「前人未到 3度の三冠王」落合博満-オレ流を貫いたプロフェッショナル 後編





落合博満は、いつから“オレ流”と呼ばれる独特のスタイルを確立したのだろうか。
プロ入り後の選手像に迫っていく。

プロ入り直後から“オレ流”全開

社会人出身の中でも25歳という高齢でプロ野球の門を叩いた落合は、プロ入り直後から自身の代名詞ともいえる“オレ流”全開であった。

当時のロッテ監督は現役時代“シュート打ちの名人”と呼ばれ、内角球を打たせたら当代随一の名人芸を誇った山内一弘であった。
山内はバットを地面と水平に振るレベルスイングを標榜し、数多の選手を一流に育てたことでも知られる。
落合のスイングは極端なアッパースイングであったため、山内はレベルスイングに矯正しようとアドバイスを試みた。

ところが、山内のバッティング理論は落合にフィットせず、どうしても打球が前に飛ばない。
落合は監督である山内に、「ダメならクビで結構ですから、俺のことは放っておいてください」と言うと、チームの先輩のバッティングフォームを参考に独自の理論を構築し、神主打法を磨いていった。

この逸話を知り、私は驚愕した。
いくら25歳とはいえ、落合はルーキーなのである。
普通ならば、新人選手が監督に対してそんな生意気な発言は出来ないだろう。
しかも、山内一弘といえば2000本安打を放ち、ホームラン王や打点王も幾度となく獲得した往年のパリーグを代表する大打者だったのだ。

だが、落合のアッパースイングは決して技術不足でもなければ、ただの我流でもなかった。
自身の身体的構造に即した打法を試行錯誤した結果、たどり着いたスイングだったのである。

また、「当時の自分には、山内さんの高度な打撃理論を理解することができなかった」と落合が述懐していたように、技術的にもまだ山内の域にまで達していなかったことも修得できなかった要因であった。
あくまでも、若き日の落合博満には山内のバッティング理論が合わなかっただけであり、山内の人間性や高度な打撃理論に対しては敬意を払っている。
その証左として、完成させた神主打法の中に山内から指導を受けた技術が息づいていることを認めており、「プロの世界に入って、野球を教わった監督は稲尾さんと山内さんだけ」と後述するのであった。

その山内とは対照をなしたのが、400勝投手の金田正一であった。
ロッテの前監督であった金田はキャンプに訪れ、落合の打撃フォームを見ると、本人に面と向かって辛辣にダメ出しをする。
それ以来、落合は金田を毛嫌いするようになった。

「自分は社会人野球などで経験を積み、ある程度年齢がいってからプロ入りしたので大丈夫だったけど、もし、高校を卒業したばかりの選手があれだけ偉い人に酷評されたら潰れちゃう」

このときの一件で後年、落合は金田が会長を務めていた名球会入りを拒んだ。

実は、金田以外にも落合のアッパースイングに否定的な見解を示す評論家は多かったのだが、日曜朝の「喝!」でお馴染みの張本勲は絶賛していたのである。
最近では何かと物議を醸す張本だが、確かな打撃理論を持ち、先入観を持たずに優れた技術を看破できる眼力の持ち主という側面も持っていた。

変遷していくプロの定義

プロ野球界で唯一、落合が師と仰いだのが“鉄腕”稲尾和久である。
稲尾がロッテの監督に就任してから師弟関係は始まった。

誰よりも“オレ流”を知る稲尾は、落合博満をこう評した。

「ロッテ時代の落合はプロ=成績であった。そして、中日に移籍してからプロ=マネーになる。巨人に行った落合は、最終的にプロ=存在感という境地に達した」

これを聞いた私は、「さすが落合が師と慕うだけのことはある」と感心した。
この稲尾の発言が、まさに言い得て妙だったからである。

ロッテ時代の落合は、1982・1985・1986年と3度の三冠王を獲得するなど、打率・長打力・勝負強さのどれを取っても申し分ないスラッガーであった。
野村克也をして、右打者として史上最高のバッターと評価するのも頷ける。
選手として、全盛を極めていた時代であろう。

中日時代も数々のタイトルを獲得し、打棒健在とばかりに日本を代表する不動の4番として君臨した。
しかし、球団と年棒をめぐり、年を越しての調停騒動を起こすなど、何かと金銭面での話題を振り撒いた。

巨人へ優勝請負人の使命を帯びて移籍すると、チームのため、そして長嶋監督を胴上げするため奮闘する姿があった。
巨人移籍後の一時期、落合は怪我により本来の打撃が出来ない試合が続く。
ところが、落合博満という看板と存在感により、相手ピッチャーはなかなかストライクゾーンに投げられない。
それを百も承知の落合は敢えて無理には打ちにいかず、フォアボールを選び、出塁してチームに貢献した。
ある意味、落合博満という顔だけで勝負していたのである。

まさしく、プロ=存在感を体現する千両役者であった。

運命の10.8決戦

落合はプロ野球史上初となるFAを行使し、1993年のシーズンオフに巨人へ入団した。
巨人OBの多くが異を唱える中、長嶋監督だけは落合の必要性を説き必死に勧誘する。
意気に感じた落合は「長嶋監督を男にするために来た。監督である長嶋さんのクビを私が切ったら、末代までの笑い者になる」と入団会見で覚悟の程を語った。

ペナントレースが始まると、落合は開幕戦からホームランを放ち、好調な滑り出しをみせる。
ところが、4月下旬にデッドボールを受け、あばら骨を骨折してしまう。
周囲には黙って試合に出続けたが、痛みで夜も眠れず食事も満足に取れない日々が続く。
だが、落合は男の公約を果たすため、黙々と4番の重責を果たしていった。

前半戦は好調に首位を快走していた巨人だが、後半戦になると失速していく。
そして、ペナントレースの130試合目にあたる最終戦。
ここまで、巨人69勝60敗、同じく中日も69勝60敗という全くの相星で直接対決を迎えたのである。

時は1994年10月8日、決戦の地は中日の本拠地ナゴヤ球場。
世に言う10.8決戦である。
敵地での戦いに加え、中日の先発ピッチャーは当時セリーグNo.1サウスポーにして、本拠地ナゴヤ球場では巨人戦11連勝中のエース今中慎二であった。

苦戦が予想される中、ふたりの男が同じ思いを胸に秘め、この国民的行事に挑んでいた。
そのふたりの男とは、巨人軍監督・長嶋茂雄と4番バッターの落合博満である。
そして、同じ思いとは、負ければユニフォームを脱ぐという不退転の決意である。

私には信じられなかった。
長嶋が辞任するのは、チームの責任を担う監督という立場上、まだ理解できる。
しかし、いくら優勝請負人という使命を負っていたとはいえ、選手である落合が引退を賭けて試合に臨んでいたとは…。
入団会見での覚悟が、本物だったと身に沁みる。

ついに午後6時、決戦の幕が切って落とされた。
中日のエース・今中は、初回を三者凡退に打ち取る上々の出だしを切る。
2回表、先頭打者として迎えるのは4番落合である。
ここで、本格派投手としての本能が疼いた。
これまでも、今中は落合に対して意地になり、ストレート勝負を挑むことが多々あった。

この場面でも、力でねじ伏せてやろうと渾身のストレートを投げ込む今中。
すると、落合はその快速球をジャストミートし、右中間スタンドに先制ホームランを叩き込む。
この大一番で、前年度、最多勝と沢村賞を獲得した巨人キラーの今中をも凌駕する落合の打棒。
数々の修羅場を潜り抜けてきた三冠打法に、さすがの言葉しか見当たらない。

懸命に食い下がる中日も同点に追いつき、2対2で迎えた3回表、巨人の攻撃。
ここで、長嶋監督は執念の采配をみせた。
ノーアウト1塁の場面で、3番松井秀喜に送りバントのサインを出したのだ。
送りバントを決め1死2塁とし、再びバッターボックスに向かう落合。
長嶋監督からの信頼、そして命運を託された責任を一身に背負いながら、落合博満はいつものように構えた。

今中はここでも真っ向からストレート勝負に出る。
落合はインコースの厳しいボールに詰まりながらも、しぶとくライト前にヒットを落とし、巨人が再び勝ち越した。

落合の技ありの長短打で今中を攻略した巨人が世紀の一戦を制し、見事セリーグ優勝の栄冠に輝いた。

この年、落合の成績は怪我の影響もあり、シーズンを通してみれば、必ずしも満足できるものではなかった。
しかし、この絶対に負けられない大一番で球界屈指のエースを打ち崩した落合は、我々に4番バッターの神髄と命題に対する回答を教示してくれたように思う。


Mr.三冠王が現役時代を振り返る

まとめ

清原和博のFA騒動の末、落合は巨人から移籍した日本ハムで引退を決めた。
その最終打席は代打で出場し、現役生活を終える。

「代打で始まった野球人生。代打で終わるのが俺らしい」

孤高のバットマンとして腕一本で頂点を極めた、叩き上げの落合らしいコメントである。

思うに、野村克也が去りし野球界において、落合博満は野球の本質を知り尽くした数少ない慧眼の持ち主である。
これからも普通の野球人とは違う着眼点と切り口で、野球の醍醐味を伝えてほしいと思う。

“オレ流”を貫き、打撃の深奧を覗いた落合博満。
4番としての矜持を持ち続けたプロフェッショナルという言葉こそ、この男にはふさわしい。