忘れ得ぬ名テニスプレーヤー① 「野獣」ジミー・コナーズ





かつてヨーロッパの貴族の間で嗜まれ、優雅で上品なスポーツだったテニス。
その系譜は、ケン・ローズウォールやロッド・レーバーなどに受け継がれていく。

だが、そこに「野獣」のような闘争心とアグレッシブな攻撃テニスで、新しい風を吹かせたプレーヤーがいた。

古き良きアメリカを偲ばせるジミー・コナーズである。

ジミー・コナーズとは

ジミー・コナーズは、1952年9月2日に生まれたアメリアのテニス選手である。
ビヨン・ボルグ、ジョン・マッケンロー、イワン・レンドルらと覇権争いを演じ、そのカリスマ性でテニス界に黄金期をもたらした。

1972年にプロ転向を果たすと、1974年にはウィンブルドン・全米オープン・全豪オープンで優勝する。
この年、全仏オープンには出場しなかったため、実質グランドスラム大会負けなしのトリプルクラウンを達成した。

これ以降、コナーズは1970年代の男子テニス界を席捲し、長らく王者として君臨した。
また、グランドスラムでは全米オープン5回、ウィンブルドン2回、全豪オープン1回と通算8回の優勝を飾った。
特に、地元全米オープンでは毎年のようにファンを熱狂させ、5度の優勝はピート・サンプラスやロジャー・フェデラーと並ぶ最多記録となっている。

選手としての特徴

1968年にオープン化し、1973年ATPランキングが導入された男子テニス界。
イリ・ナスターゼやジョン・ニューカムがすでに世界ランキングNo.1になっていたが、間違いなくコナーズこそ新しい時代のスターだった。

前述のように、コナーズはコートに闘争心と、まるで格闘技を思わせるアグレッシブなプレーを持ち込んだ。
それまでのバックハンドは片手打ちが主流だったが、コナーズはより強くボールを叩ける両手打ちのバックハンドを用いた。

サウスポーのコナーズから繰り出されるバックハンドは強烈無比であり、やっとボールに追いついたと思った次の瞬間、息を呑むようなスーパーショットが放たれた。
しかも、これまたコナーズ以前にはほとんど見られなかった、フラット系のショットを相手コートに打ち込んだのである。

また、彼は個性あふれるキャラクターも魅力的だった。
たしかに、コナーズは決して品行方正とはいえず、ライバルのボルグが常に冷静沈着で威厳すら漂わせていたのとは対照をなしていた。
しかし、激しい闘争心を剥き出しにしてスーパーショットを決めるたび、力強いガッツポーズを連発し観客席を沸かせるのだ。
そして、オーバーアクションのみならず、憎めない表情とユーモラスな言動で観客を魅了していった。

まさに、ジミー・コナーズは一流のエンターテイナーだったのである。

復活

コナーズは1974年に世界ランキング1位につくと、以降160週にわたりその座を守り続ける。
これはロジャー・フェデラーに破られるまで長らく史上最長記録であった。
そして1977年、一度はボルグにNo.1を奪われるが、すぐさま取り返す。
実に世界ランキング1位通算は268週を数え、これは歴代5位の記録となっている。

そんなコナーズも20代後半になり、徐々にボルグとマッケンローの後塵を拝すようになる。
1979年に世界ランキング1位の座をボルグに追われ、しばらくグランドスラムでの優勝から離れていった。
時代は確実に、ボルグとマッケンローへと移ろっていく。

だが、30歳を迎える1982年、コナーズは甦った。
ウィンブルドンの決勝でマッケンローをフルセットの末破り、1974年以来2度目の美酒に酔いしれる。
そして、全米オープンでもイワン・レンドルを倒し、4年ぶりに制覇した。
この結果、再びコナーズは世界No.1に返り咲く。

翌年も、全米オープン決勝でレンドルに勝ち、連覇を果たすとともに大会史上最多5度目の栄冠に輝いた。
地元の英雄の復活劇に、アメリカ国民が歓喜したことは言うまでもないだろう。

また、翌1984年もマッケンローに敗れこそしたが、ウィンブルドンで準優勝する。
齢30を超えてなお健在のコナーズは、この年まで世界ランキング3位以内を死守した。

真のレジェンド

さすがのコナーズも30代半ばに差し掛かり、徐々に衰えを隠せなくなった。
グランドスラム大会で抜群の安定感を誇っていたコナーズが、1986年になるとウィンブルドンで1回戦敗退、復活を期した全米オープンでも3回戦で姿を消してしまう。

本人の意思とは別に周囲では限界説が飛び交い、引退が囁かれ出す。
あるインタビューで引退について問われ、ついにコナーズは爆発した。

「なんで俺をテニス界から追い出そうとするんだ!」

より一層闘志をかき立てたコナーズは、改めて復活の思いを強くする。
もちろん、往年の実力には遠く及ばなくなっていた。
だが、翌1987年、ウィンブルドンと全米オープンで準決勝まで勝ち進む。
1988、89年は得意の全米オープンで準々決勝まで進出する。
そして、39歳を迎えた1991年の全米オープンで、またもや準決勝の舞台に立ったのだ。

私には忘れないエピソードがある。
あれは、同じアメリカ出身で売り出し中のアンドレ・アガシと、全米オープン準々決勝で戦ったときのことだった。
アガシはまだ10代ながら躍進著しく、ド派手なファッションで人気を博していた。
結果は奮闘虚しく、若さと勢いに勝るアガシの前に敗れてしまう。
だが、コナーズは劣勢に陥っても決して諦めず、若かりし日と同じ情熱をコートにぶつけていた。
試合中、そんなコナーズへの声援がアガシのそれを大きく上回っていたことを思い出す。

そして、あるファンはこう言った。

「奴はチンピラだ。だが…あんたは伝説だ!」

この一言で、私はいかにジミー・コナーズがファンに愛されているかを悟った。
とかく現代では、いとも簡単にレジェンドという言葉を乱発する。
しかし、ジミー・コナーズは疑いようもなく、テニス界におけるレジェンドなのである。


テニスクラシック 1982年9月号 COLOR SPECIAL WIMBLEDON ’82 WINNERS ジミー・コナーズ、マルチナ・ナブラチロワ

まとめ

オープン化を果たしたものの、どこか古い時代の香りを残していた往時のテニス界。
そんな中、新しい時代の扉を開き、エポックメーキングとなったのがジミー・コナーズその人である。

ボルグ、マッケンロー、レンドルらと鎬を削った輝けるテニス界の黄金期。
ジミー・コナーズこそ、その時代の先鞭をつけた生ける伝説だった。

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