20世紀末、巷では“世紀末覇王”といえば、北斗の拳に登場するラオウが一般的だった。
しかし、ターフでは別の“世紀末覇王”が存在した。
ミレニアムの西暦2000年、年間8戦全勝、GIでも古馬王道中長距離路線5戦全てで勝利した、テイエムオペラオーである。
晴雨兼用、馬場不問のテイエムオペラオーは、全く死角のない絶対王者として君臨した。
テイエムオペラオーとは
当時、史上最多タイとなるGI7勝を挙げたテイエムオペラオーだが、わずか1000万円で落札された。
後に、生涯獲得賞金が18億円を超えるスーパーホースになるなど、誰が想像しただろうか。
デビュー戦では軽症ながらも骨折し、ようやく3戦目にして勝ち上がるなど、必ずしも順風満帆とはいえなかった。
だが、テイエムオペラオーはG3「毎日杯」を圧勝し、怒濤の4連勝を飾る。
その勝ちっぷりに、急遽追加登録料を支払いクラシック第1戦「皐月賞」に出走すると、大外から豪快に差し切ってGI初戴冠を果たす。
その後も、アドマイヤベガやナリタトップロードと鎬を削り、ダービー3着、菊花賞2着という成績でクラシックの戦いを終える。
そして、その年の有馬記念、グラスワンダーとスペシャルウィークの一騎打ちムードの中、見せ場たっぷりの3着に入り、来年の飛躍を予感させた。
古き良き時代
テイエムオペラオーのライバルといえば、キャリア前半はナリタトップロードであり、古馬になってからはメイショウドトウが挙げられる。
いずれも、GIを制すなど一流の競走馬である。
しかし、意外なことに、3頭とも主戦騎手はキャリアの浅い若手だった。
テイエムオペラオーは和田竜二、ナリタトップロードは渡辺薫彦、メイショウドトウが安田康彦という具合にだ。
武豊や岡部幸雄など、錚々たる騎手がいたにもかかわらず…。
現在ならば、若駒時代はいざ知らず、一流馬に成長してからは有力ジョッキーに乗り替わっていただろう。
そう考えると、当時のオーナーや調教師は多少のミスには目を瞑り、一丸となって若手を育もうとする気概と人情が残る良い時代だったように思う。
特に、テイエムオペラオーを管理した、和田の所属厩舎の岩元市三は人情味あふれる調教師であった。
その岩元と和田には、こんなエピソードがある。
テイエムオペラオーの馬主・竹園正繼(まさつぐ)は、基本的に騎手や調教師に配慮するオーナーである。
だが、和田の騎乗ミスに納得がいかず、岩元に乗り替わりを打診する。
すると、岩元は懸命に竹園を説得した。
その結果、和田はデビュー戦から引退レースまで、26戦全ての騎乗を任された。
テイエムオペラオーはあまりの強さに理不尽なまでの包囲網を敷かれたが、和田自身の未熟な騎乗も無きにしも非ずであった。
にもかかわらず、最後まで若人に託した陣営の英断には、感銘を受けずにいられない。
無双する世紀末覇王
古馬となり、テイエムオペラオーは“世紀末覇王”として無双する。
年が明け、2連続のG2戦「京都記念」と「阪神大賞典」で、ナリタトップロードらを蹴散らした。
そして、「天皇賞春」「宝塚記念」とゴール前での接戦を制し、GIでも連勝を飾る。
両レースとも、着差以上の強さを見せた走りだった。
秋初戦、テイエムオペラオーはG2「京都大賞典」から始動し、“G2番長”ナリタトップロードをアタマ差退ける。
次戦は「天皇賞秋」であり、いよいよ秋のGI古馬中長距離王道路線が幕を開ける。
重馬場の中、スタートする16頭。
好スタートを切ったオペラオーは5番手につけ、メイショウドトウを見る形でレースを進める。
直線半ば、メイショウドトウが先頭に立とうとするところで、テイエムオペラオーが迫って来た。
あっという間に、オペラオーはライバルを突き放す。
結局、2馬身半差をつけて完勝した。
1番人気が12連敗中という当レースのジンクスをものともしない、“世紀末覇王”の強さだけが光った。
秋3戦目「ジャパンカップ」。
東京の芝2400mというチャンピオンディスタンスが舞台であり、世界的名手・ランフランコ・デットーリ騎乗のファンタスティックライトも出走する、最強馬決定戦。
戦前の予想に違わない、白熱のレースが展開する。
3コーナー手前から上がっていくエアシャカールに呼応するように、馬群がギュッと凝縮していった。
だが、“世紀末覇王”は動かない。
直線に入り、先に抜け出したメイショウドトウに並びかけるテイエムオペラオー。
またもや、2頭の決着かと思った刹那、世界を知る人馬一体のコンビが飛んで来た。
鞍上デットーリとファンタスティックライトである。
勢いに乗りグイグイとクビ差まで距離を縮めるが、そこから先、前の2頭には永遠に届かない。
ファンタスティックライトの追走を凌ぎ、メイショウドトウとの壮絶な叩き合いを制したのは、やはりテイエムオペラオーだった。
メイショウドトウは三度、2着に終わる。
レース後、「テイエムオペラオーとメイショウドトウは、間違いなく世界レベルだ」とデットーリも舌を巻く、日本が誇るライバル2頭だった。
2000年、ここまで重賞7連勝、GIでも4連勝のテイエムオペラオーが、最後に挑むのが「有馬記念」である。
この年末の風物詩に、史上初となる古馬中長距離GIの年間グランドスラムがかかっていた。
そして、当レースで我々は、“世紀末覇王”の底力を目の当たりにする。
テイエムオペラオーはスタートこそ良かったものの、他馬に囲まれズルズルと下がっていった。
一瞬立ち上がるほどの不利を受け、後方にポジションを取らざるを得なくなったのだ。
さらに、馬群の中に押し込まれ、身動きができない。
世に言う“オペラオー包囲網”が発動したのである。
第4コーナーを回っても、テイエムオペラオーはまだ後方にいる。
中山の直線は310mしか距離がない。
「テイエムは来ないのか!テイエムは来ないのか!?」
馬群の中でもがくオペラオーの姿に、実況席も熱を帯びる。
すると、一頭分のスペースが空いたその瞬間、“世紀末覇王”は馬群をこじ開け、唯一勝利に通じる進路へ突入した。
「テイエム来た!テイエム来た!テイエム来たッッ!!」
メイショウドトウをかわすと、先頭のダイワテキサスも抜き去った。
なおも執念で差し返すメイショウドトウを、最後の力を振り絞り“ハナ差”抑え切る。
何という強さ…!
最初から最後まで徹底的にマークされ、絶体絶命の窮地に陥ったテイエムオペラオー。
直線ほんの一瞬だけ空いたスペースを見逃さず、自ら馬群を捌いて進路を取る。
そして、先頭に立ってからも勝負根性を見せつけ、最強の刺客を撥ね退けた。
メイショウドトウのファンである私も、圧巻のパフォーマンスに脱帽するしかない。
まさにテイエムオペラオーこそ、ミレニアムに降臨した“世紀末覇王”だった。
テイエムオペラオー伝説 世紀末覇王とライバルたち (星海社新書)
まとめ
翌年、5歳となったテイエムオペラオーは天皇賞春も制し、GI5連勝を達成するとともに、シンボリルドルフに並ぶGI7勝の金字塔を打ち立てた。
だが、次戦「宝塚記念」で最大のライバル・メイショウドトウに敗れてしまう。
以降、秋のGI戦線でもアグネスデジタルやジャングルポケットの末脚に屈し、勝利を収めることなく2001年をもって引退した。
テイエムオペラオーを語るとき、やはりメイショウドトウの存在は欠かせない。
2000年「宝塚記念」に始まり、翌年「宝塚記念」に及ぶ6戦連続で、古馬王道中長距離GIを2頭でワンツーフィニッシュしたのである。
これもまた、ミレニアムに打ち立てたオペラオーの記録同様、競馬史に残る金字塔と言えるだろう。
20世紀最後の年に繰り広げた、ライバル2頭の名勝負。
白熱のレースを観戦することができ、私はとても幸運に思う。
だからこそ、今後とも歴史の目撃者として、彼らの勇姿を語り継いでいく。