「ACミランの魂」フランコ・バレージ





世界的DFを輩出し続ける“カテナチオ”の国イタリア。

そんな精鋭揃いの名手達にあって、傑出したキャプテンシーと技術でチームを牽引したのがフランコ・バレージである。

生涯ACミランに忠誠を誓った彼は、チームの愛称にちなみ「ロッソ・ネロの魂」と呼ばれた。

唯一無二のキャプテンにしてチームの象徴という言葉が誰よりも似合う、フランコ・バレージの物語を紹介する。

フランコ・バレージとは

フランコ・バレージは1960年5月18日にイタリアのトラヴァリアートで生まれる。
現役時代はリベロとしてチームを統率した。

10代前半にセリエAに所属するクラブの入団テストを受けるも、小柄な体格もあり次々と不合格の憂き目に遭う。
そんな中、手を差し伸べたのがACミランだった。
すると、下部組織で鍛えられたバレージは天性の才能が花開き、18歳でトップチームのレギュラーを獲得する。
そして、その年、早くもセリエAで優勝の美酒を味わった。

ところが、バレージのサッカー人生に暗雲がたちこめる。
1980年、カルチョの八百長賭博に加担したとして、ペナルティを受けたACミランはセリエBに降格させられてしまったのである。
翌年、セリエAに1年で復帰を果たしたが、不調を極めたミランは再び降格してしまう。
これは、セリエBに陥落したことに加え、スキャンダルの影響によりクラブの財政が逼迫し、主力選手が次々と他チームへと移籍してしまったからである。

当然、イタリアでも屈指のDFに成長したバレージにも、好条件のオファーが舞い込んだ。
ところが、フランコ・バレージは数多のオファーを全て断り、ミランに残留する決断を下す。
それはひとえに、入団テストを立て続けに落ちた10代の若き日に自分を拾ってくれ、ここまで育ててくれたチームへの感謝を忘れなかったからである。

この逸話を聞いた私は、フランコ・バレージの人間性に涙した。

14歳でミランに入団したバレージだが、ほぼ時を同じくして父親を亡くしてしまう。
実は、幼少時に母親も他界しており、その若さで両親を失ったのだ。
その苦難の中、自らに居場所を与えてくれ、そして拠り所となったのがACミランだったのである。

こうした背景があればこそ、フランコ・バレージは自らのキャリアを犠牲にしてまで、チームに残ったのではないか。
律儀な彼らしいエピソードである。

グランデミラン

1980年代前半、暗黒時代を極めたミランに転機が訪れる。
後にイタリア首相となるベルルスコーニがチームを買収し、会長に就任したのだ。
すると、財政難に陥っていたミランはベルルスコーニの潤沢な資金力により財政状況が好転し、一気に大胆な補強に打って出た。

とりわけ、世界中にインパクトを与えたのがマルコ・ファンバステン、ルート・フリット、フランク・ライカールトのオランダトリオである。
その強力な攻撃陣を獲得したチームは、アリゴ・サッキ監督が提唱するゾーンプレスという前線から激しいプレスをかける革新的戦術を用い、「グランデミラン」と呼ばれる黄金期を迎える。

だが、そうそうたるスター軍団にあって、ゾーンプレスのキーマンとして戦術を機能させ、鉄壁のディフエンスラインを築いたのが、“キャプテン”フランコ・バレージであった。
リベロというチームの舵取り役の重責を担うには、高い戦術眼と鋭い読みが必要とされる。
まさに、フランコ・バレージこそ、これらの資質を兼ね備えた選手だったのである。

176㎝しかない小柄なバレージだが、こうした実績からイタリア史上最高のDFと謳われるのも当然のことだろう。
そして、フランコ・バレージは今もなお、「ACミランの魂にしてアイコン」と呼ばれ続けるのである。

1994年アメリカワールドカップ

34歳のバレージにとって、本大会が最後のワールドカップ出場となった。
だが、バレージにアクシデントが襲う。
1次予選のノルウェー戦で膝を負傷してしまったのである。
その怪我により、欠場を余儀なくされた。

バレージを欠いたイタリア代表は苦戦続きであったが、“イタリアの至宝”ロベルト・バッジョの活躍もあり、決勝戦に進出する。

そして、そこで我々は信じがたい光景を目撃した。
今大会の出場が絶望視されていたはずのバレージが、ピッチに立っているではないか。
なんとバレージはアメリカに残り緊急手術を敢行し、必死のリハビリを経て復帰したのである。
ノルウェー戦での退場から、その間わずか24日後であった。

試合が始まると、ロマーリオとベベトの2トップを中心にブラジルが猛攻撃を仕掛けた。
だが、卓越した深い読みと数々の修羅場を潜り抜けてきた経験をもってして、フランコ・バレージはその強力2トップを完璧に抑え切った。
怪我による欠場明けとは思えぬバレージの獅子奮迅の活躍に、イタリア国民だけでなく世界中の人々が胸を熱くする。

結局、0-0で決着がつかずPK戦にもつれ込んだ激闘は、ブラジルに凱歌が上がる。
しかし、試合中に足を攣りながらも不屈の闘志で得点を許さなかったフランコ・バレージこそ、間違いなくこの試合のMVPであった。

敗れたとはいえ、今大会のイタリア代表は素晴らしかった。
予選で怪我を負いながらも、共に戦い抜いた仲間を信じて、決勝の舞台に間に合わせたフランコ・バレージ。
バレージの執念にも似た思いを胸に、幾度となく訪れた絶体絶命のピンチを凌いで勝ち進んだアズーリの戦士達。
深い絆があればこそ、本大会での躍進とファイナルでの魂のプレーにつながったに違いない。

まとめ

サッカー選手としてだけでなく、一個人としても人格者で知られるフランコ・バレージ。
そんな彼は、アジア人として初めてセリエAの舞台に立った“キング・カズ”こと三浦知良との接触プレーで、鼻骨骨折をはじめとする大怪我を負わせてしまう。
試合後はもちろん、後年再会した際にも何度も謝罪を重ねた。
サッカーに怪我はつきものであるにもかかわらず、こうした姿勢からもバレージの誠実な人柄が窺える。

また、チームが栄光にある時だけでなく、どん底に喘ぎ次々と主力が去っていく中、恩義に報いるため生涯にわたり忠義を捧げもした。
その功績を称え、バレージが身に着けていた背番号「6」は永久欠番になっている。

偉大なるフットボーラーにして“ACミランの魂”ことフランコ・バレージ。
世の中には金やステータスよりも大切なことがあることを、身をもって示した姿に深い感銘を覚えずにはいられない。 

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