追悼 門田博光 ~不惑のホームラン王~





去る1月24日、南海やオリックス等で活躍した門田博光が逝去した。
享年74だった。

通算本塁打567、打点1678はいずれも歴代3位の記録であり、ホームラン王3回、打点王にも2度輝いた昭和を代表するスラッガーだった。

門田博光の思い出

門田博光といえば晩年まで、豪快なフルスイングと火を噴くような弾丸ライナーが持ち味のホームランバッターだった。
まさにパリーグを代表する偉大な野球人であり、またひとり名選手が旅立ったことが惜しまれる。

私はベテランになってからの門田しか見ていないので、元々は俊足で守備が上手くシュアーなバッティングを特徴とする、3拍子揃った選手だとは知らなかった。
ところが、1979年にアキレス腱を断裂し、ほぼシーズンを棒に振る。
それ以降、足に負担をかけないよう基本的には守備にはつかず、長距離打者として覚醒していく。
翌1980年41本ものホームランを放つと、1981年には44本塁打、1983年にも40本塁打でホームラン王を獲得した。

だが、個人的に最も印象深いのは1988年、不惑の年齢でホームラン王と打点王に輝いたことである。
この年は昭和最後の年で、ダイエーに身売りしたため南海ホークスもラストイヤーとなった。
そんな中、若きホームランアーティスト秋山幸二と熾烈なホームランキング争いを繰り広げた。
私は、「中年の星」と言われた門田を応援する。
すると、門田は44本塁打で3度目のホームラン王を掌中に収めた。
しかも125打点で打点王も獲得したほか、打率も.311と文句なしの成績を残す。

結局、門田は41歳で33本、42歳でも31本ものホームランを打ち、40代以降133本のアーチをかけたのだ。
王や長嶋、野村でも40前後になると衰えを隠せなくなったのに対し、不惑以降ひとり気を吐く門田の豪打…。

門田の凄味をさらに実感したのは、オリックス時代の同僚・パンチ佐藤の言葉である。
南海から移籍した門田は当時、三冠王ブーマー・ウェルズや石嶺和彦、藤井康雄らと共にブルーサンダー打線の主軸を担っていた。
そんな中、さすがの門田も梅雨から夏場にかけ、年齢的なこともあり少々ヘバリ気味だったのだろう。

門田は独り呟いた。

「バットが振れていない」

それを耳にしたパンチ佐藤は目玉が飛び出すほど驚愕した。
不惑を超えてなお、門田のスイングスピードは一向に衰えを知らず唸りを上げていたからだ。
門田さんのスイングのどこが、振れていないのだと…。
しかも、門田は170㎝しかない身長で、重さ1㎏・長さ34インチ半のバットを使用していたのである。
長さもさることながら、通常よりも遥かに重いバットを難なくフルスイングする門田の膂力…。
パンチ佐藤の軽妙なトークも手伝って、強烈なインパクトが私の脳裏に刻まれた。

意外なエピソード

私は門田博光のエピソードで、いくつか驚かされたことがある。

ひとつ目は、高校時代ホームランを1本も打ったことがないことだ。
名門・天理高校で4番を打っていたにもかかわらず、3年間サク越えなしで卒業する。
そんな門田はノンプロに進んでからもバットを振り続け、徐々にフルスイングを開眼していった。

ふたつ目は、元プロ野球選手・田尾安志がYouTubeチャンネルで語っていたエピソードだ。
門田は試合中、一切ベンチに腰掛けず立ち続けていたというのである。
田尾が理由を尋ねると、門田はこう言った。

「座るとゲームに入り込めないような気がする」

30歳を超えてアキレス腱を断裂して以降、門田はDHとして活躍の場を求めた。
たまに耳にするのが、DHは守備につかないこともあり、試合中リズムが掴みにくいという。
おそらく、そんなことも関係していたのではないか。
ベテランになっても情熱を失わない、門田の野球への真摯な思いが垣間見える。

3つ目は、ホームラン王になった後も電車通勤していたことである。
将棋の棋士は羽生さんや大山十五世名人など棋界のスーパースターでも、千駄ヶ谷の将棋会館まで電車通勤で通うことが当たり前である。
だが、野球選手、特に一流選手にはそのイメージが無かったので意外だった。
一説によると、アキレス腱を切ったこともあり、リハビリも兼ねてのことだという。

ホームランへのこだわり

門田は後年、現役時代の自らのバッティングに言及する。

「現役の頃は、とにかく場外へ打ち込んでやろうと思ってやっていた。誰よりも遠く、それも低い弾道で飛ばす。見ている相手チームのファンから『すごいな!』という声を聞きたいと思っていた。ホームランでも完璧な打球を常に求めていたから、40歳で44本塁打とか打てたんやろう」

そして、こうも言う。

「41歳での33本塁打の時も、自分からすれば打ち損ないばかりだった。格好悪いと思って、いつも下を向いてダイヤモンドを一周しとった。でも、それまでに『もっと飛ばしたい。場外や!』ってやってきたから、飛ばんようになってもまだフェンスの向こうに打つことができた」

人は100を目標にして努力を重ねても、到底それに到達することなど出来はしない。
せいぜい、7~8割がいいところだろう。
現役時代、決して妥協せず完璧を目指してバットを振り続けた門田だからこそ、不惑を越えてなお驚異のスイングを体現できたのだろう。

南海の三悪人

同じ南海の大先輩にして、後にプレイングマネージャーも務めた野村克也はかく語る。

「江夏豊、江本孟紀、そして門田博光は南海の3悪人だった。門田は、わしが何か言えば必ず反対のことをしたものだ」

その反面、後年になって野村はよくボヤいていた。

「最近の選手は真面目な優等生ばかりである。南海時代の江夏や門田のようなタイプの選手が少なくなった」

よく“出来の悪い子ほど可愛い”と親や教師は言う。
監督時代は手を焼いただろうが後で振り返った時、懐かしい思い出として残るのは門田博光のような選手なのかもしれない。


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まとめ

門田を悪人と言って憚らなかった野村だが、一方でこんなことも言っていた。

「もの凄い頑張り屋。とことん打撃を追求し続ける最後の野球バカ」

この言葉は最大限の称賛であり、うるさ型の野村克也をして門田の実力には一目置いていたのである。

私は門田を語る上で、田尾安志の言葉がシックリくる。

「門田博光さんをひとことで言うと、これぞパリーグの選手」

豪快なフルスイングにこだわり、ホームランを追い求めた門田博光。
今は無き大阪球場のライトスタンドに突き刺さる、弾丸ライナーの軌道が偲ばれる。

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