柔道男子日本代表監督を2期9年務めた井上康生が、東京五輪を花道に9月末で勇退することが正式に決まった。
リオ五輪では金メダル2個を含む全階級でメダルを獲得し、東京五輪では5階級で金メダルに導くなど、指導者としての力量を遺憾なく発揮する。
まさに井上康生監督こそ、柔道日本復活の最大の功労者と呼べるだろう。
指導者としての信念
時代が変わり、一昔前までの上からの厳しい指導では上手くいかなくなったと耳にする。
今の時代、選手と同じ目線で並走する、伴走型の指導法が重要性を増してきた。
まさに井上監督は上記を実践し、時流にマッチした指導で選手を育成した。
監督就任に際しスローガンに掲げた「熱意」「創意」「誠意」は、まさに井上康生の指導者像を表している。
創意
熱意については、世界の頂点を目指す日本代表監督である以上、わざわざ触れることはないだろう。
そもそも、それ無くして代表監督など務まるはずがない。
井上康生は現役を引退すると、スコットランドに2年間コーチ留学する。
柔道一筋に生きてきたため社会勉強の足りなさを自覚するとともに、多くのことを学び自らを成長させたいと思ったからだという。
この留学中に己の無知を痛感し、改めて学び続けることの大切さに気付かされた。
そのことが指導者になってからの大きな糧となり、「監督」井上康生に脈々と息づいているのだ。
こうした経験を活かし、井上監督は伝統と格式を誇る日本柔道に、新たなものを柔軟に取り入れていった。
例えば、これまで行われてきた根性論的指導を改め、課題やテーマを明確にしたうえで練習メニューを課していく。
また、科学的なデータも積極的に活用し、合理的かつ理論的なトレーニーングも実施した。
さらに、日本古来の精神を伝える茶道や書道にも触れる機会を設ける。
それらの根底に流れるものは“柔の道”と同じく「道」を極めることにあり、基本動作や心構えの大切さを改めて学ぶことができるのだ。
井上康生の現役時代は、スパルタ式の厳しい練習を絶え間なく繰り返したことだろう。
いわば、骨の髄まで従来の練習方法が染みついていたはずだ。
にもかかわらず、そうしたしがらみを振りほどき、自ら大海に飛び出して視野を広げ、新しい知見を獲得し、現代に即した指導法を確立したのである。
とかく伝統と歴史がある競技ほど、新しい風を吹き込むことへの抵抗が強い。
そうした中、そこにたどり着くまでに、どれほど粉骨砕身したのか想像だにできない。
井上監督は語る。
「伝統は変わらないことではない。普遍的な思想、哲学は継承しながらも、伝統は変えていくものである」
その言葉には、「創意」を御旗に掲げ新たな日本柔道の在り方を模索した、源泉となる思いが窺える。
誠意
井上監督は、とにかく選手とのコミュニケーションを大切にした。
対話のときも決して上からではなく、同じ目線で話を聞き、語りかけていく。
当然、選手それぞれに思いや考えがあるため、頭ごなしに否定してプライドを傷つける愚を避けるためである。
実を言うと私は、井上康生が全日本監督に就任した当初、まだ若く監督経験もないことから本当に大丈夫か…と不安を抱いていた。
加えて、監督という立場にありながら、たびたび泣いている場面を目撃し、如何なものかという気持ちもあった。
だが、それらは全て私の浅慮であり、井上康生が涙を流すときは常に選手たちと共にあり、我がことのように悲しみや痛みを感じていたのである。
それを象徴するのが、東京五輪代表の内定選手発表会見である。
井上監督は内定選手を発表し終えると、僅差で落選した選手たちの名前を次々と口にしていった。
「ギリギリで落ちた選手の顔しか思い浮かばない」と、涙を堪えきれずに…。
監督という職業は因果なもので、ある意味人を切ることが仕事である。
だからこそ、切られた選手の痛みに思いを馳せ、その辛さに耐えなければいけない責務を負う。
あの会見を見て、井上康生は誰よりも選手の痛みを知り、敗者の影を背負う監督なのだと感じ入った。
そうした姿勢は選手への誠意、そして深い愛情があればこそであろう。
自他共栄の精神
前述した監督としてのスローガンの他に、井上康生は柔道家としての原点ともいうべき精神を大切にしている。
それは、講道館柔道の創始者・嘉納治五郎の教え「自他共栄」である。
「自他共栄」とは、互いに信頼し助け合うことができれば、自分も他人も共に栄えることができるという意味で、「精力善用」とあわせて柔道の基本精神を表す言葉である。
今大会は男女合計9個の金メダルを獲得するなど、日本柔道健在を印象付けた。
しかし、混合団体戦ではフランスに敗れ、銀メダルに終わる。
井上監督は、その団体戦について述懐する。
「フランスチームは本当に強かったです。負けるべくして負けました。金を目指していたので、監督としては非常に残念です」と素直に完敗を認めつつも、悔しさを滲ませた。
そして、言葉を継ぐ。
「これまで個人戦で負けることはあっても、総力戦で負けることは絶対にありませんでした。逆にいえば、柔道がこれだけ国際的なスポーツ競技になったんだなと。嘉納治五郎先生をはじめとする先人たちも喜ばれているんじゃないかなと思います。柔道を通じて世界の人々と友好を深め、切磋琢磨していきながらレベルアップを図っていく。また、世界の国々に大きな夢や希望、感動を与えていく。これが、我々の理想とするものだと思います」
私は、この井上康生監督のコメントに感嘆した。
これこそ、まさに自他共栄ではないか。
敗戦の悔しさを噛みしめながらも、ライバルの成長を喜び、共に栄えることを願う心。
人は本質的に利己的な存在であり、自分のことだけを考える。
その人間の弱さ、醜さを克己し、理想に邁進する姿に感動する。
真の「柔道家」とは、井上康生のことをいうのだろう。
栄光と挫折の柔道人生
若くして天才の名をほしいままにした井上康生は、22歳で迎えたシドニー五輪ではオール1本勝ちで頂点に立つなど、全ての主要タイトルを獲得した。
まさしく、20代前半までは栄光に彩られた柔道人生であった。
そんな井上が、大きな挫折を味わったのが2004年アテネ五輪のことである。
井上は2001年には当時最強といわれた篠原信一を全日本選手権決勝で下し、本大会まで5年間国際大会負けなしという絶頂期にあった。
ところが、準々決勝で不覚を喫し、敗者復活戦でも敗れメダルなしで終わってしまう。
翌年には、大胸筋腱断裂の大怪我に見舞われるなど、柔道人生の後半は苦しみの連続だった。
あの井上康生が…と、私まで落胆したことを思い出す。
だが、そうした艱難辛苦の日々が井上康生を人間的に成長させ、指導者となった時に得難い財産になったのではないだろうか。
元々、好青年として知られていた井上だが、その経験があればこそ、あそこまで選手の心に寄り添えたのだと思う。
まこと人生は、人間万事塞翁が馬だと痛感させられる。
余談だが、アテネ五輪での敗戦には理由があった。
本番直前の合宿で食中毒になったうえに、膝の怪我を悪化させてしまったのである。
その話を最近になって知った私だが、この件での井上康生らしい態度に膝を打つ。
実は、その事実を隠し通していたのである。
もしかすると、食中毒については合宿中ということもあり一部関係者は知っていたかもしれないが、膝の怪我は一切口外しなかった。
日本選手団主将の大役を務め、五輪2連覇間違いなしといわれた中での屈辱的な敗北。
普通ならば、言い訳の一つもしたくなるのが人情だろう。
さすが「柔道家」井上康生の面目躍如である。
まとめ
高藤直寿は男子60㎏級で優勝を決めた直後、真っ先に井上監督のもとに赴き「いろいろご迷惑をかけてすみませんでした」と頭を下げた。
実は以前、こんなことがあった。
強化指定選手にもかかわらず、たび重なる遅刻を繰り返し批判の矢面に立たされた高藤に代わって、井上康生が頭を丸めたのだ。
一言、「私の責任です」と謝罪して。
だからこそ、高藤の口から先の言葉が出たのである。
思えば、井上康生という監督はいつも選手を庇い、自らが責任を取る男だった。
ただでさえ国民の期待という重圧にさらされ、厳しい練習に耐え抜く選手たちに可能な限り矛先が向かわぬようにという、親心だったのではないか。
また、日本柔道の体現者・大野将平はオリンピック2連覇を成し遂げると、井上康生の胸に顔を埋め号泣した。
そして、全ての選手が監督退任を心から惜しんだ。
その惜別の思いがあればこそ、柔道混合団体戦の終了後、井上康生は選手たちの手により3度宙に舞ったのだ。
井上康生は事あるごとに、「自分は世界一幸せな監督だ」と語る。
だが、敢えて訂正したい。
井上康生という監督のもとで戦えた選手たちこそ、「世界一幸せな柔道家」だったのだと。