「俺流を貫いた一流」落合博満 ~厳しさの中に潜む情~




プロ野球史上、3度の三冠王に輝いた唯一の選手。
それは、言わずと知れた“俺流”落合博満である。

監督としても8年間で4度のリーグ優勝に導き、日本シリーズも制覇した。

世間一般からすると、落合のイメージはドライで厳しく、上から目線、そして誰にも懐かない一匹狼といった感じではなかろうか。

だが、ときに落合は、そのイメージを覆す意外な姿を見せるのだ。


嫌われた監督 落合博満は中日をどう変えたのか (文春e-book)

恩師・稲尾和久

現役時代、稲尾和久は鉄腕の異名をとり、神様、仏様、稲尾様と謳われるほどの名投手であった。
稲尾が落合と出会ったのは、ロッテオリオンズの監督に就任した時である。
だが、稲尾の耳に届く落合の評判は、どれも芳しくない。

ある時、二人は腰を据えて野球談議をした。

稲尾は問う。
「勝てば優勝が決まる試合で、9回裏無死1.2塁の場面。打者が4番落合ならどうする?」
落合は答える。
「当然バントで送ります」

稲尾はさらに聞く。
「その場面で打率が2割9分9厘だったとする。ヒットを打てば打率3割だ。どうする?」
落合は笑いながら言った。
「当然、バントに決まっているじゃないですか」

噂によれば、落合はバントなど絶対にしないはずだった。
このやり取りで、稲尾は落合を話が通じる男だと確信したという。
そして、最近の若者らしからぬ逞しさと個性を持つ落合が、かつて西鉄ライオンズで黄金時代を築いた戦友たちと同じ匂いがしたことも、稲尾にとってはどこか懐かしかった。

落合もまた、稲尾の人間性と野球観に全幅の信頼を寄せていく。

その日、独り落合は室内練習場でバッテイング練習に励んでいた。
練習嫌いで有名な落合だったが、人知れず陰で努力をしていたのである。
結果が全てのプロの世界、努力は人に見せるものではないという、落合流のプロ意識によるものだ。

落合の練習は過酷を極め、その日も長時間に及んだ。
練習を終え、帰り支度に取りかかろうとした。
ところが、あまりのハードな打ち込みに手の感覚が無くなり、指からバットが離せない。

すると、どこからともなく稲尾が現れ、バットから落合の指を1本ずつ剥がしていく。
最初から最後まで、稲尾は黙ってバッテイング練習を見守っていたのである。

こうして互いを認め合い、師弟関係を深めていく。

落合は稲尾監督の下、1986年に2年連続通算3回目となる三冠王に輝いた。
我がことのように喜ぶ稲尾。
ところが、稲尾は監督を解任されてしまう。

そのシーズンこそ4位に終わったが、監督就任後2年連続2位の成績を残し、留任が有力視された中でのことだった。

これに黙っていないのが、“俺流”全開の落合博満である。
師と慕う稲尾の無念を思い、落合は公然と反旗を翻す。
「稲尾さんのいないロッテにいる必要がない」

こうして、“侍”落合博満はその年のシーズンオフ、中日ドラゴンズに移籍した。

青天の霹靂だった開幕投手

2004年、中日ドラゴンズの監督に就任早々、セリーグのペナントレースを制した落合博満。

トレードやFAによる補強を一切せず、厳しい練習のみで成し遂げたその快挙に、全ての野球関係者が驚きを禁じ得なかった。

その原動力となったのが、開幕戦でのある出来事だった。
開幕戦は通常、チームのエースがマウンドに立つ。
新人監督であれば、なおさら無難にエース級を起用するだろう。
ところが、落合博満は3年間全く一軍で投げていない川崎憲次郎を開幕投手に指名した。

案の定、序盤早々5点を失い、2回途中でマウンドを降りてしまう。
大事な開幕戦だというのに、素人目にも不可解な采配である。
試合はその後、中日打線が火を噴いて逆転勝ちを収めた。

ではなぜ、落合監督はそんなギャンブルじみたことをしたのか。

2000年のシーズンオフ、川崎憲次郎はFAで中日に移籍する。
ところが、大きな期待を受け移籍してきた1年目から肩を故障し、それ以降1度も一軍で投げられなかったのである。
そんな川崎を、口さがない者は陰で球団の不良債権だと罵った。
実直な性格の川崎は、どんな思いで過ごしたのだろう…。

実は、落合は新年早々1月2日に、電話で直接本人に開幕投手を告げている。
まさかの通告に奮い立つ川崎は、開幕のマウンドに登るため必死だった。

無情にも晴れの舞台で滅多打ちにあった川崎に対し、自らマウンドに向かった落合監督は何ごともなかったように「スピードも出ていたし、まだチャンスはあるから頑張りな」とエールを送った。

初采配でも全く気負うことなき姿に、不動心を体現した現役時代を思い出す。

落合は語る。
「このチームを変えるためには、怪我で3年間苦しんだ川崎が必要だった。川崎が投げれば、チーム一丸となって勝たせたいと思うだろう。そうした一体感と結束力をシーズンのスタートなる開幕戦で作りたかった」

そして、川崎の引退の花道も作ってやりたかったという。
たとえ打たれても、再びスポットライトを浴びる檜舞台に立てたなら、悔いは残らないだろうという親心だった。

結局、そのシーズンで現役生活に終止符を打った川崎は、引退試合で感極まりながら落合と抱き合い、心から感謝した。

ちなみに、落合自らが開幕投手を決めたのは、監督生活でこの年だけである。

こうしてみると、冷徹でふてぶてしく不愛想を絵に描いたような、我々がイメージする落合博満とは一味違う姿が垣間見える。

落合の目にも涙

かつての教え子たちが自らへの思いを語る姿に、涙を流すシーンも印象に残る。
まさに、鬼の目にも涙ならぬ落合の目にも涙である。

その選手とは時を同じくしてユニフォームを脱ぐことになった、落合ドラゴンズの代名詞ともいえる荒木雅博と岩瀬仁紀である。

荒木は言う。
「野球が下手だった自分を、ここまで出来る選手にしてくれた」

荒木は決して期待のホープではなかった。
そんな荒木に転機が訪れたのは、落合が監督に就任してからである。
1時間半にも及ぶ落合のノックに食らいつき、記憶が飛ぶまで白球を追いかけた。

落合は述懐する。
「荒木は練習の虫だ。後にも先にも、私が練習を止めたのは荒木だけ」

また、荒木が落合に引退報告をしに行くと、「ようやった。お前は誉めてやる」と言われ感無量だったという。
何しろ厳しい落合監督のことである。
現役時代、一度も誉めてもらったことなどない。
いかに、落合にとって荒木が特別な選手だったかが窺える。

そして、岩瀬仁紀である。
前人未到の登板回数1002試合、セーブも日本記録の407をマークした鉄人だ。

実は、リリーフエースとして起用されたのは、落合政権になってからだった。
「期待に応えるため、何が何でも抑えてやる」という気持ちで投げたという。

そんな岩瀬が最も印象に残ると語ったのが、2007年の日本シリーズ第5戦のことだった。
この試合に勝てば中日の日本一が決まる大一番で、先発の山井が1点のリードを守り、8回までランナーを一人も出さぬ快刀乱麻のピッチングを演じている。

すわ日本シリーズ初の完全試合かと、多くのファンが固唾を呑んで見守った。

ところが、9回に入り、落合はピッチャーを岩瀬に交代する。
岩瀬は三者凡退に打ち取ったが、落合の采配が物議を醸す。
多くを語らぬ落合だったが、実は山井の指にできた血豆が潰れ、本人自ら交代を申し出たのである。

通常のペナントレースと違い、日本一が懸かった大切な試合である。
だからこそ、山井は個人の勲章よりもチームの勝利を優先したのではないか。
そして、落合も同じ思いだった。

山井に対する同情が集まる中、私は落合博満という監督の真骨頂を見た。
賛否両論渦巻く中、一切言い訳をしないのだ。
どんな事情であれ、その決断を下したのは監督である自分なのだと。

何よりも「あの場面で登板して、きっちり抑えた岩瀬は凄い」と、リリーフエースを称賛したことが素晴らしい。

よく考えれば、全くその通りである。
日本一が懸かり、山井の完全試合も犠牲にした上での登板なのだ。
どれほどの重圧が、岩瀬の双肩にのしかかったことか。
その中で、自分の役目を全うしたのである。
それが、どれほど凄いことか。

岩瀬は引退試合で落合への感謝を口にした。
「僕を守護神として使っていただき、本当にありがとうございました」
間もなく44歳になる岩瀬仁紀の目には、光るものがあった。

まとめ

野球の神髄を知り尽くし、鋭い洞察力でファンを唸らせた両巨頭。
私見だが、それは落合博満と野村克也のように思う。

落合は野村克也の訃報に際し、たびたび出演していたスポーツ内閣のインタビューを受ける。
目を潤ませながら、野村との思い出をしみじみと語った。
在りし日を偲ぶ語り口と寂し気な面持ちに、双眸を濡らした視聴者も少なくなかったことだろう。

とりわけ、私の心に響いた言葉は、野村克也に送った最後の言葉である。

「奥さんに甘えてください。一番逢いたかった人に、逢いに逝ったんだから…」

それまでは野球の話に終始していたにもかかわらず、生前、野村が胸中に抱いていた悲願をたむけの言葉とした落合。

その言葉に照れながら、相好を崩す野村克也が目に浮かぶのは…私だけだろうか。

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