで挽回するパターンが多かった鍵山が、ショートからエンジン全開なのである。
否が応でも期待が高まる。
とりわけ今大会の演技に感じるのは、まさに今が旬というみずみずしさだ。
観ているこちらまで胸が弾むような、軽やかなショートプログラムであった。
勢いは不可能を可能にする。
初の戴冠も夢ではない。
ネイサン・チェン
さすがの世界王者・チェンも五輪という舞台に加え、直前で鍵山優真が会心の滑りをしたこともあり、プレッシャーがかかる場面である。
4年前の悪夢もあり、当然のように緊張もあっただろう。
だが、イタリアオペラ「ラ・ボエーム」の曲が流れ、演技が始まると、いつにも増して精悍な表情でリンクを滑走していく“史上最強の4回転ジャンパー”ネイサン・チェン。
冒頭の4回転フリップをいとも簡単に決めていく。
+4ものGOEがついたジャンプはあまりにも余裕があるので、3回転かと錯覚を起こすほどである。
トリプルアクセルに続き、4回転ルッツ&3回転トウループのコンビネーションジャンプも着氷させる。
特に、4回転ルッツからのコンビネーションは最高難度にもかかわらず、体力的に厳しくなる演技後半に行いGOE+3.5に迫る美しさだった。
これだけ難しいジャンプだというのに、全く危なげない。
しかも、この1発のジャンプで21.21点叩き出したのだ…。
最難関のコンビネーションジャンプを決めたことにより、そのスケーティングは終盤に向けてさらにキレが増していく。
イタリアオペラの傑作「ラ・ボエーム」の世界観を、余すところなく表現していくチェンのステップ。
団体戦では、いまひとつ加点が付かなかったスピンも、今日は文句なしの出来である。
フィニッシュの後、思わず出た力強いガッツポーズに4年前の悔しさの程が窺える。
ネイサン・チェンは団体戦に引き続き、個人戦でも“五輪の忘れ物”を取り返した。
キス&クライで得点を待つネイサン・チェン。
そして、愛弟子に寄り添う、ラファエル・アルトゥニアンの佇まい。
隣に並んで座る師弟の姿に、あと何度このふたりの姿を見られるのかと思うと、寂寥の思いが去来する。
緊迫の時間の中、得点が発表される。
なんと!113.97点の世界新記録!
羽生結弦の世界記録を2点以上更新したのである!
その瞬間、喜びを隠せないネイサン・チェンとは対照的に、静かに得点を見つめるラファエル・アルトゥニアン。
驚異の世界記録を前にして、「ただ起こるべきことが起きただけ」という風情で微動だにしない名伯楽の姿に、静かな余韻が残った。
おそらく、エキシビションを除けば、次のフリースケーティングがネイサン・チェンにとって五輪最後の滑りとなる。
ネイサン・チェンらしい演技、そして、悔いなき4分間となることを切に願う。
新型コロナによる明暗
ショートプログラムを前にして、悲報が飛び込んでくる。
アメリカ代表で団体戦に出場したビンセント・ジョウが、新型コロナに罹患したことにより出場取り消しになった。
今シーズン、ネイサン・チェンの不敗神話に土をつけたのが、何を隠そうこのジョウなのだ。
4年前の平昌五輪で6位になった時から注目していただけに、とても残念である。
それとは対照をなし、新型コロナで出場が危ぶまれていたキーガン・メッシングはぎりぎり間に合った。
昨日、北京に到着したというのに、羽生結弦に僅差に迫る滑りを見せる。
高祖父に日本人を持つメッシングに、親しみを持つ日本のファンも多いことだろう。
明暗くっきり分かれる、銀盤の1日となった。
まとめ
インタビュアーの質問に、宇野昌磨と鍵山優真は奇しくも同じ答えをする。
「誰かに勝ちたいとは思わない。自分のベストを尽くすだけ」
日本フィギュア界を牽引する若者ふたりの言葉に、私は深い感銘を受けずにはいられなかった。
その視線は、己がなすべき演技だけを見つめている。
そして、宇野昌磨は、なおも我々の心を穿つコメントを発信する。
「フリーのプログラムは、完璧に出来る確率は相当低いと思います。なので、次につながる演技、たとえ失敗しても自分の成長につながる演技をし、自分の気持ちに負けずにいつもどおりの自分を出す。これが、フリーの目標です」
巷間よく耳にするのが、「オリンピックは結果が全て」という言葉である。
ところが、宇野昌磨はオリンピックでもより高みを目指すべく、結果以上に自分の成長を望んでいるのだ。
そして、今自分ができる最善を尽くすことを目標にしているのである。
宇野昌磨のフィギュアスケーターとしての目標、それ即ち“至高の演技”なのだろう。
コロナ禍に見舞われ、どの選手も苦労した4年間。
私が望むことは、ただ一つ。
全ての選手がリンクの上で、今できる最善を尽くすことである。