かつて、ターフを賑わせたサラブレッドとジョッキーたち。
シンボリルドルフと岡部幸雄、ダイワスカーレットと安藤勝己など、多くの名コンビが心に残るレースを展開した。
とりわけ、私には忘れられない名コンビがいる。
メイショウサムソンと石橋守である。
アドマイヤムーンやドリームパスポートらと鎬を削った名馬は、キャリアの後半こそ鞍上に武豊を迎えたが、個人的には石橋守とのコンビが好きだった。
そんな雑草コンビの泥臭くも、どこかファンの心を揺さぶる人馬一体の絆を思い出す。
メイショウサムソンとは
メイショウサムソンは、「世紀末覇王」テイエムオペラオーと同じ父である重厚な欧州血統のオペラハウス、在来牝系のマイヴィヴィアンを母に持つ。
3歳時には皐月賞とダービーのクラシック2冠に輝き、4歳では史上4頭目となる同一年の天皇賞春秋連覇を成し遂げた。
競馬界を席巻する社台グループのサラブレッドではなく、北海道・浦河の中小牧場出身だったことも、叩き上げのメイショウサムソンらしい。
クラシック本番には有力馬のほとんどが4、5戦前後のローテーションで臨むのに対し、メイショウサムソンは異例ともいえる10戦目での皐月賞参戦であった。
こんなところにも、若駒時代からクラシックの激闘に身を置きながら、5歳まで大きな故障もなく走り抜いた“無事これ名馬”の片鱗が窺える。
石橋守 苦労人の趣
メイショウサムソンとデビューからコンビを組んだのが、当時G1未勝利で地味な印象の中堅騎手・石橋守である。
元々予定していた騎手のスケジュール調整がつかず、代役でメイショウサムソンに騎乗した。
しかし、これは石橋のみならず、サムソンにとっても幸運だったといえるだろう。
この年、ジョッキー生活22年目を迎えた石橋守。
そんな“いぶし銀”に訪れたクラシック2冠という栄誉。
初のGⅠ制覇を飾った皐月賞も感動的だったが、何といっても「全ホースマンの夢」ダービー制覇が印象に残る。
饒舌とは言い難い男が感無量の面持ちで、訥々と関係者に感謝の言葉を口にする。
当時、私はそこまでメイショウサムソンと石橋守のファンではなかった。
しかし、その光景は苦労人の趣を感じさせ、思わず観戦していた私の目頭も熱くなった。
引き裂かれた雑草コンビ
この項目では、4歳秋に起こった武豊への乗り替わりへの所感となる。
あらかじめ断っておくと、この乗り替わりに際しオーナーの松本好雄は石橋守と武豊の両名を集め、自らの意向を説明している。
武豊としても、G1戦線の主役への乗り替わりをオーナー直々に打診され、固辞する理由はない。
なので、一般的には非が無いともいえるだろう。
武豊ファンには、ここでブラウザを閉じることをお勧めする。
ここから先はあくまでも個人的な見解であり、おそらく武豊シンパには共感されないからである。
もともと、私もご多分に漏れず、武豊には好印象を持っていた。
なんといっても、1990年代の競馬ブームの立役者が武豊なのである。
だが、彼の馬券購入者の気持ちを蔑ろにするような騎乗を数多目撃し、さらにメイショウサムソンの強奪も相まって、ついに堪忍袋の緒が切れた。
メイショウサムソンは決して華麗な走りではなく、馬体を併せ叩き合い、石に食らいつくような勝負根性が持ち味である。
サンデーサイレンス産駒の瞬発力に胡座をかき、馬群後方から直線一気の競馬に染まり切った武豊には似合わない。
地味で華がなくとも、愚直に最後まで追う石橋守の方が合っているのは明白だった。
しかも、そんなメイショウサムソンに対して武豊は、信じられない発言をステイトメントする。
「何というか…サムソンには隠されたギアがあると思うんです」
度重なる落馬事故で馬群を避けることがお家芸と化した天才騎手は、あの泥臭いメイショウサムソンも自分のスタイルに持ち込もうとしたのである。
結果は、ただの一度も“隠されたギア”なるものがお目見えすることは、ついぞなかった。
私は、メイショウサムソンと石橋守のコンビを見るたびに思い出す。
それは、元プロ野球監督で「悲運の闘将」と呼ばれた西本幸雄の言葉である。
「世の中には、日のあたらない場所で必死に働く人がいる。その人たちに“努力すれば、いつかは日が当たる”ということを証明したい」
必ずしも、華やかな血統のエリートとは言い難いメイショウサムソン。
決してスポットライトを浴びずとも、真摯な騎乗を続けた石橋守。
そんな叩き上げの雑草コンビは上級国民の関心は引かずとも、私のような平民には全力で応援したくなる存在である。
だからこそ、デビューから手綱を任された石橋守が降ろされたことに…無念の思いが込み上げた。
しかも、それが競馬エリートの武豊への乗り替わりであり、おまけに騎乗スタイルも真逆である。
私だけでなく、多くのファンから失望の声が上がるのも当然といえるだろう。
そんな中、オーナーである松本好雄の娘が「お父さんらしくない!」と異を唱えてくれたことだけが、唯一やりきれない私の心を慰めた。
そして、私がここまで憤りを隠せないのは他にも理由がある。
ある日、武豊は自身の番組に幼馴染で“兄と慕う”石橋守をゲストに招いた。
乗ってみたい馬を訊かれた武は、こともあろうに「メイショウサムソン!」と答えるではないか!
後輩の牽制球に、「取らないでくださいよ」と苦笑いを浮かべる石橋守。
もちろん、気の置けない仲のふたりだけに軽いジョークと受け止められた。
だが…結果はご覧の通りである。
仲の良い先輩のお手馬にも見境なしに、色気を見せていたと言われても仕方ないだろう。
今振り返ると所詮、騎手は馬主や厩舎の意向には逆らえない。
また、競馬は実力の世界であり、仕方なかったようにも感じる。
だが、実力の世界というのなら、当時の武豊は全盛期に比べると綻びが目立ち始めていた。
勝ち鞍こそ群を抜いていたが、それは圧倒的な馬質に支えられてのものである。
明らかにデムーロやルメールら外国人ジョッキー、そして安藤勝己には見劣りした。
事実、足を余す競馬が散見されたこともあり、社台グループから見限られ、馬質が低下した数年後からは一気に成績が下降する。
また、人格者といわれた馬主・松本好雄は、凱旋門賞参戦のための乗り替わりを強調していたにもかかわらず、結局は国内での騎乗も武だった。
ある意味、古参の個人馬主にとって武豊という存在は偶像であり、また幻想でもあったのだろう。
「どうしても、自分の愛馬に跨る武君の騎乗姿が見たい…」
そんな悲願にも似た思いが、「名伯楽」と謳われた松本好雄にもあったのだと伝え聞く。
だが、テイエムオペラオーの和田竜二やメイショウドトウの安田康彦などを知る身からすれば、寂しさを拭えなかったことも事実である。
どちらにせよ、“兄と慕う”石橋守の相棒かつ生涯唯一のG1馬・メイショウサムソンをめぐる一連の強奪劇は、あまりも残念としか言いようがない。
まとめ
凱旋門賞帰りのメイショウサムソンはジャパンカップに出場する。
鞍上は怪我の武豊に乗り替わり、久方ぶりの石橋守だった。
あのメイショウサムソンの背に石橋守がいる。
その姿が見られただけで…。
それはどうやら私だけでなく、東京競馬場に駆け付けたファンも同じ思いだったらしく、ひときわ大きな声援がメイショウサムソンと石橋守に送られる。
結果は6着に終わったが、もはやそんなことは些細なことだった。
ちなみに私はレース前日、2時間以上かけて中山競馬場に向かい、メイショウサムソンの単勝馬券100円を購入した。
その馬券は今でも宝物として大切に保管している。
愚直なまでに4角先頭に並びかけ、勝負根性全開で叩き合いを挑むメイショウサムソンと石橋守。
彼らが織り成す人馬一体の雑草魂はファンの心を熱くさせた。