「サンシーロの羽」マルコ・ファン・バステン ~神は8日目にマルコを創造した~





人口わずか1700万人にもかかわらず、数々のストライカーを輩出するサッカー大国オランダ。
ヨハン・クライフ、デニス・ベルカンプ、パトリック・クライファート、ファン・ニーステルロイ、ファン・ペルシなど、数え挙げたらキリがない。

そんなワールドクラスの強者たちの中にあって、オランダ史上最高の“ストライカー”といえば、この男を置いて他にいないだろう。
かつて、ACミランサポーターから「サンシーロの羽」と謳われたマルコ・ファン・バステンである。

その比類なきプレーを目の当たりにした人々は旧約聖書に登場する天地創造にちなみ、畏敬の念を込めてこう言った。

「そして、神は8日目にマルコを創造した」

マルコ・ファン・バステンとは

マルコ・ファン・バステンは、1964年10月31日にオランダのユトレヒトで生を受けた。
彼が「ユトレヒトの白鳥」の異名を持つのは出身地に由来する。

17歳のときアヤックスでプロデビューを果たすと、いきなりゴールを挙げる。
途中出場だったが、その際に交代した選手が憧れのヨハン・クライフだった。
ちなみに、クライフ自身がファン・バステンを指名したともいわれている。
その後、オランダリーグで4年連続得点王になるなど、ヨーロッパ屈指の点取り屋に成長していった。

1987年からACミランに移籍すると、セリエAやUEFAチャンピオンズカップ(チャンピオンズリーグの前身)で得点王に輝き、チームを優勝に導いた。
そして、獅子奮迅の活躍が認められ、3度のバロンドールも獲得した。

マルコ、そしてオランダへの憧憬

私はオランダ代表のファンである。
特に、1998年のフランス・ワールドカップはデニス・ベルカンプを中心に、スぺクタルで美しいフットボールを展開した。
とはいえ、真のファンといえたのはデニス・ベルカンプが代表を引退する2000年までだったのだが。

そんなオランダサッカーに魅せられた私には、忘れられない選手が3人いる。
最も好きな選手は、先にも挙げた“飛ばないオランダ人”デニス・ベルカンプである。
2人目は、“トータルフットボールの体現者”ヨハン・クライフだ。

そして、3人目の選手こそ、“聖マルコ”ことマルコ・ファン・バステンである。
若き日、私の世代ではマラドーナが圧倒的なカリスマだったが、個人的にはファン・バステン一択である。

当時の私は、それほどサッカーを熱心に見ていたわけではない。
だが、後にファン・バステンのプレーを目にし、世界の広さを痛感する。
188㎝の長身を誇るファン・バステンは高さを活かし、ヘディングに秀でていた。
さらに特筆すべきは足元の柔らかいテクニック、軽やかで素早い身のこなしから繰り出す巧みなドリブル、そして威力・正確性とも申し分ないシュート。
オーバーヘッドをはじめとするアクロバティックなシュートに加え、左右どちらの足でもゴールを狙える圧倒的な得点感覚は、相手チームからすれば脅威以外のなにものでもない。
高さ・速さ・テクニックの全てを兼ね備えたファン・バステンこそ、まさに不世出の万能型ストライカーといえるだろう。

気が付くと、そんなマルコに私はある種の憧憬を抱いていた。
それを端緒として、ヨハン・クライフの伝説を紐解き、デニス・ベルカンプの神技トラップにため息をつき、オランダ代表が奏でるトータルフットボールへと傾倒していく。

つまり、マルコ・ファン・バステンは私の前に突如現れた、オランダ代表へのロマンをかき立てる水先案内人だったのだ。

「グランデ・ミラン」の栄光

グランデ・ミランを日本語に訳すと「偉大なるミラン」である。
これは1980年代後半~1990年代前半に、黄金期を築いたACミランを讃えた呼称である。

実は、そのミラン。
1980年代初頭、八百長試合がきっかけとなり、暗黒時代に突入した。
しかし1986年、イタリア首相も務めたベルルスコーニがオーナーに就任すると、潤沢な資金を投入しチームを改革していった。

監督に招聘されたアリゴ・サッキが提唱した「ゾーン・プレス」という、プレッシングサッカーへの戦術転換。
チームの生え抜きで精神的支柱となった「ロッソネロの魂」フランコ・バレージ。
そこにフリット、ライカールト、ファン・バステンのオランダトリオを新たに獲得し、攻撃と守備を融合させていった。
こうして、ACミランは世界最強チームへと突き進む。     

その「グランデ・ミラン」で、攻撃の要となったのがファン・バステンである。
移籍1年目こそ怪我の影響もあり不調をかこったが、2年目以降は手が付けられなくなっていく。
1988年、ヨーロッパ選手権における圧巻のパフォーマンスを評価され、初のバロンドールを受賞する。
翌1989年も、UEFAチャンピオンズカップ(チャンピオンズリーグの前身)で得点王に輝くなどチームを優勝に導き、2年連続でバロンドールを獲得した。

そして1992年、セリエAの得点王になるなどチームのスクデット獲得の原動力となり、3度目のバロンドールに輝いた。
これは当時としては、クライフとプラティニに並ぶ歴代最多記録である。

ピッチを去って約30年になるが、今なおファン・バステンを史上最高のストライカーに推す声も散見される。


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1988年ヨーロッパ選手権

ファン・バステンは意外にも、クラブに比べ代表での活躍はそこまで華々しくない。
代表戦58試合で24ゴールは立派な成績ではあるが、彼の実力からすれば物足りない。
事実、ワールドカップでは1990年イタリア大会しか出場しておらず、4試合でノーゴールのリザルトに終わる。

そんなファン・バステンが代表で最も輝いたのは、1988年のヨーロッパ選手権である。
足首の怪我の影響で所属先のACミランでも活躍できず、今大会も控えにまわっていた。
グループリーグの初戦、ファン・バステンを欠くオランダは、いきなりソ連に敗れてしまう。
グループリーグ敗退の危機に瀕したオランダは名将リヌス・ミケルスの決断のもと、第2戦のイングランド戦でファン・バステンを起用する。
すると、鬱憤を晴らすようにハットトリックを叩き出し、チームを牽引するファン・バステン。
エースの活躍で勢いに乗ったオランダは、グループリーグを突破した。

決勝トーナメント準決勝・西ドイツ戦での激闘の中、ファン・バステンが決勝ゴールを決める。
やはり、オランダの快進撃には“オランダの柱石”が欠かせない。

ついに迎えた決勝。
相まみえるは、グループリーグで不覚を喫したソ連である。
だが、グループリーグと決勝では、たった一つだが決定的に違うファクターが存在した。
それはマルコ・ファン・バステンの存在の有無である。

そして、ヨーロッパ選手権史上に語り継がれる伝説のゴールが誕生する。
それは間もなく、後半の10分が経とうとしたときだった。
右サイドへ駆け込むファン・バステンに、滞空時間の長いクロスボールが上がった。
そこはゴールまで全く角度がないエリアであり、シュートを成功させる確率は絶望的である。
なにしろゴールの枠を捉えても、キーパーを抜くスペースが無いのだ。
しかも、敵のゴールキーパーは“鉄のカーテン”と称されたリナト・ダサエフなのである。

だが、ファン・バステンにはゴールへの道筋が見えていた。
迫り来るボールにファン・バステンは迷わず、右足をダイレクトで振り抜いた。
すると、ジャンプしたダサエフの上を越えたシュートは、強烈なドライブ回転で落ちながらゴールネットを揺らした。

マルコ・ファン・バステンは一瞬の閃きで、190㎝に届こうかというキーパーの頭上を狙ったのである。
ゼロ角度からボールをダイレクトボレーで捉え、ドライブ回転までかけるテクニックと咄嗟の判断力。
その衝撃は、1974年ワールドカップ・ブラジル戦におけるヨハン・クライフのジャンピングボレーシュートや、1998年ワールドカップ・対アルゼンチン戦でのデニス・ベルカンプが披露した、レンブラントの筆さばきを思わせる魔法のようなトラップと歴史的ゴールにも匹敵するものだった。

しかし、改めて振り返ると、げに恐ろしきはオランダ代表のFW陣である。

こうして、大会5得点をあげたファン・バステンは得点王に輝くとともに、オランダ史上初となるビッグタイトルを獲得した。

まとめ

数々の栄光に彩られた「サンシーロの羽」マルコ・ファン・バステン。
1980年代後半から1990年代初めにかけ、3度バロンドールに輝いたその男は間違いなく、世界最高のストライカーであった。

だが、卑劣な壊し屋たちから度重なる悪質なファールを受け続け、ファン・バステンは実質28歳の若さでピッチからの退場を余儀なくされる。
地元のファンたちはマルコのいないグラウンドを見つめ、寂寥の思いを募らせた。
そして、ついに「マルコのいないサンシーロは羽のない風車だ」と書かれた横断幕を掲げ出す。
あまりにも早いファン・バステンの引退に、ミラニスタだけでなく世界中が悲しんだ。

マルコ・ファン・バステン。
天地創造になぞらえた英雄の物語は、あの日神話へと昇華した。

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