世界には、数多の名ゴルファーたちが存在する。
その中には、素晴らしい人柄でギャラリーを魅了する選手もいる。
東京五輪で金メダルを獲得したザンダー・シャウフェレや、ミリオンダラー・スマイル(100万ドルの笑顔)と称えられるマット・クーチャーなどが代表として挙げられるだろう。
そして、私には今もなお、素晴らしい笑顔と人柄が忘れられぬ往年の名ゴルファーがいる。
その選手の名は“新帝王”トム・ワトソンである。
トム・ワトソンとは
トム・ワトソンは1949年9月4日にアメリカで生まれる。
ワトソンは学業も優秀で名門スタンフォード大学を卒業した。
ゴルファーの中には在学中にプロへと転向する者も少なくないが、きちんと卒業してからプロ入りするところがワトソンらしい。
私がワトソンを初めて見たのは小学生の頃だった。
何ともいえぬ素晴らしい笑顔を湛えながら小気味良いプレーでラウンドする姿に、子どもながらに一発でファンになってしまう。
以来、私は一貫してトム・ワトソンに深い敬意を抱き続けている。
ワトソンは温厚篤実な人柄に加え、そのキャリアにも目を見張らされる。
25歳で初出場した1975年の全英オープンでの優勝を皮切りに、1983年までに4大メジャー大会を8度制覇している。
また、PGAツアーで4年連続を含む5回の賞金王にも輝いた。
当時のワトソンは疑いようもなく、世界No.1プレーヤーとしてゴルフ界を席巻した。
ワトソンは175㎝と小柄ながらも当代きっての飛ばし屋として鳴らし、アイアンショットやパッティングも超一流と死角が見当たらない。
その攻撃的なプレースタイルは、多くのファンを魅了した。
グリーン上では決まってカップをオーバーするような、強気なパッティングに終始した。
「成功の確率を倍にしたければ、失敗の確率も倍にすることだ」
ワトソンは常に、この言葉を座右の銘にしてプレーしていたのである。
私は、もう一つワトソンのコメントで感銘を受けたものがある。
それは「手抜きすれば、敗北を認めてしまう姿勢ができてしまう」という言葉だ。
思えば、ワトソンはいつも最善を尽くしてコースに臨んでいた。
この箴言は、何もゴルフに限ったことではないだろう。
我々凡人こそ、この戒めを胸に刻んで日々を過ごしていきたいものである。
素晴らしい人格者
長年、ワトソンはボランティアにも熱心に取り組んできた。
特に、子どものための活動に力をいれている。
チャリティートーナメントを開催し、小児病院や学校に多額の寄付を行うなど枚挙に暇がない。
これは「小さい時から最低限の人としてのマナーを身に付けることは必要だ。しかし、子どもにはのびのびと育って欲しい」という思いがあるからだ。
このワトソンの発言を聞き、私は合点がいく。
石川遼が16歳で早々とプロ入りを表明した際、「10代という人生で1番素晴らしい時に、何故そんなに急いでプロに転向するのか」というコメントを残していたからである。
10代というかけがえのない時期にしか体験できないことがある。
その二度と戻らぬ、人生で最も輝く季節を大切にしてほしい。
そんなワトソンの声が聞こえてくるようだ。
私には忘れられないエピソードがある。
それは、1983年の全英オープンのことだった。
ワトソンは8アンダーの首位タイで、最終日の15番ホールを迎えていた。
グリーン上で慎重にラインを読む“新帝王”。
約3.5mのバーディパットを入れれば、単独トップに立つからだ。
ワトソンはパッティングの構えに入る。
固唾を呑んで見守るギャラリー。
すると、張り詰めた緊張感に耐えきれず、こともあろうか幼い子どもが泣き出してしまった。
勝負処での我が子の失態に、父親は非難の視線に身をこわばらせながらも、必死に子どもを庇おうとする。
この時、父親は世界中を敵に回したような絶望的な気持ちだったに違いない。
ところが、次のワトソンの言葉は誰も予想だにしなかった。
「オー、うちの子と同じ泣き声だ。坊やの声を聞いたら、おじさんもパットを投げだして家に帰りたくなっちゃったよ」
ニッコリと笑うワトソン。
その一言で、殺伐としたギャラリーの中に温かい空気が流れた。
ワトソンの態度に、親子はどれほど救われたことか。
「ゴルフこそ紳士のスポーツである」という信念を持つトム・ワトソンならではのエピソードである。
そのパットを外したワトソンだが、次のホールでバーディを奪い、見事5度目の全英オープンチャンピオンに輝いた。
全英オープンでの雄姿再び
1970年代半ばから1980年代にかけての約10年間、“新帝王”として君臨していたトム・ワトソン。
しかし、30代半ばでイップスになると、長きに渡りスランプに陥ってしまう。
あれだけ強気に打っていたパットが弱々しくカップの手前で止まり、グリーン上で苦悶の表情を浮かべるワトソンの姿は見るに忍びなかった。
ところが、あと数ヶ月で還暦を迎える2009年、ワトソンは世界をあっと言わせる。
その年の全英オープンは初日から悪天候に見舞われ、タイガー・ウッズをはじめとする有力選手たちも苦戦を強いられていた。
そんな中、ワトソンは熟練の名人芸で難コースを攻略していく。
最終日最終ホール、ワトソンは約3mのパットを残していた。
これを決めれば、26年ぶりとなるメジャー制覇である。
だが、無情にもパットは外れ、プレーオフでも敗れたワトソンは59歳での史上最年長優勝を逃してしまった。
だが、そこは“古き良きアメリカの良心”トム・ワトソンである。
勝者のスチュワート・シンクに対して清々しい笑みを浮かべながら、健闘を讃え祝福した。
そんなワトソンの敗戦に、誰よりも哀しみに暮れたのが盟友・青木功であった。
世界の檜舞台で鎬を削るうちに心を通わせ、ワトソンが来日すると家族ぐるみで食事に出かけるなど、親交を深めていく。
青木は例年通り、現地で解説陣の一員としてワトソンの戦いを見守った。
試合後、青木はワトソンの敗戦に涙する。
青木功の哀しくも寂し気な姿は、多くの人々の心を打ったのではないか。
だが、敗れたとはいえ世界中のゴルフファン、とりわけ中高年を勇気づけたのも事実である。
私は、ゴルファーという枠を超越して一人の人間として尊敬に値するトム・ワトソンが、世の人々にその素晴らしさを知ってもらえたことが何よりも嬉しかった。
親友 ブルース・エドワーズ
ワトソンには30年間、キャディとして共に大舞台で戦い、プライベートでも親友となった人物がいた。
その男の名をブルース・エドワーズという。
ふたりの出会いは、ワトソンのプロ2年目のことである。
トム・ワトソン23歳、ブルース・エドワーズに至っては18歳という年齢だった。
当時のキャディはゴルフクラブを運ぶだけというのが当たり前の時代にあって、ブルースはコース攻略のための分析を行い、アドバイスを送っていた。
また、時には叱咤激励し、ワトソンを鼓舞する役割も担っていたのである。
文字通り、選手と一緒に二人三脚で戦うパートナーと呼べるだろう。
こうして、ワトソンは“新帝王”としての地位を着々と築き上げていったのである
しかし、ワトソンは低迷の時期を過ごすようになると、他の有力選手のキャディにつくよう諭した。
こうしたこともあり、ふたりは袂を分かつこととなる。
そして、ブルースは当時の世界No.1プレーヤーのキャディとして順調にキャリアを積む一方、ワトソンは苦難に喘いでいた。
ところが、ブルースは再びワトソンのもとに戻る決意をする。
ワトソンは翻意するよう説得するが、「もう一度、君と最高の舞台に立ちたいんだ!」というブルースの熱意に負け、再びコンビを結成した。
ワトソンは当時を振り返る。
「もちろん驚いたけど、本当に嬉しかった」
イップスの克服は困難を極めたが、ワトソンはブルースの献身もあり、9年ぶりにツアー優勝を飾った。
しかし、恐るべき魔の手が忍び寄っていた。
ブルースに難病ALS(筋萎縮性側索硬化症)が発症したのだ。
余命宣告を受け絶望し、キャディの辞退を申し出るブルースにワトソンは言い放つ。
「諦めるのか!ふたりで最高の舞台に立つんじゃないのか!ブルース、君と一緒に立ちたいんだ!」
翌年、全米オープンの舞台に立つふたり。
53歳のワトソンは、全盛期を彷彿とさせるプレーで初日トップに躍り出る。
ブルースも歩行すらままならない体で、キャディとしての任務を全うする。
結局28位で試合を終えたワトソンとブルースに、ギャラリーから割れんばかりの拍手と大声援が送られた。
間違いなく、大会の主役はふたりだった。
翌2004年4月8日、ブルース・エドワーズは49歳という若さで旅立った。
奇しくもその日は、ブルースが最も愛したマスターズの開幕日である。
訃報の知らせを聞いたワトソンは、オーガスタでの戦いに全力を尽くした。
親友がそれを望んでいたからだ。
生前、ブルース・エドワーズが語った言葉を紹介する。
「トムと出会ったことが、僕の人生で最高の出来事なんだ。たとえ同じ病気になったとしても、もう一度同じ人生を歩みたいと思う。僕は本当にラッキーなんだ!」
まとめ
ジャック・ニクラウスの後継者として、全米のみならず世界のゴルフシーンの頂点を極めた“新帝王”トム・ワトソン。
だが、30代半ばでイップスによるスランプに陥り、それ以降、4大メジャーを戴冠することはなかった。
そして、その苦境にあって愛妻との離婚を経験し、親友にして盟友でもあったブルース・エドワーズとの永遠の別離も訪れた。
そんな艱難辛苦の時を過ごしながらも、トム・ワトソンは含蓄のある微笑みをついぞ絶やすことはなかった。
全英オープンやマスターズ等のメジャーを制しことよりも、私にはそのことの方が価値あるように思える。
“古き良きアメリカの象徴”トム・ワトソン。
きっと、私は彼の名を耳にするたび、あの素晴らしい笑顔を思い出すだろう。