トータルフットボール 美しく勝利せよ!~世界を魅了した未来のサッカー~




トータルフットボール。
オールドファン、特にヨハン・クライフに思い入れがある方ならば、この響きに感慨を覚えるのではないだろうか。

それは、1974年の西ドイツワールドカップで、“機械仕掛けのオレンジ”ことオランダ代表が展開した未来のサッカーだった。

トータルフットボールとは

トータルフットボールは、別名ボール狩りともいわれる。
それは、前線から激しいプレッシングを行い、ボールを奪取していくことから名付けられた。
さらに、相手に自由なスペースを与えないために、常に攻撃陣から守備陣までコンパクトな間隔を保ち、オフサイドトラップも多用していく。

戦術やシステムが今よりも遥かにアバウトだった時代に、現代と遜色のないサッカーを展開していたのだから、未来のサッカーと呼ばれたのも納得である。

また、オフェンスの際には選手間でポジションチェンジを繰り返していくことにより、流動的で多彩な攻撃を仕掛けていく。
ただ、そこには約束事が存在した。
例えば、DFが攻撃に参加した場合、必ず他の選手が空いたスペースにフォローに入るのである。
クライフはこの様を「秩序のあるカオス(混沌)」と表現した。

だが、このスタイルには大きな障壁が存在する。
FWもDFもなく全員攻撃全員守備の戦いを実現するためには、全ての選手があらゆるポジションをこなせるユーティリティプレーヤーでなければならない。
もちろん、メッシやクリスティアーノ・ロナウドだからといって、攻撃だけに専念することは許されない。

加えて、単純に全ポジションをこなせればいいという訳ではなく、全てのプレイヤーが同レベルの高い技術を有していなければならない。
そうでなければ、フィールド上の全エリアで隙の無い戦いを展開していくことは不可能だからである。

こうしてみると、トータルフットボールを実践することは如何に困難かに気付くだろう。

“ピッチ上の体現者”クライフ

なぜ、ヨハン・クライフがトータルフットボールの“体現者”や“申し子”と呼ばれるのだろうか。
それはその戦術を機能させるために、必要かつ最も困難な役割を担っていたからである。

トータルフットボールを一言でいうと「秩序のあるカオス(混沌)」だと前述した。
選手たちが激しくポジションチェンジを繰り返し、間断なく攻守の切り替えを行っていく流動性と連続性の実現をスムーズに達成するためには、その渦中にあって客観的な判断を瞬時に下し、的確な指示を出す司令塔が不可欠となる。
それは、激しく渦を巻き上昇する竜巻に揉まれながら、まるで外から俯瞰して眺めるようにその状況を判断するようなものだろう。

そんなフィールド上の監督ともいうべき唯一無二のプレイヤーが、ヨハン・クライフだった。
「クライフなくして、トータルフットボールなし」と言われる所以である。

一般的に、トータルフットボールは激しいポジションチェンジを繰り返すため、通常の戦術以上に体力の消耗が激しいといわれる。

だが、クライフの見解は異なった。
「体力的には特に厳しくなかった。ピッチをサイドの幅で考えたとき、1人当たり20m程度を受け持てばよいのだから。きちんと流れの中で個々が役割を全うすれば、運動量はそれほど必要としない。むしろ、必要となるのはテクニックとポジショニングなのだ」

ヨハン・クライフが述懐する革命的戦術の要諦は、まさに“トータルフットボールの体現者”ならではの解釈だと唸らされる。



ワールドサッカーダイジェスト増刊 ヨハン・クライフ追悼号 2016年5月28日号[雑誌]

“創始者”リヌス・ミケルス

トータルフットボールといえば、多くの方がヨハン・クライフを思い浮かべるのではないか。
だが、それだけでは十分とはいえない。

トータルフットボールという革新的戦術を編み出した人物こそ、“将軍”と呼ばれたリヌス・ミケルスなのである。

1960年代半ば、ミケルスはオランダの名門クラブチーム・アヤックスの監督に就任する。
だが、当時のオランダサッカー界は他のヨーロッパ強豪諸国に比して、サッカー後進国の地位に甘んじていた。
そうした現状を打破すべく、ミケルスはトータルフットボールを考案し、チーム戦術として落とし込む。

これを契機にアヤックスは台頭し、国内リーグはもとより、ヨーロッパのサッカーシーンの中心に踊り出た。
そして、ついに1970-71シーズンのチャンピオンズカップ(現在のチャンピオンズリーグの前身)を制するに至る。
以降、アヤックスはチャンピオンズカップ3連覇を成し遂げ、名実ともにヨーロッパを代表するクラブチームとなった。

実は、ミケルス自身は最初のチャンピオンズカップ制覇を置き土産に、スペインのFCバルセロナに移籍する。
1973年には、チームを14年ぶりのリーグ制覇に導くなど、名将としての地位を確固たるものとした。

クラブチームとしては世界的強豪として名を轟かせていたオランダであったが、代表レベルでは活躍していたとは言い難かった。
事実、1970年のワールドカップ、1972年のヨーロッパ選手権では予選敗退を喫している。

1974年西ドイツワールドカップにおいても予選こそ突破したものの、試合内容としては物足りなく、このままではとても本戦を勝ち抜けるとは思えなかった。
こうした状況を立て直すべく、代表チームの監督して招聘されたのが、何を隠そうリヌス・ミケルスだったのである。

だが、ミケルスには問題があった。
大会直前になって監督に就任したこともあり、チーム作りにかける時間が無かったのである。
そこで、ミケルスは自らが手塩にかけて育てたアヤックスの選手たちを中心に代表招集し、伝家の宝刀トータルフットボールで戦うことを決断した。

そして、ワールドカップの舞台でオランダ代表は、サッカー史に未来永劫刻まれる足跡を残すのであった。

1974年西ドイツワールドカップ

オランダ代表は1次リーグ、そして2次リーグでも危なげなく予選を突破する。
チームを熟成させ機能させるための時間的ハンデなど、骨の髄まで染み込んだトータルフットボールを戦術として用いる以上、全く問題にならなかった。

そして準決勝、前回覇者ブラジルとの全世界が注目する世紀の一戦が始まった。
サッカー王国にして世界最強の名をほしいままにするブラジル相手に、縦横無尽にトータルフットボールを展開するオランダ代表。

中でも、華麗なるピッチ上のマエストロとしてチームを指揮したのが、ヨハン・クライフその人であった。
クライフは手始めに先制点のアシストをすると、ダメ押しと言わんばかりにジャンピングボレーシュートを決め、勝利を決定づける。
その豪快なシュートを目撃した人々は、畏敬を込めて“空飛ぶオランダ人”と呼んだ。
そして何よりも、攻守にわたり優勝候補筆頭ブラジルを圧倒した“未来のサッカー”に、全世界のサッカーファンは熱狂した。

こうして、オランダはブラジルを2対0で破り、決勝進出を決めた。

だが、決勝戦でオランダは西ドイツに1対2で敗れてしまう。
試合開始早々に先制ゴールを決めたものの、“皇帝”フランツ・ベッケンバウアーを中心とした西ドイツの統制の取れたゲーム運びにペースを握れない。

そして、勝敗を分けた最大の要因は、両チームのメンタリティの差であった。
オランダの敗因は、クライフが徹底マークされ本来のプレーを封じられたこともあるが、“才ある者”にありがちな慢心や油断が早い時間帯に先制点を挙げたことにより表出したのではないか。

かたや、西ドイツは頑健な組織力に加え、決して諦めることを知らない不屈のゲルマン魂で戦い抜いた。
そうした鋼の意志が同点に追いつく原動力となり、最後は“爆撃機”ゲルト・ミュラーの決勝ゴールに結実したように思う。

だが、敗れたとはいえ、大会の主役は紛れもなくオランダ代表であった。
後年、クライフが残した言葉がそのことを物語る。

「私は、1974年のワールドカップ決勝を忘れることはないだろう。西ドイツに1対2で敗れ、茫然自失となった。しかし、後にファンの記憶に残っているのは勝利した西ドイツではなく、敗れた我々オランダであることを知る。それから数十年の時を経た現在も、世界中のサッカーファンがあの大会の我々を称賛してくれているのだ。そのことを誇りに思う」

そして、この大会でオランダ代表が繰り広げたプレーこそ、後世に続くオランダイズムの代名詞となる「美しくスペクタルなサッカー」の源泉となるのであった。

まとめ

これまでのサッカーの概念を覆し、観客を魅了したトータルフットボール。
1974年のワールドカップはエポックメーキングとなり、現代サッカーの潮流に大きな影響を及ぼした。

しかし、リヌス・ミケルスが考案し世界のサッカーシーンを席捲した革新的戦術は、ヨハン・クライフがいなければ成立しないといわれたように、未だ往時のオランダ代表の戦いを完全に再現したチームは現れていない。

こうした中、現在ではクライフの愛弟子であるジョゼップ・グアルディオラが、唯一トータルフットボールを礎にした戦術を用いている。
ともすれば、フィジカルと運動量偏重の現代サッカーにおいて、スペクタルで美しいフットボールを貫くジョゼップ・グアルディオラこそ、まさに「トータルフットボール最後の伝道師」といえるのではないだろうか。

そんな“ペップ” グアルディオラには、クライフの「フットボールは楽しむものである」という精神を、未来へと継承していくことを期待したい。


ヨハン・クライフ自伝 サッカーの未来を継ぐ者たちへ