銀盤の女王③ イリーナ・スルツカヤ ~偉大なるロシアの未完成交響曲~




2006年、イタリアのトリノで開催された冬季オリンピック。
この大会は、私にとって喜びと哀しみが交差する筆舌に尽くし難いものとなった。

最終日を迎え、日本の金メダルなしという状況の中、フィギュアスケート女子シングルで荒川静香が金メダルを獲得する。
抜群のプロポーションによく映えるブルーの衣装を纏った荒川静香の演技は、名曲「トゥーランドット」の美しい旋律と一体となりながら、リンクの上をのびやかに滑っていく。
演技終盤、彼女の代名詞レイバック・イナバウアーのポーズを決めると、会場から万雷の拍手が鳴り響いた。

時差もあり、明け方未明にテレビ観戦していた私は、荒川静香の会心の演技に胸がいっぱいになる。
同じ日本人として、とても誇らしく思えた。

しかし、日本列島に歓喜の輪が広がる中、私は胸中に複雑な思いも抱いていた。
なぜならば、26歳で迎えた3度目となる最後のオリンピックで、またしても金メダルに届かなかった銀盤の女王がいたからだ。
その選手の名を、イリーナ・スルツカヤという。

イリーナ・スルツカヤとは

イリーナ・スルツカヤは1979年2月9日、ロシアで生まれたフィギュアスケーターである。
あらゆる要素に秀でていたが、特に柔軟性を活かしたビールマンスピンに定評があった。

欧州選手権を制覇し、18歳で初出場した長野オリンピックでは5位入賞を果たす。
以後、世界選手権で2度、グランプリファイナル4度、欧州選手権で7度優勝するなど、長らく女王の座をミシェル・クワンと争っていた。
グランプリファイナルを含むグランプリシリーズ通算17回の優勝は、女子シングル史上歴代最多記録である。

オリンピックでは、2002年のソルトレークで銀、2006年トリノでは銅メダルを獲得した。

初めて観た衝撃の演技

私が彼女を初めて観たのは、1998年長野オリンピックでのことである。
欧州選手権を連覇し、氷上を滑走するスルツカヤのスピードに乗ったスピンを観て、衝撃を受けずにはいられなかった。

とても、ポニーテールにリンゴのような赤いほっぺたの、まだ幼さが残る少女とは思えない。
そして、さらに私を驚愕させたのは、この少女のニックネームが“ロシアの未完成交響曲”だったことである。
独楽のようにクルクルと回転するスピンと高いスケーティング技術を誇る彼女のどこが、未完成なのだと…。

結局、ミスが重なり5位に終わる。
だが、俄かフィギュアスケートファンの私の記憶に、イリーナ・スルツカヤという名前が刻まれた。

偉大なる女王

翌年はスランプに陥ったが、2000年以降はグランプリファイナルや世界選手権を制すなど、女子フィギュアスケート界の女王として君臨した。

ところが、オリンピックでは、どうしてもあと一歩のところで戴冠を逃してしまう。
2002年のソルトレークオリンピックでは、サラ・ヒューズの一世一代の演技の前に逆転負けを喫し、銀メダルに終わる。
そして、優勝候補筆頭で臨んだトリノオリンピックでもフリースケーティングでのミスが響き、銅メダルで涙を呑んだ。

しかし、全盛時代のスルツカヤは、当時最高難度のトリプルルッツ&トリプルループのコンビネーションジャンプも決めるなど、高い技術点を誇った。
また、演技構成点においても満点をつけるジャッジもいるなど、技術・芸術性の両面で死角の見当たらないフィギュアスケーターであった。

そんなスルツカヤに悲劇が襲う。
難病認定されている自己免疫疾患に罹患してしまったのである。
突然の発熱とむくみ、そして激痛…。
全身に広がる炎症に加え、喘息も発症し、トイレに行くのもままならない。
とても、フィギュアスケートどころではなかった。

母親が病に倒れ、今度は自らが病魔に…。
次々と起こる不幸の連鎖に、普通ならば意気消沈し前を向くことなどできはしない。
ところが、イリーナ・スルツカヤは、その艱難辛苦をありのままに受け入れた。

「THAT’S LIFE」(それが人生) と。

そして、イリーナ・スルツカヤは病がまだ癒えぬ中、リンクに向かい立ち続けた。
イリーナ・スルツカヤが、世界中のフィギュアスケーターから女王として敬意を表されたのは、なにも実績によるものだけではない。
こうした不屈の魂とフィギュアスケートにかける思いがあればこそ、真の女王として崇められたのだ。

さらに、スルツカヤの偉大さを物語るのが、難病と共存しながらリンクに戻って来ると、ヨーロッパ選手権・グランプリファイナル・世界選手権と次々に制覇していったことである。
10代が活躍する女子フィギュアスケート界において、20代半ばで再び世界の頂点に立ったことは偉業以外の何ものでもない。

未完成に終わった交響曲

最終滑走者スルツカヤが演技を終え、キス&クライで得点が発表される。
その瞬間、荒川静香の金メダルが決まり、歴史的快挙に実況席は沸き立った。
興奮冷めやらぬ中、解説を務めていた佐藤有香のコメントに、私は感無量の思いが込み上げる。

「この10年間、女子フィギュアスケートはミシェル・クワンとイリーナ・スルツカヤが引っ張ってきた。しかし、クワンに続き、スルツカヤもオリンピックの栄冠に手が届かなかった…」

荒川静香による日本女子フィギュアスケート史上初の偉業を讃えつつも、気高き女王として永きに渡り銀盤の世界を牽引してきた偉大なフィギュアスケーターへ贈る哀惜の言葉。
とかく、日本人の金メダル獲得となると我を忘れ大騒ぎする傾向が強い昨今、佐藤有香という人物の見識の高さに私は深い感銘を受けた。
さすが、浅田真央の最後のコーチを務めた“マスター信夫”こと佐藤信夫の娘である。

佐藤有香のコメントを聞きながら、私は最後のオリンピックを怪我のために辞退せざるをえなかったミシェル・クワンの言葉を思い出していた。

「私はオリンピックで金メダルを取ることが夢だった。夢をつかむのがスポーツなら、夢に届かないのもまたスポーツ。でも、夢をつかむために精一杯努力することこそがスポーツなのだ。私は今まで精一杯努力した。だから、夢をつかめなくても悔いはない」

そして今、目の前に映っているイリーナ・スルツカヤに思いを馳せた。
交響曲の完成を見ぬまま、現役生活に別れを告げるイリーナ・スルツカヤ。
そんな彼女が演技終了後、笑顔で語った言葉。

「THAT’S LIFE」(それが人生)。

イリーナ・スルツカヤが紡ぎ出すその言葉に、私は堪えきれぬ無念が込み上げる。
だがそれ以上に、彼女の人としての偉大さ、そして尊さに心打たれる思いがした。


フィギュアスケートLife Vol.25 (扶桑社ムック)

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