時を遡ること28年。
ノルウェーの地で、歴史的快挙が達成された。
1994年リレハンメル冬季五輪で、地元ノルウェーのヨハン・オラフ・コスが男子スピードスケート3冠に輝いたのである。
出場した全種目制覇であり、そのいずれもが世界新記録であった。
ヨハン・オラフ・コスが “地元ノルウェーの英雄”から、永遠に色褪せることのない“オリンピック史に残る英雄”になった瞬間だった。
リレハンメル’94―第17回冬季オリンピック・リレハンメル大会 IOC(国際オリンピック委員会)オフィシャル・スーベニールブック
ヨハン・オラフ・コスとは
ヨハン・オラフ・コスは、1968年10月29日にノルウェーで生まれたスピードスケートの選手である。
コスは長距離の選手というイメージが強いが、1500mでもオリンピックを連覇している。
コスを世界的に有名したのは、1992年アルベールビル冬季五輪でのことだった。
大会直前に手術をしながら、1500mで金、10000mで銀を獲ったのである。
そして、2年後のリレハンメル冬季五輪で3冠制覇を果たすなど、オリンピック通算4個の金メダルと1個の銀メダルを獲得する。
まさに、1990年代前半のスピードスケート界を牽引する象徴的存在だった。
リレハンメル冬季五輪
男子スピードスケートの中長距離界の第一人者となったコスだが、アルベールビル冬季五輪以降、必ずしも順風満帆とはいかなかった。
そのコスの前に立ちはだかったのが、“氷の魔人”リンチェ・リツマやバート・フェルトカンプらのオランダ勢だった。
しかし、コスは地元開催で盛り上がるオリンピックの舞台で完全復活を遂げる。
1500m、5000mで立て続けに世界記録を更新し、オランダ勢を全く寄せ付けない会心の滑りを見せつけた。
さらに、世界を震撼させたのが10000mのレースだった。
前半から果敢に攻め、世界記録を上回るラップを刻んでいく。
中盤以降になってもペースが落ちるどころか、驚異のタイムで加速する。
会場のハーマルオリンピックアリーナは、地元の英雄の力走に大歓声が沸き起こる。
同走者に影も踏ませぬまま、コスはゴールを駆け抜けた。
なんと!従来の記録を約13秒も縮める世界新記録を樹立したのだ!
コスがマークした13分30秒55というタイムをざっと計算すると、平均で1秒あたり約12.3m滑ることになる。
13秒縮めたということは、これまでの世界記録に約160mもの差をつけてゴールしたということだ。
魔法の靴といわれたスラップスケートの登場により4年後のオリンピックでコスの記録は更新されたが、20世紀中に破ることはまず不可能と言われていたのも納得である。
歴史的快挙に大会がクライマックスを迎える中、コスはインタビューを受ける。
オランダ勢の前に苦戦を強いられた、アルベールビル冬季五輪以降についての質問だった。
コスは言う。
「その期間は、より高く跳躍するための屈伸にすぎなかった」
私は、このコスのコメントに深い感銘を受けた。
オリンピックで頂点を極めたコスがオランダ勢の後塵を拝したのは、さぞかし屈辱だったことだろう。
だが、その苦しい期間を耐え忍び、来るべき日のために力を溜め、屈辱をバネに誰も手の届かない高みへと上り詰めたのだ。
実際は、“屈伸にすぎない”とコスが言うほど、簡単な道のりではなかったはずである。
不遇に身を置きながらも、倦まず弛まず研鑽を積めばこそ、コスの飛躍があったに違いない。
ヨハン・オラフ・コスは永遠の、そして不滅のオリンピックチャンピオンとして、私の胸に刻まれた。
新たな挑戦
私がコスに感銘を受けるのは競技実績だけでなく、戦争や貧困で苦しむ人々に寄り添う心を持っているからだ。
リレハンメル五輪開催時、1984年に冬季五輪が開かれたサラエボは血で血を洗う民族紛争により、阿鼻叫喚の地獄絵図と化していた。
これを受け、「サラエボを救う」をスローガンに、会場をはじめとする様々な場所に募金箱が設置され、広く寄付が募られる。
この時、先頭に立って選手や国民に募金を呼びかけたのが、ヨハン・オラフ・コスだった。
驚異の3冠を達成したコスの働きかけは大きなうねりとなり、マスコミや要人を動かし人々の善意の輪が広がっていく。
また、コスは人々の良心に頼るだけでなく、金メダルの報奨金に加え、オークションにかけた自身のスケート靴の落札代金まで寄付したのである。
だからこそ、コスの言葉は、より一層人々の心に響いたのだ。
コスがボランティア活動に目を向ける契機となったのは、慈善活動組織「オリンピック・エイド」の要請により、1993年に訪れたアフリカ・エリトリアでのことである。
エリトリアは30年にも及ぶ内戦の末、エチオピアから独立したばかりであった。
現地で目撃した光景に衝撃を受け、コスは呆然と立ち尽くす。
「長い戦禍に見舞われ、暴力と飢餓、貧困に喘ぎ、病気になっても満足に治療を受けることもできない子どもたち。話には聞いていたものの、これほどまでとは思いませんでした」
と同時にコスは思った。
「自分にはスケートに打ち込める環境が整っている。なんて恵まれているのかと。ここの人たちの境遇に比べたら、怪我やスランプなど大したことではない」
この境地に達したことが、翌年のオリンピックでの偉業につながったのかもしれない。
コスは子どもたちの輪に入り、一緒にボール遊びをする。
すると、ボールを追いかけるうち、彼らに弾けるような笑顔が戻った。
子どもたちのキラキラした目の輝きは、今でも忘れられない。
コスはその時、子どもたちにとってスポーツや遊びがいかに大切かということを学んだという。
オリンピックでの募金活動で中心的役割を果たしたコスは、その後も人道的支援に邁進し、「RTP(Right to Play)」というNGOを設立した。
ちなみに、Right to Playとは遊ぶ権利のことであり、スポーツや遊びを通して子どもたちの生きる力を育むことを目的としている。
コスは語る。
「オリンピックの精神と、それに伴う平和を希求する声明は国や人々を動かすことができるでしょう。しかし、それだけでは十分とは言えません。もっと、紛争で苦しむ人々のもとに足を運ぶべきです。そして、人々に直接、いかに平和的解決を望んでいるかを伝えるべきなのです」
こうしたコスの取り組みは多くの賛同を集め、慈善活動を支援するアスリートは確実に増えている。
まとめ
ここまで、ヨハン・オラフ・コスを紹介してきた。
スポーツの力を信じ、活動の輪を広げ続けるコスの生き方は、アスリートの枠を越えて我々の心を突き動かす。
偉大なるスピードスケーターにしてオリンピアン、ヨハン・オラフ・コス。
そんな彼は、素晴らしい人間性も相まって、いつしか“コス・ザ・ボス”の愛称で呼ばれるようになる。
ヨハン・オラフ・コスの物語が神話へと昇華した、1994年のリレハンメル。
あの日、ハーマルのリンクを疾走したコスの雄姿は、4年に1度オリンピックの季節が訪れるたび、時代を越えて甦る。