「パリ五輪」柔道女子52㎏級2回戦、優勝候補の大本命・阿部詩が敗れる波乱が起こった。
その直後、呆然自失となる阿部詩は、畳を降りても号泣し続けた。
この振る舞いが物議を醸すこととなる。
一方で、勝者のディヨラ・ケルディヨロワの武道家然とした態度が、多くの人々から称賛を浴びた。
日本人よりも“柔の心”を継承する姿が共感を呼んだのだろう。
本稿では、個人的に感じた所感を述べてみる。
旧態依然の柔道関係者
阿部詩が敗れた直後、畳の下で泣き叫ぶ姿を見た方も多いだろう。
試合内容も良かっただけに、一瞬の間隙を突かれたような敗戦はさぞや無念だったに違いない。
しかし、そこは勝負事、それもオリンピックという舞台では何が起きても不思議はない。
しかも、今回の対戦相手は世界ランキングNo.1であり、そもそもとして楽勝ムードを漂わせる方がおかしいのだ。
その証左としてケルディヨロワは団体戦で、1階級上の“銀メダリスト”フ・ミミに開始1分足らずで完勝している。
東京五輪では、阿部詩ですら1階級上の選手に敗れているというのに…。
私は、試合直前に発した解説者・穴井隆将の言葉に違和感を覚えた。
アナウンサーから対戦相手・ケルディヨロワとの比較を問われ、穴井はとうとうと持論を述べていく。
「ケルディヨロワは本階級においては非常に強い。本来ならば決勝で当たってもおかしくない選手である。しかし、実力的には阿部詩の方がかなり上だ。ですから、その辺を含めてご覧いただきたい」
字面にすると、日本選手が登場したときの常套文句にしか聞こえない。
だが、私だけかもしれないが実際に聞いていて感じたのは、何か穴余裕綽々というか相手の強さを認める体をとりつつも、言外に滲み出る慢心だった。
特に“その辺を含めてご覧いただきたい”という言葉には、そのときの穴井のトーンと相まって不快に感じた。
同じ日本選手の有利を伝える場合でも、大野将平の「〇〇選手の方が実力は上だと思います。ですが、相手も実力者ですので油断はできません」という解説との違いがお分かりいただけるだろうか。
私は穴井隆将のこの発言を聞いたとき、1992年バルセロナ五輪・男子95㎏超級決勝における柔道関係者の言葉を思い出す。
それは優勝候補の小川直也と対戦する、ハハレイシビリ(露)への非礼極まる言葉だった。
「ハハレイシビリが相手なら1万回(100万回だったかも)やっても、小川は負けませんよ」
ハハレイシビリは小川に次ぐ金メダルの有力候補であり、戦前の予想でも小川と決勝で戦うのは彼だという声が大勢を占めていた。
事実、その関係者もそう予想していたにもかかわらず、これだけ不遜と傲慢を絵に描いた発言に、当時学生だった私は呆れ返ってしまう。
結果は試合開始1分あまりで、ハハレイシビリが合わせ技一本で完勝した。
もちろん、今回の穴井の言葉はそこまで酷くはない。
だが、両者に共通するのはどこか旧態依然的なアマチュアスポーツの文脈を引きずる俺様体質だ。
穴井の解説は明瞭で我々一般人にも分かりやすく、審判の不可解な判定にも忖度なしに言及する姿は多くのファンから賛同を得ている。
私も、大野将平の少し冗長な話ぶりよりも、穴井隆将の解説の方が聞きやすい。
しかし、ときに垣間見えるマウント気質が、気になるのも事実であった。
阿部詩への所感
ここから先、阿部詩ファンの方はブラウザを閉じた方がいいかもしれない。
元々、私は彼女を嫌いまではいかないが、そこまで好きにはなれなかった。
大野将平や永瀬貴規など、いかにも“日本柔道の体現者”といった風情の選手が好みだからである。
今回の騒動を観て、さらにその思いは強まった。
試合直後、コーチの胸で号泣する阿部詩の姿に、とても不快な気分になった。
号泣などという言葉は生ぬるい、何分間も絶叫を繰り返す姿。
私はスポーツ観戦が趣味ということもあり、アスリートたちの数多の涙を拝見してきた。
勝者の涙以上に、敗者の涙は胸を打たれる。
オリンピック以外でもテニスのウィンブルドン決勝、ゴルフのマスターズや全英オープン、ほかにもワールドカップや野球など挙げだしたらキリがない。
どの選手も涙の向こうにある苦難の道程が垣間見え、不快に感じたことなど記憶にない。
それこそ人生を懸けて戦ったからこそ、我々とは比べものにならない心の強さを持つ彼ら彼女らが、あふれ出る涙を堪えきれないのだから。
翻って、今回の阿部詩の姿には微塵も心を動かされなかった。
デパートで我儘放題の子どもが思い通りにならず泣き喚き、周囲をドン引きさせる光景と被ったからだろうか。
うまく言語化できないのだが。
今回の一件で散見されたのが、あの場所ではなく控室に戻って泣けばいいというコメントである。
一見すると正論だが、必ずしも私はそうは思わない。
3年という歳月の長さを考えれば、畳の下で涙を流すことも致し方ないと思う。
やはり、長時間にわたって居座り続けたことに加え、会場中に響くあの耳障りな絶叫が人々の批判を集めたのではないか。
人は何かあると、後からもっともらしい理由を付けて批判する。
結局は錦の御旗、大義名分が欲しいのだろう。
だが私の場合、心の中にある感性や叡智といった類のものが、阿部詩の行動を受け入れられないだけなのだ。
無理に言葉にする必要はなく、心の声に耳を傾ければよいのではないか。
ディヨラ・ケルディヨロワへの所感
あまり経験したことのない感情を抱いた私にとって、一服の清涼剤の如き存在がディヨラ・ケルディヨロワであった。
あのシーン、ほとんどの外国人選手なら体いっぱいを使って喜びを表現しただろう。
だが、まるで敗者のような険しい表情を崩さずに、畳にへたり込む阿部詩をじっと待っている。
そのときのことをケルディヨロワは述懐する。
「彼女はレジェンドであり、完璧なチャンピオンです。私は試合を全て終えるまで表情を変えたくなかったし、彼女をとても尊敬しているから喜びたくなかったのです」
事実上の決勝戦で、目標にしていた阿部詩を破ったのである。
にもかかわらず、こうしたメンタリティを持ちえるのは、柔道の精神「自他共栄」を内包するからではないか。
自分だけでなく相手も大切にするからこそ、尊敬と敬意の念を抱けるに違いない。
そんなケルディヨロワが表彰式で見せた涙。
それは真に心震える感動的なものだった。
視野の限界
私は少々、意外に感じたことがある。
思っていた以上に、阿部詩への擁護が多かったのだ。
もちろん、少しはあると思っていた。
何事にも例外はあるのだから。
擁護派の意見としては、「それだけ頑張ってきたからこそ、あれだけ泣けるのだろう」というものが多かった気がする。
一理あるが、人生を懸けてオリンピックの檜舞台に立っているのは、なにも阿部詩だけではあるまい。
オリンピック本番だけでなく、国の代表になるまでの過程も含めれば、ただ一人を除き誰もが必ず敗れ去る。
だが、阿部詩ほどの物議を醸す振る舞いは見当たらない。
なぜ、阿部詩だけが特別扱いされるのか…私には理解できなかった。
しかし、時間の経過とともに、あることに気付く。
人間、あるいは世の中は複雑系であり、多面的に構成されている。
今回の件だけでなく、ありとあらゆることで見解が分かれるのは、人によって見ている面が違うからではないか。
別の言い方をすれば、どこを切り口にして判断し、重要視するのかが分かれるからだろう。
きっと俯瞰して全ての面を見ることができれば分断は起きず、冷静に相手の意見も受け止められるのかもしれない。
しかし、それは人それぞれが持つ価値観という色眼鏡に左右されるため難しい。
ドイツの哲学者・ショーペンハウアーはかく語る。
「誰もが自分の視野の限界を 世界の限界だと思い込んでいる」
おそらく、自分の考えに凝り固まり、阿部詩のみならず擁護派にも不快感をもよおす私にも、このショーペンハウアーの箴言は当て嵌まるのだろう。
つまり、阿部詩を擁護する人たちにも一理あり、非難するには当たらないというのが私の結論だ。
起きた事象に対して素直に感じる心情を責める権利は誰にもないのである。
只々、価値観と感性が違うだけなのだ。
それにしても、ディヨラ・ケルディヨロワの心技体は金メダルに相応しい。
男子66㎏級のデニス・ビエル共々、心に残る柔道家だった。