忘れ得ぬ名テニスプレーヤー② 「天才」ジョン・マッケンロー





1968年にオープン化を果たし、1973年ATPランキングが導入された男子テニス界。
古くはボルグやコナーズ、平成以降ではサンプラス、フェデラーなど、伝説の王者が君臨した。

そして、観衆を惹きつけてやまない、才能にあふれた天才達も数多く存在した。
中でも、最も天稟に恵まれた選手といえば、彼を置いて他にはいないだろう。

「天才」ジョン・マッケンローである。

ジョン・マッケンローとは

ジョン・マッケンロー(米)は1959年2月16日生まれのテニスプレーヤーである。
1970年代後半から1980年代半ばまで、ボルグ・コナーズ・レンドルと覇権争いを繰り広げた。

1977年ウィンブルドンで、ノーシードながら準決勝まで勝ち上がる。
惜しくも当時の世界No.1ジミー・コナーズに敗れはしたが、その鮮烈なデビューは世界中にインパクトを与えた。

1979年全米オープンを弱冠20歳で初優勝したのを皮切りに、翌年以降次々とグランドスラムを制覇する。
そして、絶頂期を迎えた1984年までにウィンブルドン3回、全米オープンでも4回のシングルス優勝を果たした。

魔法のようなプレー

マッケンローといえば何といっても「天才」としか形容し難い、独特のプレースタイルだろう。

まず、サーブに目を見張らされる。
相手からすると背中しか見えないような態勢から、天性の柔軟性を活かしたフォームでスピードに乗ったサービスが飛んでくる。
元々、男子選手としては非力ながら、極端なクローズドスタンスによって強烈な体のひねりが加わり、腕力の無さをカバーしてあまりあった。
しかも、マッケンローはサウスポーということもあり、とりわけ右利き相手のバックハンド側に逃げていくスライスサーブは有効だった。

ネットプレーヤーのマッケンローだが、実はストロークも侮れない。
ときに、ボルグやレンドルを向こうに回しても、ストローク戦で押し込む場面も散見された。
強烈なトップスピンをかけるボルグや、強打を誇ったレンドルはガットのテンションを極限まで高くした。
一方、マッケンローは彼らの半分ぐらいのテンションの、緩いガットを好んで使用する。
このため、マッケンローのラケットを使用してフルスイングする場合、下手をするとショットが観客席まで飛んで行ってしまう。
彼のショットが柔かいタッチで全く力感がないのは、こんな理由があったのである。
だが、ハードヒットしなくてもライジングで打つため、相手にはすぐにボールが返ってくる。
その特有のストロークは「ショットではなくボレーの延長」とさえ言わしめた。

そして、マッケンローの才能が如実に表れたのがボレーだった。
今ではほとんど見られなくなったサーブ&ボレーを得意とし、ステファン・エドバーグと並び称されるボレーの名手といえるだろう。
エドバーグが流れるような基本に忠実なボレーだったのに対し、マッケンローのそれは誰も真似できない唯一無二のものだった。
特に繊細なタッチに操られたドロップボレーは、思わずため息がこぼれてしまう。
理解不能、解析不能の奇跡のタッチはテニスを芸術の域にまで昇華させた。

あれは、ウィンブルドンでのレンドル戦だった。
レンドルといえば1980年代最強のグラウンドストローカーで、その強烈なパッシングショットは多くのネットプレーヤーの心胆を寒からしめた。
マッケンローはいつものようにサーブ&ボレーでネットに詰めるが、待ってましたとばかりにレンドルは火を噴くようなサービスリターンで切り返す。
すると、マッケンローは全く慌てず、無造作にひょいとラケットを出した。
次の瞬間、魔法のタッチで完全に勢いを殺されたボールは、ネット際の相手コートにポトリと落ちているではないか!

まだ10代だった私は、目の前で繰り広げられるイリュージョンにしばし放心した。

悪童

マッケンローの代名詞といえば、“悪童”と揶揄されたコートマナーの悪さが挙げられる。
微妙な判定に納得がいかないと、瞬間湯沸かし器の如くキレ始める。
審判に対するあまりの罵詈雑言に、失格負けになったこともあるほどだ。
その姿に、伝統的なテニスファンは例外なく眉をひそめていた。

だが、どんなに怒鳴り散らしても、プレーに悪影響をもたらさないのがマッケンロー流である。
見事なまでの切り替えで、華麗なプレーを披露する。

もちろん褒められたものではないのだが、マッケンローの悪態はどこか憎めない。
それは、古き良きアメリカを描いた「トム・ソーヤの冒険」を彷彿とさせた。
ガキ大将のトムは、いつもイタズラをしては先生に叱られる。
そして、勉強嫌いのトムは黒板の前に立たされると、何ともユーモラスな態度で困り顔をしている。
なぜか、その姿が“やんちゃ坊主”マッケンローと重なった。

ライバル達

マッケンロー最大のライバルは“鉄人”ビヨン・ボルグである。
ウィンブルドン5連覇を達成し、全仏オープンも6度制覇したレジェンドだ。
両者はキャラクターも真逆である。
氷のように冷静沈着でカリスマ性漂うボルグと、悪ガキがそのまま大人になったような激情型のマッケンロー。
そんなふたりの対戦成績は7勝7敗と全くの互角である。

グランドスラムでは1980・1981年と2年連続で、ウィンブルドンと全米オープンの決勝で相まみえた。
とりわけ、1980年のウィンブルドンでの3時間55分にわたるフルセットの死闘は、テニス史に残る名勝負として語り継がれている。
だが、マッケンローは以後、グランドスラム決勝において3戦連続でボルグを破り雪辱を果たした。

そして、マッケンローに欠かせないライバルが、チェコのイワン・レンドルだ。
このふたりも全く対照的だった。
サーブ&ボレーのマッケンローに、ベースラインから強打を放つレンドル。
自由の国アメリカの雰囲気を纏ったマッケンローに、共産圏特有の陰鬱さを漂わせるレンドル。
繊細さも内包するマッケンローだが、レンドルに比べれば明らかに“陽”の雰囲気を醸し出していた。

両者の戦いといえば、思い出すのが1984年の全仏オープン決勝だ。
その年、82勝3敗で歴代年間最高勝率.965をマークしたマッケンローが、数少ない敗戦を喫したのがこの大会だった。
レンドルは今まで、グランドスラム決勝で4連敗していた。
得意のクレイコートとあってレンドル有利と思われたが、いきなり2セット連取されてしまう。

ところが、ここから世紀に残る逆転劇が起こった。
意地を見せたレンドルが第3セットを奪い返すと、第4・5セットとも7-5という際どい戦いを制したのである。
心身共に厳しいローランギャロスの赤土で、奇跡の大逆転を見せた“雷帝”イワン・レンドル。
初のグランドスラム戴冠は、さぞや格別だったことだろう。
しかし、その年の全米オープン決勝では、絶頂期を迎えたマッケンローがストレート勝ちで一蹴する。

実は、マッケンローはコナーズと覇を争った1982年ウィンブルドン決勝でも、フルセットに及ぶ激闘を演じ惜敗していた。

ボルグとの1980年ウィンブルドン。
コナーズとの1982年ウィンブルドン。
レンドルとの1984年全仏オープン。

いずれの決勝も、ライバル達にとって生涯のベストゲームとなった。
こうしてみると、マッケンローという選手は名勝負を奏でる芸術家だったことがよく分かる。
ライバル達の最高のパフォーマンスを引き出すマッケンローは、ある意味最高の千両役者と呼べるだろう。
だからこそ、その天才的なプレーと相まって、ファンを惹きつけて止まなかったのだ。

まとめ

1980年代前半、燦然と煌めく男子テニス界の主役だったジョン・マッケンロー。
芸術的なプレーと個性豊かなキャラクターで、どれほどのファンが魅了されたことだろう。

また、ダブルスの名手とも知られ、シングルスだけでなくダブルスでも世界一の座に就いた稀有な存在でもあった。

魔法のタッチで、テニスを芸術たらしめたマッケンロー。
二度と現れない天才は、どこか懐かしい古き良き時代の香りがした。


ボルグとマッケンロー テニスで世界を動かした男たち (
Kindle版)

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする